平城宮跡(奈良市)から出土した「倭歌」という語が記された奈良時代の木簡が、漢詩に対し日本固有の歌を示す「やまとうた」の使用例として最古の可能性が高いことが分かり、奈良文化財研究所(奈文研)が31日発表した。指摘した瀬間正之・上智大学教授(上代文学)は「奈良時代に『倭歌』という語が既に広まっていた証しとして貴重だ」としている。
木簡は長さ約30センチ、幅約3センチ。役所跡に当たる東方官衙(かんが)地区の排水路から令和2年12月に出土し、奈良時代中頃(8世紀半ば)以前のものとみられる。「倭歌壱首」として歌らしいものが表裏に書かれており、「倭歌」の語が記された木簡としては初の出土例となる。
瀬間教授によると、奈良時代末期ごろに成立した万葉集の後世の写本には「倭歌」との記載があるが、問いかけの歌に答える「こたえうた」の意味で使われる「和歌」と表記される写本もあり、原本で「倭歌」が使われたかは不明だ。
これまで「倭歌」が明確に意識されたのは古今和歌集が成立した平安時代以降と考えられていたが、今回の木簡で既に奈良時代に「倭歌」の語が普及していた可能性が生じた。瀬間教授は「写本で伝わっている万葉集ではなく、木簡という生の資料に書かれた『倭歌』が見つかったことが重要」と話している。
「倭歌」の木簡は平城宮跡資料館で11月1~13日に開催の「地下の正倉院展」後期で公開される。
奈良時代に「日本の歌」意識 役人が書き留めたか
木簡は奈良文化財研究所(奈文研)の発掘調査により約2年前に出土し、その後、洗浄や解読が進められた。その結果「倭歌」という語と分かり、今年10月に瀬間正之・上智大教授の指摘で最古とみられることが判明。天皇に近い中枢の役所跡周辺から出土し、書いたのは役所勤めの役人と考えられている。
日本最古の歌集である万葉集には7~8世紀に詠まれた約4500首が収録されているように、奈良時代には国内で多くの歌が詠まれていた。
「木簡に記された『倭歌』の語は、当時の人たちが漢詩と日本の歌を明確に区別していたことを裏付ける内容だ」。国学院大学の上野誠教授(万葉文化論)はこう評価する。
木簡では「倭歌壱首」の表記に続き、「多奈久毛利阿米布良奴(たなくもりあめふらぬ)」とも読める部分がある。上野教授は「『雨が降らないかなあ』といった意味で記したのかもしれない。和歌を作ろうと推敲(すいこう)しながら、フレーズを書き留めていた可能性がある」と指摘し、「書き手は宴会で歌を披露する機会が多かったのかもしれない。それなりに位の高い役人だったのでは」と推測した。
木簡の時期について奈文研は、出土した層から奈良時代中期以前としている。奈文研の馬場基(はじめ)・史料研究室長は「当時は疫病で国の力が落ちた後、大仏造立へと乗り出した時代。その頃から、自分たちの文化への自信と意識が芽生えていたと思うとわくわくする」と話した。