“福田村事件”101年 現代に問いかけるものは
- 2024年12月2日
1923年に発生した関東大震災で、地震から5日後の9月6日、現在の千葉県野田市(当時の福田村)で起きた「福田村事件」。香川県から来た行商の一行が突如襲われ、女性と子どもを含む9人が殺害された。きっかけは、震災後の混乱と飛び交う流言。事件は長い間一部で知られるのみだったが、100年がたった去年、事件を題材にした映画が上映されるなど多くのメディアで取り上げられた。いま、被害者の出身地や現場の地域でも、事件と向き合う動きが少しずつ広がっている。事件が現代に問いかけるものは何か。
(千葉放送局成田支局記者・武田智成)
福田村事件とは
市川正廣さん(81)は、福田村事件について20年以上調査を続けてきた。事件を知ったのは、野田市の職員として勤務していた頃だったという。1923年、関東大震災の5日後の9月6日、香川県から薬の行商に来た一行が福田村を通りかかった際、地元の自警団に襲われ、9人が亡くなった。
国の中央防災会議の報告書によると、震災直後の混乱の中、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言が広がり、各地で多くの朝鮮半島出身者が殺害される事件が相次いだ。各地では自警団が結成され、福田村でも自警団による警戒が続いていた。
こうした中、家族や親族で行動していた行商の一行の15人が福田村を訪れていた。村を流れる利根川から対岸の茨城県へ渡ろうと渡船場に行ったのち、近くの神社の鳥居で6人、そこから30メートルほど離れた水茶屋のベンチで9人が休憩していた。すると自警団がやってきて、「見かけない者だ」と一行を囲む。震災直後の恐怖と不安が渦巻く中、団員の中には一行を「朝鮮人だ」と疑う者もいて、これらをきっかけに一行を襲い、9人が殺害された。
101年前の事件で、資料や記録がほとんど残されておらず、不明な点は多い。市川さんは当時を知る人や遺族に聞き取りを行うなど調査を重ね、行商の一行が震災直後から福田村までたどってきた足取りなど、事件の一端を明らかにした。一行のうち生き残った人の証言などから、震災直後、村の隣町(当時の野田町)の木賃宿に滞在したあと、治安が安定しない中で9月6日に福田村に向かったことが分かった。市川さんは、その途中で一行を目撃した人から話を聞き、その証言からは「見慣れない集団」というだけで不安にかられた当時の人びとの様子が伝わってきたという。
市川正廣さん
少年が、この行商団を目撃しています。「人通りが誰もいないところを、異様な集団がぞろぞろ行くのをはっきり覚えてる」と話していました。ふだんだったら「異様」には見えないはずですが、震災直後の心理状態では、そのように見えてしまったのでしょう。
一歩を踏み出す遺族
市川さんは2003年に市民グループを立ち上げ、事件を調査してきた。同時に建立された慰霊碑の前で、事件が起きた9月6日に合わせて毎年、追悼行事を開いてきた。震災100年の節目に開かれた去年の追悼行事には、被害者の遺族を含めて多くの関係者が出席した。ことしは去年ほどの規模ではなかったものの、新たな動きが見られた。初めて、被害者の直系の遺族が参列したのだ。
香川県から参列した、遺族の谷生和也さん(66)。事件で殺害された祖父母を悼んだ。事件当時、祖父は29歳。自宅には写真が残されている。谷生さんは、去年事件が大きく取り上げられるまで、事件についてはほとんど知らなかった。地元の香川県でも事件についてはあまり語られなかったという。
谷生和也さん
それまでなぜ祖父母がいなかったのか、分かりませんでした。ですが、私が20歳の時、母親が少し話してくれました。「事件に巻き込まれて殺されたのだ」と。ただ詳しく教えてくれませんでした。多分、話せないというか話したくなかったんだなと思います。やっぱり身内が殺された話なんて言いたくないと思います。母親もそういう心情だったと思います。母親は20年前、追悼慰霊碑が建立された際、行事に参加しました。ですが、そのときのことさえも話したがらない様子でした。
谷生さん自身もこれまで事件について積極的に知ろうとはしなかった。いま振り返ると、無意識に事件を避けていたように思うという。だから母親にもそれ以上詳しくは聞かなかった。だが、その心境に大きな変化が見られた。去年、事件がメディアで取り上げられたことに加えて、自身の年齢から、先祖のことを考えるようになったのだ。
谷生和也さん
これから自分があと何年生きるかわかりませんが、自分の目で見て、ここで殺されたんだなというのを見て、こういうことがあったんだなと、ちゃんと後世に残さないといけないと感じました。
谷生さんはことし追悼行事に参列した際、市川さんと初めて会い、長年事件を伝え継いできた市川さんに対して感謝を伝えた。そして引き続きたくさんの人に事件を知ってもらいたいと話した。
谷生和也さん
現場の野田市でこんなにも事件を調査し伝え継いでくれる人がいるのは本当にありがたい。我々の先祖も、何の罪もないのに、このような目にあったのはそれはつらかったと思います。どうして、ということはあったと思う。だけどもうそれをね、言ったところで生き返るわけでもない。これからこういうことがないように、少しでも減らすためにも、事件をもっと知ってもらいたい。
さらにこの日、追悼行事のあと参列者に向けて市川さんによる事件の勉強会が開かれた。そこで谷生さんは事件の背景にあった流言と差別意識の根深さを感じたという。
谷生和也さん
日本人だけでなくいろんな国の人に対しても、絶対に差別はあってはならない。これをこの機会に少しでも色んな人に知ってもらえるとありがたい。情報が得られないという不安と、潜在的な差別があったからこのような悲劇が起きてしまった。今でも同じようなことが起こりうると思う。例えば南海トラフ(地震)などが今度あれば、同じようなことが起こるのではないでしょうか。
現在も続く“流言飛語”
事件から101年。こうした差別意識や流言は、今も私たちの身近なところに現れる。ことし1月の能登半島地震でも、SNS上で外国人への差別意識がにじむ投稿が見られた。関東大震災で広がった流言を想起させる「朝鮮人が井戸に毒」といった投稿もあり、こうした投稿の閲覧数は少なくとも50万回を超えていた。「外国人の強盗団が被災地に来る」といった投稿も、震災の直後から相次いだ。
コメント欄には投稿に同調するような差別的な反応も。
Xでは災害時だけでなく日常的に、差別的な投稿や根拠のない投稿を繰り返しているアカウントも存在している。
語り続ける 地元の責務
事件を調査してきた市川さんも、こうした現状を懸念している。
市川正廣さん
時代が変わっただけで、当時の、人の口から口に伝わったのと全く同じですよ。ツールが変わっただけです。それをコントロールできない我々は、まだまだ未熟だなと思います。忘れてはならないのは、そのことによって被害を受ける人がいて、最悪は命まで襲われるということ。簡単にフェイクニュースだとか言いますけども、それを作って面白がってる人などは絶対許しちゃいけないという社会意識を作っていく。それには正しい情報をきちんと示していくことが大事だということだと思います。教育でもいろんな行政の中でもそのことを常に考えていかなきゃいけない。SNSは便利です。ただ、それによって同じようなことが起きるのなら、101年前と同じで、人の命が奪われる人災です。情報を正しく使う努力を我々は常に続けていきたいと思っています。その上でも、福田村事件を学ぶことが、防止につながる。
こうした悲劇を2度と繰り返さないために市川さんはフィールドワークを続けている。年に4、5回ほど実施し、全国から多くの人が参加。これまでに教育関係者など3000人に伝えてきた。そして、その活動が実を結んでいる。去年6月には野田市の市長が初めて公の場で弔意を表明するなど、新たな動きも出始めている。
活動の先に起きた変化
少しずつ事件が知られるようになってきたことで、ことし、もう一つの大きな変化が見られた。市川さんが、事件現場の地域の自治会長と初めて会い、事件について直接意見を交わすことができたのだ。市川さんの調べによると、事件について現場の地域では語られず、タブーとされてきた側面があるという。香川と千葉の両方の地域で、事件を伏せる空気があったことが、事件そのものが世の中で知られなかった要因の一つとされている。
地域の自治会長
地域のほとんどの人は事件を知らないと思います。私たちの親の時代には、近い世代の人たちがそういうことをしてしまったことで、タブーというのはかなりきつかったと思うんです。去年、役員の何人かで映画を見に行きました。事件は映画の内容しか知りませんでしたが、市川さんに会ってより詳細に聞くことができました。今後は、役員のメンバーにも声をかけて、事件について知りたいとなれば市川さんに勉強会を開いてもらいたいです。事件のことをよく勉強して、2度とこういうことがないようにしたいと思います。
101年前の事件を追い続けてきた市川さん。その教訓を伝えるための活動が、現代を生きる人たちの意識に変化をもたらしている。
市川正廣さん
まずは、歴史をきちんと見る。2度と起こさないためには、その過去に起こったことを正しく見ることによって現代がよく見えるようになる。現在を見れば、未来はこうあるべきだということがしっかり見えてくるわけですね。そのためには学習すること。学習して、知識を得て、そして今度は行動する。その認識を我々1人1人が持つことこそ大事だと思います。