ミトリダテス・海賊の脅威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)
「ローマ海軍」の記事における「ミトリダテス・海賊の脅威」の解説
地中海を制覇したローマは一時海軍を大幅に削減した。これにより地中海ではキリキア海賊を中心とする海賊が跋扈するようになった。彼らは拠点のキリキア周辺でよく活動したが、クレタ周辺やその他の地域でも大いに暴れ回った。キリキア海賊は、この頃ローマと戦っていたポントス王ミトリダテス6世からの援助を受け、その支援をもってローマに対し散発的な襲撃を繰り返し、ミトリダテスの戦争をサポートしていたのだ 。ミトリダテスとの最初の戦争において、当時、執政官であったスッラはミトリダテスの海軍に対抗するために、ありったけの船を徴収し即席の海軍部隊を構成した。寄せ集めの部隊であったにもかかわらず、紀元前86年、ルクッルスに率いられた彼らはミトリダテス海軍を打ち破った。(←en: Battle of Tenedos (73 BC)) ミトリダテスとの戦争が終結したのち、ローマはすぐに常備的な海軍を再設立し、エーゲ海沿岸部の同盟国らに100隻の軍船を提供させた。ミトリダテスからの防衛という観点から見るとこの規模の軍勢で十分補えるほどであったのだが、当時の地中海では上述の通り海賊が跋扈しており、その勢力は急速に増していたため、この程度の海軍では不十分だった。それから10年の間に、海賊は多くのローマ海軍指揮官を殺害。さらには海軍不足により防御されていない、イタリア半島をも含む多くの国土の沿岸部を襲撃し、首都ローマの港オスティアまでもがその被害にあった。プルタルコスが記した当時の資料によれば、海賊らの船は千隻を越え、四百もの街が海賊に占領されてしまった。という。続く海賊の襲撃により、ローマの経済は大打撃を受けた。また何人もの著名なローマ人が捕らえられ、身代金を要求されたという。捕らえられたローマ人の中には、2人のプラエトル(法務官:ローマでNo.2の立場の役職)とその従者、そしてユリウス・カエサルらも含まれている。海賊の悪行の中でも最も重要なものは、ローマの生命線となっていたCura Annonaeと呼ばれる穀物輸送ラインを妨害したことである。Cura Annonaeとは、ローマ領の中で有数の穀物生産地である北アフリカ・エジプト・シチリア島とローマ・イタリア半島とを結ぶ穀物輸送のための海上連絡網・輸送ラインであるが、これを海賊らに妨害されたローマは食糧不足に陥り、膨大なローマ市民を養うことが困難な状況に陥ってしまったのだった。 食糧不足は大きな政治的問題となり、民衆の不満は高まっていった。紀元前74年、3度目のミトリダテスとの戦争が勃発し、ローマの軍人マルクス・アントニウス・クレティクス(←彼はマルクス・アウレリウスの父親である)がプラエトリアニに任命されインペリウムという絶大な権力まで与えられた上で、ローマ海軍を率いて海賊の脅威に立ち向かった。しかしながら、彼は紀元前72年、クレタにて大敗を結し、海賊征伐という目的を果たせぬまま、この世を去った。そして紀元前67年、プレブス民会にて新たな法案が通過・成立した。この法律は、『ローマ軍20個軍団(歩兵12万、5000の騎兵)、軍船500隻、14名の元老院議員資格者からなる幕僚を投入すると共に総司令官としてこれらを統括する権限』をグナエウス・ポンペイウスに3年限りで付与するという前代未聞の法案であった 。ポンペイウスはこの大軍を率いて海賊討伐に向かい、たった3ヶ月であれほどローマを苦しめてきた海賊を綺麗さっぱり討伐した。海賊討伐後、ローマ海軍は再び削減されたが、沿岸をパトロールし、散発的な海賊襲撃を防ぐという任務を担うことになった。
※この「ミトリダテス・海賊の脅威」の解説は、「ローマ海軍」の解説の一部です。
「ミトリダテス・海賊の脅威」を含む「ローマ海軍」の記事については、「ローマ海軍」の概要を参照ください。
- ミトリダテス・海賊の脅威のページへのリンク