カナダへの亡命とは? わかりやすく解説

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カナダへの亡命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 01:02 UTC 版)

シッティング・ブル」の記事における「カナダへの亡命」の解説

1877年5月シッティング・ブルあくまでも保留地入らず、彼を慕う者たちとともに、自由を求めて大いなる母」(ビクトリア女王)の治めカナダへ逃れた10月テリー将軍和平委員長となり、シッティング・ブル部族員を米国保留地に連れ戻すなら「全面恩赦」で迎えると持ちかけた。しかしシッティング・ブルはこう答えた。 「この国は今や我々の国だ。我々はこの土地留まりスー族溢れるようにするつもりだ。我々は我々の国をお前たちにやらなかった。お前たちは我々の国を盗んだのだ。お前たち嘘をつくためにここへ来ている。いいからその嘘を持ってとっとと国へ帰れ。」 1877年10月23日、「ニューヨーク・ヘラルド」紙は、「シッティング・ブル新し故郷」と、国境地図付きでこの有名な大戦士の「カナダ亡命」を書きたてた。彼らは国境の地で、4年間を過ごしたカナダ白人騎馬警官隊は手厚くはないが公平だった。しかし、スー族狩猟のための広大な土地割譲せよというシッティング・ブル要求その都度拒否された。合衆国側への遠征は、アメリカ軍によって阻止された。だが、カナダでもバッファローはほとんど白人によって絶滅させられており、カナダ激しい冬の寒さ飢餓が彼らを襲った大戦ピジゴール)も合衆国投降し1881年にはカナダ留まるスー族年寄り彼の身内185となったカナダ政府が彼らへの食糧供給拒否したとき、ついにシッティング・ブル飢えた同胞を救うため、合衆国への投降決意した。彼はカナダ騎馬警官に「我々は見捨てられた」と述べている。 シッティング・ブルとその一団は、ダコタ準州にあるビューフォード砦への110キロメートル旅路についたシッティング・ブル50になっていた。アメリカ軍のウィリアム・ボーエン中尉は彼を見て、こう同情の言を残している。 「耐え忍んできた心労空腹顕わで、彼は老いていた。憎むべき白人降伏し、彼が望んだ独立放棄することは彼の誇りをひどく傷つけた。彼はひどくやつれていた。」 1881年7月19日、ビューフォード砦で彼は8歳になる息子のクロウフットにライフル渡し部隊指揮官のデービット・ブラザトン少佐渡してくれと頼んだ。彼はこのとき、こう述べた。 「私の踏まえている土地はまだ私のものだ。私はそれを売らなかったし、誰にも与えなかった。私は部族の中で、ライフル引き渡した最後の男として記憶されることを望む。」 タタンカ・イヨタケはいつでもカナダに渡る権利要求しパハサパに近いリトルミズーリ川に近い保留地への移送希望した。しかし合衆国は彼がまた反乱を起こす考えて保留地南端ランドル砦に送りタタンカ・イヨタケ降伏合意条件違反して捕虜として二年間留置した。

※この「カナダへの亡命」の解説は、「シッティング・ブル」の解説の一部です。
「カナダへの亡命」を含む「シッティング・ブル」の記事については、「シッティング・ブル」の概要を参照ください。

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