沖縄現地から見れば、まさに朝令暮改、あり得ないような方針転換だった。

 1944年7月、第9師団が満州から沖縄に到着した。沖縄の第32軍の中でも最精鋭とうたわれた第9師団に、台湾への転出命令が下ったのは、同年11月のことである。

 フィリピン方面での決戦に備えるための措置だったが、それにしてもわずか4カ月の沖縄配備。

 第32軍は、第9師団を含む主力部隊の配置を9月末までに終えており、大本営の命令に強い衝撃を受けた。

 作戦を起案する役割を担っていた八原博通高級参謀は、戦後に出版した著書でこう記している。

 「沖縄防衛の希望はこれを契機として永遠に消滅し」た(「沖縄決戦 高級参謀の手記」)。

 守備手薄な沖縄から精鋭部隊を引き抜いたことは住民にも不安を与えた。

 現地召集された新兵の多数が、同部隊に配属されていただけになおさらである。

 大本営は45年1月、第9師団の穴埋めとして姫路の第84師団を派遣すると伝えた。だが、この案も本土の兵力不足などを理由に派遣中止となった。

 第32軍は、作戦計画の大幅な練り直しを迫られた。

 航空作戦を重視し、県内各地に飛行場を建設することによって沖縄を「不沈空母化」する。それが大本営の考え方だった。

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 第32軍の新たな作戦計画は、それと全く異なる内容だった。

 読谷、嘉手納に建設された北、中飛行場の確保を断念し、洞窟陣地を利用して持久戦に持ち込む。そのような持久作戦を打ち出した。

 45年4月1日、本島に上陸した米軍は何の抵抗も受けず、その日のうちに北、中両飛行場を占領した。現地軍にとっては想定内の事態だったが、大本営は大きな衝撃を受けた。

 参謀総長の戦況説明に対し、昭和天皇はこう語ったという(「沖縄県史 各論編6」)。

 「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ 兵力足ラザレバ逆上陸モヤッテハドウカ」

 大本営や上級司令部などから飛行場奪回を求める声が相次いだことから、第32軍は2度にわたって攻勢をかけたが、いずれも無残な失敗に終わった。

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 第9師団転出に伴う兵力不足を補うため第32軍は、さまざまな職業の人々を文字通り根こそぎ動員し、戦力化した。

 正規兵は壕の奥深くに潜み、彼らが命じるままに学徒らが爆雷を担いで斬り込みに駆り出されるという事態も起きた。

 沖縄戦で住民の犠牲が飛び抜けて多かったのはなぜなのか。

 ミサイルの時代に抑止に失敗すれば、ミサイルの発射基地が狙われる。

 戦争の危機が叫ばれている今、その問いの切実さは増すばかりである。