ヤクザから俳優に転身し、作家、プロデューサーとしても活動した安藤昇さんが16日午後6時50分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。89歳だった。1週間ほど前に体調を崩して入院。家族にみとられて亡くなった。

 俳優業から遠ざかっていた安藤さんは今年8月、家相などの鑑定や開運を研究する「九門社」を立ち上げる一方、執筆活動も続けていた。死去翌日17日に最後の著書となった「男の品位」が出版された。

 異色の経歴を持つ映画スターだった。少年時代は少年院に収容されるなど荒れた生活を送った。海軍予科練で特攻隊の訓練を受けたが、終戦を迎えて復員。法大を中退後、東京・渋谷を本拠地にした愚連(ぐれんん)隊を結成。1952年(昭27)に不動産の売買や飲食店の用心棒、賭博なども手掛ける東興業を設立。後に「安藤組」と呼ばれる一大組織となり、組長として1000人を超える組員を率いた。その中には作家安部譲二氏らもいた。

 58年に、後にホテルニュージャパン社長となる実業家の横井英樹さんとトラブルになり、組員を伴って襲撃事件を起こした。恐喝などの容疑で指名手配を受け、都内で逮捕された。6年間の服役後、64年に安藤組を解散した。

 翌65年に手記「激動」を映画化した「血と掟」に主演して映画俳優に転向し、松竹と専属契約を結んだ。精悍(せいかん)なマスクに、左ほおに本物の刀傷がある元ヤクザの迫力もあり、たちまち人気俳優になった。専属契約した会社の映画にしか出演できない「五社協定」時代の67年に、東映「懲役十八年」に主演。鶴田浩二さんや高倉健さんらに次ぐ人気を誇った時期もあった。

 安藤組を題材にした実録映画にも出演。74年には映画「安藤組外伝 人斬り舎弟」でプロデュース業に進出。横井英樹襲撃事件後の逃亡生活も映画化した。76年の主演映画「任侠外伝 玄海灘」の撮影で実弾入りの短銃を小道具として使い、監督の唐十郎とともに逮捕された。04年に原作と企画を担当した自伝の映画化「渋谷物語」に本人役として出演したのが、61本目にして最後の映画出演となった。

 ◆安藤昇(あんどう・のぼる)1926年(大15)5月24日、東京都生まれ。少年時代は少年院に入るなどした。法大中退後の52年、東京・渋谷を拠点に「安藤組」を結成、1000人を超える組員を率いた。横井英樹襲撃事件で6年間服役。64年に安藤組を解散。翌65年に映画「血と掟」で映画俳優に転向。映画はヤクザ映画を中心に58本に主演。著書は「男の顔は履歴書」「男の覚悟」など。