ブント崩壊後の全学連再編とは? わかりやすく解説

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ブント崩壊後の全学連再編

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 04:37 UTC 版)

全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「ブント崩壊後の全学連再編」の解説

60年安保闘争敗北後全学連運動急速に停滞期迎える。中心的活動家中には消耗」して戦線から離脱する者が出現し大衆も大闘争闘ったことへの安堵感疲労感広がり運動昂揚見せなくなった1960年打ち出した池田治内閣打倒スローガンの下での倒閣闘争では、全学連方針位置づけに関して迷走していることが露呈し活動家尖鋭的なアジテーション方針がかえって混迷深めていくという事態に陥っていた。1961年春の政治的暴力行為防止法案反対闘争になって60年安保とは比べ物にはならないにせよ、学生運動一定の高揚を再び見せ始めていた。 ブント崩壊後全学連握ったのはマル学同革共同であった。これは、崩壊した共産同のうち全学連書記局主要なメンバーマル学同移行したことによるまた、1961年4月第27回中央委員会時点マル学同代議員10であったが、全学連解体危機訴えマル学同指導握っていった。第17回大会直前1961年7月7日社学同、革共同関西派、社青同の三派はつるや旅館会合持ちマル学同反対する立場一致したいわゆる「つるや連合」)が、具体的な一致点見出すことはできなかった。第17回大会では反主流派=反マル学同派がピケットボイコット対抗した結果マル学同がはじめてここでゲバ棒戦術使い、それによって大会自体流会したとも)指導部マル学同独占し北小路敏委員長選出し、「反帝国主義・反スターリン主義」の方針決定した17大会内ゲバ嚆矢であるといわれる以降18大会19大会マル学同自派のみで開催した社学同は組織再建乗り出し全自連全学連再建協議会木内啓詞議長)を結成したことから、分裂組織形態上も決定的なものとなった。つるや連合は「全国自治会代表者会議」(全自代)を計画したが、これは運動の展開を第一目標とし、行動統一のみ行って執行部選出しないというものであった。。1962年革共同本体革命的マルクス主義派革マル派)と中核派分裂した20大会で革マル派中核派締め出し執行部占拠以後全学連は「革マル派全学連としての道をたどることとなる。社学同、社青同、構改派は12月に「三派連合」(旧三派連合)を結成し対抗した革マル派ヘゲモニーは動かなかった。

※この「ブント崩壊後の全学連再編」の解説は、「全日本学生自治会総連合の歴史」の解説の一部です。
「ブント崩壊後の全学連再編」を含む「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事については、「全日本学生自治会総連合の歴史」の概要を参照ください。

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