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極悪非道の子殺し大名…権謀術数に長けた【最上義光】はどんな人生を送った?

戦国レジェンド


大河ドラマ「独眼竜政宗」で伊達政宗と争い、悪逆非道の大名として知られる最上義光。客人の暗殺や子殺しなど、権謀術数を駆使したエピソードは数知れず。しかし、領内で一度も一揆が起きなかった名君としての側面も持っている。彼は果たしてどんな人生を歩んだのか?


 

■権謀術数を駆使し覇権を得たが領内では一揆は起きていない

最上義光
最上統一後は伊達政宗、上杉景勝といった強敵相手に互角以上の戦いを見せ、その後は城を整備するなど山形の発展に貢献した。

 最上義光(もがみよしあき)は、出羽(でわ)国の山形城主・最上義守(よりもり)の子として生まれている。義光は義守の嫡男であり、家督継承の有力候補だった。しかし、義光は、義守と対立しており、順当に家督を継承できたわけではない。

 

 対立の原因は、義守が義光の弟義時(よしとき)に家督を継がせようとしたことにあるといい、このため義光が義時を殺害したと伝わる。ただし、同時代の史料には義時についての記述が見られないため、義光を梟雄(きょうゆう)として印象づけるための後世の創作であったとみられる。それはともかく、親子での対立があったのは事実とみられている。

 

 こうした最上氏内部での家督継承の混乱もあり、出羽国内では、天童頼貞(てんどうよりさだ)を中心にその一族の東根頼景(ひがしねよりかげ)・上山満兼(かみのやまみつかね)、あるいは白鳥長久(しらとりながひさ)のような国衆が自立化を図ろうとしていた。そのため、家督を継いだ義光は、かなり強引な手段を用いて、敵対勢力の制圧に乗り出している。

 

 上山満兼に対しては、その家臣里見民部(さとみみんぶ)に内通をもちかけて殺害させ、東根頼景に対しても、その家臣里見景佐(かげより)に内通をもちかけて殺害させた。このように一族の結束を瓦解(がかい)させた義光は、天童頼貞の死により跡を継いだ子の頼澄(よりずみ)を追放した。

 

 出羽国内において、義光と対立していた国衆が、白鳥長久である。白鳥長久は、出羽国村山郡、現在の村山市付近を領地としている。出羽の平定を図る義光にとっては邪魔な存在であったが、それだけでなく、白鳥長久は織田信長(おだのぶなが)にも通じて出羽守の称号を得ようと画策していた。

 

 こうした動きを読んだ義光は、天正12年(1584)、重病と称して白鳥長久を居城の山形城に招く。江戸時代初期に成立した『最上義光物語』によれば、病床に伏せっていた義光が白鳥長久に対し、「嫡男の義康(よしやす)が成人するまで後見をお願いしたい」と言って、先祖伝来の家系図も渡したという。そして、白鳥長久がその家系図を受け取ると、隠していた太刀で暗殺したと記されている。

 

 残念ながら、この話がどこまで史実を伝えているのかはわからない。ただ、白鳥長久が義光に暗殺されたのは確かなようで、こののち、白鳥氏は滅亡し、最上氏による覇権が決定したのである。

 

 いくら対立していたとはいえ、見舞いに来てくれた客を暗殺するというのは、悪逆非道の誹(そし)りを受けたとしても致し方ないかもしれない。ただ、義光は軍勢を動かすことなく勝利を得たわけであり、領民の生活を救ったとみることもできる。実際、義光の存命中、領内では一揆も起こらなかったと伝わっている。

 

■長男の義康を家臣に命じて殺害したのは本当なのか

 

 義光は同族である陸奥の大崎(おおさき)氏から正室を迎えていた。そのため大崎氏を甥の伊達政宗(だてまさむね)が攻めたことにより、義光と政宗との関係は悪化した。

 

 大崎氏から迎えた正室は、大崎御前あるいは大崎夫人と称され、長男義康と次男家親(いえちか)を産んだとされる。義光には6人の男子がいたが、このうち、義光は長男の義康に家督を継がせようと考えていたらしい。

 

 豊臣秀吉の死後、豊臣政権では五大老の徳川家康(とくがわいえやす)と五奉行の石田三成(いしだみつなり)が対立し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いがおこる。このとき、義光の本城である山形城は、陸奥の会津から出羽の米沢までを領国としていた上杉景勝(かげかつ)に攻められることとなった。これを世に慶長出羽合戦という。

 

 この慶長出羽合戦において、義光の長男義康は、援軍の要請をするため伊達政宗のもとに赴き、また、関ヶ原の戦い後には、会津に撤退する上杉軍を追撃するなど活躍した。こうしたことから、家督の継承も円滑にいくものとみられていた。

 

 しかし、こののち、義光と義康の関係は急速に悪化していく。それはたんに父子の仲が悪くなったというものではなく、根本には家臣の権力争いがあったものとされる。

 

 父子の対立が続けば、御家騒動となってしまう。場合によっては幕府により改易されかねない。そこで義光は、次男の家親に家督を譲ろうとしたようである。

 

 徳川家康から偏諱(へんき)を受けていた家親は家康の覚えもめでたく、このころには、家康の子秀忠(ひでただ)に仕えていた。家親に家督を継がせれば、改易は免れると義光は考えたのである。

 

 慶長8年、義光は義康に対し、高野山に入って出家することを命じた。そこで義康は父の命令に従って高野山に向かったのだが、その途中、義光の家臣によって殺害されてしまう。自らの子を殺害したということも、義光が梟雄とよばれる一因である。

 

 ただし、義康の殺害を義光が命じたものなのかはわかっていない。少なくとも、本意ではなかったのだろう。こののち義光は、義康の菩提(ぼだい)を弔うため、山形城下の常念寺を菩提寺としている。

 

 慶長19年に義光が病死すると、家親が家督を相続した。しかし、その家親も3年後に急死してしまう。毒殺も疑われているが、義康の死が関係していたものかもしれない。それはともかく、急死した家親の子義俊(よしとし)がまだ幼かったことから御家騒動がおこり、結局、最上氏は幕府によって改易されてしまったのである。

 

監修・文/小和田泰経

歴史人2023年3月号「戦国レジェンド」より

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