一般2019年01月09日 再び大学を卒業して(法苑186号) 法苑 執筆者:佐々木茂美
平成三〇年三月、京都大学大学院法学研究科での五年間の教員生活を終え定年退職しました。私がこの大学の法学部を卒業したのが昭和四六年三月のことですから、その後四〇年余りの裁判官生活を挟んで、再びキャンパスを去ることになったわけです。
大学のある古都の洛北は、温かくなると桜が咲き乱れ、目にも鮮やかな青葉の候を経て、あの炎暑が五山の送り火を境に去るとともに、楓や銀杏、紅葉が色を織り成し、そして、東山連峰の冠雪、それに続く底冷えといった四季折々がものの見事に体感できるところです。大学の構内も、新入生の歓声があがることはあっても、普段はツアーの中学生・高校生やその保護者の方々のほか、世界各地からの、とりわけ近年は東南アジアの衣装をまとった留学生や春・秋季に開催される学会に集う研究者の方々が行き交うくらいで、総じて静寂な空気に包まれています。また、時計台と法経本館の間にある中庭などで、木立の蔭で読書や思索に耽る学生たちを見掛けるにつけ、往時とは異なり学びの場に相応しい雰囲気が漂っているように思います。
この五年間は、一言でいえば、このような恵まれた環境の中で法律実務家としての自らの経験を若人の将来に繋ぐ日々であったということができると思います。そこで、ここでは、大学で実際に試みた取組の一端を振り返ってみます。
まず、法科大学院では、「民事訴訟実務の基礎」(二年次前期必修)と「民事裁判演習」(二・三年次後期選択)とを担当しました。前者は、要件事実と事実認定の基礎理論をコアとするものですが、この五年間に座学形式の授業を極力減らすとともに、課題(原・被告双方の言い分を四ないし五枚程度に綴った問題文や訴訟記録)を与え、主張整理、事実認定等を起案して提出させた上、添削して返還し、問題点を検討させてから講評する形での授業を最大限まで増加させ、併せて課題そのものを毎年更新する作業を行いました。五〇数人の起案に手を入れるのですから、大変な時間と労力を要することになりますが、学生一人一人のレベルとその推移を的確に把握できることは勿論、クラス全体の水準ラインを見定めることができました。そして、これに照準を合わせて全員をその上の水準にまで引き上げるよう努めるとともに、さらに優秀起案のレベルまで理解を深めてもらうため、その誘い水となる問いかけをいくつか投げかける授業を堅持しました。授業後の質問には長蛇の列ができるのが常で、その対応にいつも二時間程度はかかっていたように思います。学生は、どの学年も総体として向学心に富み、なかにはどこまでも食いついてくる者が何人かいました。これも、民法、民訴法の研究者がしっかりと鍛え抜いてくださったおかげで、我々実務家が、いつも事象の多様性と多層性に踏み込み、法理論を駆使して事案の成り立ちを法的に解き明かしていく実務の過程を具体的に示すことができたのだと思います。先日、他学部出身の未修者で司法試験に合格した学生と会食した折、「自分も含め、どの学生も先生の課目に目の色を変えて取り組んでいました。私自身、当初は、ちんぷんかんぷんでしたが、半ば過ぎから分かりだし、そのため民法や民訴法で教えられたことも分かるようになってきました。」、「司法研修所から送られてきた集合修習の、課題が、起案した演習に比べてはるかにやさしいと思いました。」と話してくれました。確かに、「民事訴訟実務の基礎」は、教材改訂作業を連綿と続けるうちにかつての旧司法修習前期に修得すべき段階まで達していたのかもしれず、二年次前期の学生には少し手強かったのかもしれません。
後者の「民事裁判演習」は、民事手続法理論も絡めた訴訟運営の展開とダイナミズムを掘り下げる課目です。一冊の訴訟記録をバラバラにし、訴えの提起から和解・判決まで記録の一部分を順次配布して問題点を検討する方式の授業で、学生自身も、訴状審査のほか、争点整理、交互尋問、和解の各段階を実演し、判決の骨子作成にまで至り、自ら訴訟記録を再現することになります。原・被告二当事者だけでは面白くないと考え、あえて訴訟告知や参加の書面を作成し、それも加えて記録の一部としたので、多数当事者訴訟が実務では経時的にどのように展開していくのかも修得できることになります。この演習を履修すれば、おそらく、司法修習の要である実務修習にもスムーズに入ることができるようになるはずです。毎年の司法試験終了後、幾人もの学生からメールで合格の報告と喜びの声が寄せられるにつけ、この法科大学院では、実務家教員と研究者教員とがタイアップして、学生の法的思考力・分析力を磨き上げ、新たな紛争の解決に対処できる能力の基礎を培い、将来に備える法理論教育を実践できていることの現れであるとの思いを強くしました。
また、平成二八年度から、教養・全学共通教育として一〜四回生を対象とする「裁判制度入門」を、法学部教育として主に二回生を対象とする「現代社会と裁判」を講義することになりました。まず「裁判制度入門」ですが、設定曜日の関係で、法学部以外の学部生のみを対象とすることになったようで、希望者多数(二八〇人程度)のため無作為抽選で選ばれた四〇人の受講者のほとんどが理系学部生で、文学部・経済学部生は僅かといったメンバー構成でした。したがって、シラバスは作成したものの、どのようにカリキュラムを組み、予習レジュメを作成し、授業を進めるか大いに迷いました。そこで、主にアジア系留学生に対して授業していた「日本の裁判制度の概要」の資料を詳しくしたものを配付した上、民事・刑事・家事・少年裁判の実際について、自らの体験を基に講義し、さらに、グローバル化の進展や科学技術の革新に伴い、我々の社会に投げかけられる倫理的、法的な課題、例えば、Io T、ビッグデータ、AIのもたらす産業構造の再編や生命科学、とりわけ遺伝子情報の解明に伴う治療・生殖への影響といった論点のうち、毎年二つばかりを取り上げ、討議形式の授業を試みました。その上で、最終の授業では、研究者志望の学生が多いことから、「研究者の不正とコンプライアンスの在り方」を論ずることにしていました。いわば試行錯誤の連続で授業を行っていたというのが実情ですが、全授業終了後のフィードバックを研究室で行った際、理学部四回生から、「先生が講義の中で、科学技術の進展が法的制度に変革をもたらすと話された点について、これから大学院で物理学を学ぶ者にとってとても印象深かったので、その点をより深く議論したいと思って参りました。」といろいろな角度からの意見をもらいました。私も、原発の多重防御システムの安全性や先進医療の開発に伴う問題点、さらにAIの自動車運転事故等を例に上げて、長時間にわたり対応したことは忘れられません。あるいは私自身が何気なく述べたかもしれない一言さえも受けとめて、それを消化すべく訪ねてくれた学生がいたことは、とても鮮烈な思い出となりました。それ程でないにしても、授業後帰り際に質問に来る学生の一人一人がこちらの方で気付かない発想で質問してくれたのは、この講義の醍醐味であったように思います。
次に、法学部生を対象とする「現代社会と裁判」を始めるきっかけは、折からの弁護士人口の増大により、就職できない司法修習生の実情を消極的に喧伝する報道等があり、法曹志望の学生の減少傾向が顕著になってきたことによるものでした。その具体的な内容は、裁判制度の仕組みと運用、その担い手である法曹が現実に果たしている役割や実像を組み込んだものとし、このような授業をすることにより、学生の進路選択の幅も拡がるのではないかと考えました。授業は、(1)司法制度の概要、(2)民事裁判の仕組みとその運用、(3)刑事裁判の仕組みと運用の構成とし、私は、このうち(1)を担当しました。憲法・刑法・民法を習い始めた二回生を主に対象とするので、「法の支配」の理念、「三権分立」の基本思想、そして「司法権の独立」といった原理の理解に多くの時間を割くとともに、裁判所の運営については裁判部門と司法行政部門に分け、前者は、法令審査権の行使の在り方を民刑各二件の判例を反対意見も含め読み解き、後者は、司法行政の実際として、危機対応、メディアカバレッジ等を講じ、さらに法曹像の変遷にも言及しました。専門科目を学び始めた一二〇人程の受講者にどのように対応すればよいのか、これも手探りの中で準備しただけに、今後どのように展開していくかは、後任の方に委ねるほかはありません。ただ、判例を読み解く形で進めた法令審査権の行使の現状について、幾人かから質問があったのは、学生の関心の在処を示すものといえるかと思います。
このようにいろいろな考え方・発想を抱く学生たちと親しく接した五年間を回顧するとき、学生たちが研究職、法律専門職、民間企業いずれの道に進んでも、そこで何を果たすべきかを見据え、一歩一歩着実に自らの人生を築き上げ、「勇ましい高尚なる生涯」を未来に遺して欲しいと念願するこの頃です。
(元大阪高等裁判所長官、元京都大学教授)
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