クヒスターンおよびアラムート時代
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「ナスィールッディーン・トゥースィー」の記事における「クヒスターンおよびアラムート時代」の解説
その後、トゥースィーは、当時ホラーサーン南方のクヒスターンにおけるニザール派の太守(ハーキム)であったナースィルッディーン・ムフタシャムの庇護を受け、人間道徳や家族、政治についての倫理について論じた『ナースィルの倫理学』を献呈している。ムフタシャムは当時、哲学などの諸学に通じ賢明かつ寛大な人物として知られており、『ナースィル史話』の著者ジューズジャーニーは1224年から数回に渡りこの太守と接見しているが、彼をホラーサーン地方で最高の哲学者、賢者と評している。1220年にチンギス・ハン率いるモンゴル帝国軍がマー・ワラー・アンナフルに侵攻し、6月にはジェベがホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドを追ってニーシャープールへ到達。翌1221年2月には前年11月にニーシャープールでチンギスの第四女トムルンの娘婿であったトクチャルが戦死したことの報復として、ホラーサーン征服軍を指揮していたトルイによる同市の徹底的な破壊が記録されており、トゥースィーはこれらの戦乱を避けるために当時学識、人望ともに高く、モンゴルの戦火から免れた多くの人々を保護していたムフタシャムの宮廷に他の学者たちとともに赴いた物と思われる。 このクヒスターン時代に、上述の『ナースィルの倫理学』の他に『服従の花園』(Rauḍat al-taslīm)、『品行と振舞い』(Sair wa Sulūk)、『友情と拒絶についての論文』(Risāla dar Tawallā wa Tabarrā)など多くのイスマーイール派の教義に関わる書物や論文を著している。 トゥースィーはモンゴル帝国のフレグがイラン地域を征服しに来た時、アラムートのニザール派第26代教主アラーウッディーン・ムハンマド (ムハンマド3世)と第27代教主ルクヌッディーン・フルシャー(ペルシア語版)によってアラムート近傍のマイムーン・ディズという城塞に幽閉されていたことが知られている。 『集史』や13世紀後半の歴史家カーシャーニーなどはクヒスターンの太守ムフタシャムの怒りを買ってアラムートの教主アラーウッディーンのもとに連行されたことのみが書かれているが、『ワッサーフ史』やティムール朝時代の歴史家ホーンダミールによると、トゥースィーがクヒスターン滞在中にアッバース朝最後のカリフムスタアスィムに頌詩を書き送り、宰相(ワズィール)ムアイイドゥッディーン・ムハンマド・イブン・アル=アルカミーを介してムスタアスィムに仕えようとしたという。それによると宰相イブン・アル=アルカミーは、トゥースィーの学識の高さから彼がカリフの宮廷に仕えるようになったら自らの地位を危うくするに違い無いと怖れ、頌詩を送り返して太守ムフタシャムにカリフと文通をはじめたトゥースィーは油断ならない人物だから警戒するように促した。この書簡を読んだムフタシャムは怒ってトゥースィーを監禁し、アラムートのアラーウッディーンのもとに来訪したとき、彼も連行してアラムート側に引き渡したと伝えている。 しかし、別の伝承では、教主アラーウッディーンが太守ムフタシャムのもとにトゥースィーが庇護を受けている事に羨望し、手勢のフェダーイーンを派遣してアラムートに赴くよう勧めたという。トゥースィーがこれを拒絶したため教主は殺すと脅迫して無理に連行させたともいう。いずれにしろ不本意なかたちでアラムートへ連れて来られたようで、1246年に彼が書いた『諸指示の注解』(Sharḥ Ishārāt)には現在の自らの困難な状態から救われるよう神への祈りの言葉が述べられており、アラムート時代のトゥースィーの境遇ははなはだ良くない状況だったようである。
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