オーストラリアへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 14:46 UTC 版)
「エディ・トムソン」の記事における「オーストラリアへ」の解説
1977年オーストラリアに新設されたオーストラリアン・ナショナルサッカーリーグ(NSL)のシドニー・シティーSC(英語版)に移籍し、ディフェンダーとして同シーズン優勝に貢献する。1980年からプレーイングマネージャーとしても活躍し、同シーズン終了後に現役引退し監督に専念、1980年から3年連続でチャンピオンシップ優勝、1986年NSLカップ優勝。オーストラリア最優秀監督に3度選出(1981年、1984年、1985年)された。ちなみにリーグ3連覇はNSL記録でもあり、NSLで指揮した過去の全監督の中でも驚異的な勝利記録を残している。 この間、オーストラリアサッカー連盟およびスコットランドサッカー協会の最上級ライセンスを取得した。 1984年からオーストラリアB代表(五輪代表)監督を兼務するようになる。B代表初指揮はメルボルンで行われた対グラスゴー・レンジャーズFC戦であり、0-0の引き分けに終わる。1985年からフランク・アロック(英語版)率いるオーストラリアA代表でアシスタントコーチも兼務する。 1990年、オーストラリアA代表兼B代表(五輪代表)監督に就任した。オーストラリア代表監督はそれまでクラブチームと兼務する形が一般的であったが、トムソンがはじめて代表専任スタッフとなった。A代表監督初指揮は、1990年9月6日ソウルで行われた韓国代表戦であり、0-1で負けている。1992年バルセロナオリンピックで最高記録となる4位入賞を果たした。 1994年、ネディエリコ・ゼリッチのボルシア・ドルトムント移籍において不正な関与があったとして代表監督解雇騒動に発展したが、元老院の調査で証拠不十分となり処分を免れた。 1994 FIFAワールドカップ・オセアニア予選を通過し、1994 FIFAワールドカップ予選大陸間プレーオフでは本大会出場をかけアルゼンチン代表と対戦するも敗れ本大会出場を逃す。1996年、アトランタオリンピックでのグループリーグ敗退。同年末、サンフレッチェ広島からオファーを受けたため代表監督を辞任する。 代表監督時代のトムソンは、ハリー・キューウェルやルーカス・ニールらの若いタレントを抜擢し才能を開花させた。この抜擢された選手がのちに2006 FIFAワールドカップにおいてオーストラリア初のW杯グループリーグ突破に貢献している。
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