■3軍団をローテーション
徳川家康の高天神城奪還作戦は、まず馬伏塚城(袋井市)と岡崎城(同市)を改造することで始まった。さらに横須賀城(掛川市)を築いて新たな拠点とし、次第に高天神城に迫った。
天正8(1580)年3月になると、松平家忠の『家忠日記』に「大坂(砦(とりで))普請出来候」との記述が現れ、慌ただしく続けて「中村(砦)普請出来候」とあり、よく知られる「高天神六砦」(他に小笠山砦、能ケ坂砦、火ケ峰砦、獅子ケ鼻砦)の付城包囲網が完成し、城攻めはいよいよ佳境に入る。
『高天神記』によると、大坂砦の守将は徳川譜代の酒井与四郎重忠。家忠も同年10月、「まわり番」として布陣した。『松平記』には「御旗本と合三備也」とあり、徳川方が3つの軍団のうち1つを休ませながら動くシフトを取っていたことが分かる。
大坂砦は高天神城から南2・5キロメートル地点の丘陵上に位置し、山上に清水が湧く3つの井戸と「三井の大日堂」があったことから、「三井山砦」とも呼ばれている。
城域は南北300メートル以上と広大であるが、残念ながらその後の茶畑開墾で著しく改変してしまい、特に主要部は現在では棚田状になってしまっている。ただ良く見ると、山腹には空堀の外側土塁が竪堀状に残り、土地の老農が下段に堀跡があっことと、家康の本陣が置かれていたことを教えてくれた。(静岡古城研究会会長 水野茂)