アルクタイの支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:33 UTC 版)
「ウリヤンハイ三衛」の記事における「アルクタイの支配」の解説
トグス・テムルの死後、モンゴリアでは東方のドチン・モンゴル(四十モンゴル、明側では韃靼と呼称)と西方のドルベン・オイラト(四オイラト、明側では瓦剌と呼称)が覇権を争う時代となった。このような中で、三衛はしばしば勢力拡大を図るモンゴル勢力の侵攻に晒された。オルク・テムル・ハーンは元の末裔である三衛とコムル(ハミ)が明朝に内属するのを不快に思い、これを窺っていた。また、次代のオルジェイ・テムル・ハーンは永楽七年(1409年)に三衛を襲撃している。一方、15世紀初頭に東モンゴルの有力者であったアルクタイは独自に三衛を統制下に置いており、永楽八年(1410年)に永楽帝の親征を受けた際、三衛に逃げ込むほどであった。また、アルクタイは三衛の支配層と婚姻関係を持つなど強い結びつきを有しており、永楽帝晩年の韃靼遠征の目的の1つにアルクタイと三衛の結びつきを断つことがあったとする説もある。 永楽帝晩年の親征によってアルクタイの勢力が衰えると、三衛は次第にこれに離反するようになった。洪熙元年(1425年)2月には三衛は明に通じて馬市を許されており、同年11月にアルクタイはこの背反を責めるため三衛を攻撃している。宣徳六年(1431年)にアルクタイがオイラトに敗れると、翌年三衛はこれを侮って略奪を行ったが、逆にアルクタイの大攻勢を受け、三衛の部衆は海西女直にまで逃げ込んだ。しかし、オイラトのトゴンによってアルクタイが追い詰められると三衛はこれに協力してアルクタイを攻め、宣徳九年(1434年)にアルクタイは亡くなりモンゴル(韃靼)の勢力は瓦解した。これ以後、それまで明朝の辺境を犯していた三衛は明と通好するようになり、明朝に使者を送ってモンゴルに進出することを要請するようになった。これは、没落したアルクタイの勢力に代わって東方に進出してきたオイラトのトゴンの勢力に対応するためであると考えられている。
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