映画「福田村事件」森達也監督インタビュー
- 2023年8月16日
ことし9月に公開が予定されている映画『福田村事件』。関東大震災直後、流言が飛び交う中、福田村(現在の千葉県野田市)で日本人が朝鮮人と間違われ殺害された事件だ。この実際の事件を題材に劇映画を撮影したのは、森達也監督。オウム真理教に密着して実態を撮影した「A」など数々のドキュメンタリーを世に送り出してきた。今回は、監督にとって初となる長編の劇映画で福田村事件を描く。事件から100年。映画でこだわったのは、善良な群衆が刻々と「加害者」に変貌していく姿だった。森監督に、インタビューでその思いを聞いた。
(千葉放送局記者 武田智成)
福田村事件とは
事件は大正12年9月6日、関東大震災から5日後の福田村で起きた。香川から訪れた薬売りの行商の一行15人が、村にある神社で休憩していたところ、地元の自警団らに朝鮮人と疑われたことをきっかけに一方的に襲われ、子どもや女性を含む9人が殺害された。
当時、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などと朝鮮人や中国人に対する流言飛語が飛び交う中、各地では政府の呼びかけに応じて自警団が結成。街頭では朝鮮人への尋問が繰り返され、中には暴行を加え、殺害に至る事件も多発していた中で、この事件も起きた。
“加害側”を描く
記者が試写会で映画を視聴して印象に残ったのは、震災が起きるまでの村民らの日々の生活の様子と、震災後に村民が冷静な判断ができず豹変していく様子が丁寧に描写されていたことだ。今回、森監督へのインタビューで改めて映画でこだわった点を聞いたところ、返ってきたのは「加害側を描くこと」という答えだった。
森達也監督
オウム真理教の時にそうだったが、悪と善とはいったいなんのか、これが僕の中の原点。つまり一人一人は優しいけども、集団になったとき、とんでもないことが起きると考えたら、非常に普遍的になる。ナチス・ドイツのアウシュビッツやキリングフィールド(カンボジアの大量虐殺)もそうで、加害側をしっかり描かないとなぜ事件が起きたかわからないし、これはずっと僕の中で大事なテーマだった。なぜ普通の人が変わるのかという構造やメカニズム、経過もしっかり描くことにこだわりました。キーワードは「集団と個」です。映画『福田村事件』でいえば、同調できない役をしっかり表現して、その個がどういう行動をするのかとかを描きたかったし、僕の20年のメインテーマです。
“自衛意識”が人を変える
人を変えてしまう普遍的なもの、メカニズムとは何なのか。森監督は「自衛意識」から来る防衛本能のようなものだと語る。映画の中でも、自警団や村民が家族を守るために排除や虐殺といった思いもよらない行動をとったが、これは誰にでもなり得る姿だという。
森達也監督
たぶん朝鮮人が憎くて殺したいと思った人はいない。でも朝鮮人に家族が殺されたらどうする、その意識が先走って、殺害という結果につながる。このメカニズムはほとんどの虐殺や戦争につながると思います。善良な人が自衛意識ひとつで加害者になる。ある意味では今の僕たちとは地続きで、その場に立つとそうなるかもしれないし、つまり加害者は普通の人間であり、モンスターではない。環境によってモンスターにもなるし、聖人君子にもなる。だから自衛本能というのは手強い。映画の中でも、村長が必死に止めている時に団長に「そんな弱腰でかわいい娘が、孫が守れるか」と言われて、何も言えなくなってしまう。映画ではそういうところを描いている。
“異質なもの”の排除
また災害直後の混乱で、不安や恐怖が入り交じる中起きるのが、異質なものを排除しようとする動きだ。
森達也監督
僕は「集団化」という言葉を使いますが、不安や恐怖を持ったときに1人だと怖い。だから多人数でまとまりたくなる。この場合、多人数とは、同質性を求めます。同時に異質なものを排除しようとします。この場合の異質な部分とはなんでもいいんです。言語でもいいし皮膚の色でもいい。要は自分たちと違う点を見つけることです。人間はずっと繰り返している。
伝える側の視点
また今回、関東大震災を描くうえで重要な視点があった。それはメディア、伝える側の視点である。映画では、若手の女性新聞記者が、朝鮮人が弾圧される様子を記事にしようとするも、会社という組織の論理に阻まれ苦心する姿が描かれている。
森達也監督
福田村事件だけではなく、朝鮮人虐殺を考える上では、メディアがどんな役割を果たしていたかは極めて重要です。だから絶対描きたかった。記者も組織の人だけど、もっと「個」を強く出してほしい。オウムの時もそうだが、僕以外にも当時施設に取材に来る記者はいた。そういう時に、彼は(自分と)同じ感想を持つわけです。(オウムの信者は)一人一人が本当にもう邪気のない善良なやつらだと。でもそれは絶対記事にならない。たぶんあの時代そんな記事を出したら、あっという間に大炎上ですよね。オウムの肩を持つのかと。でもそれもわかるが、言い換えれば個が組織に埋没した瞬間です。ジャーナリズムがそれでいいのかっていうのは言いたい部分でした。だから今回も、ピエール瀧さん演じる部長は、かつては反権力として戦っていました。でも売れなかったらしょうがないし、社員たちの給料も払わないといけない。まあ彼に比べて彼女(若手記者)は青臭いけどでも大事なことを言っている。それは部長も分かっているが、だからって現実はそうはいかない。その葛藤みたいなものは描きました。
繰り返される歴史
事件から100年。森監督は、この事件は過去の話ではなく現在にもつながっていて、人類は同じことを繰り返していると指摘する。
森達也監督
規模はさておき、メカニズムとしては学校のいじめも同じです。いじめる側がなんでいじめるかって、いじめられたくないからです。いじめとは常に多数派が少数派に対して、というより1人に対して行うものです。多数で集団になりたい、まとまりたい。まとめる時に自分たちと違うものを見つける。見つけて排除する時に、自分たちは連帯感を持てるわけです。誰でも加害者になり得る。だからいじめがなくならない。特にこの国の今を見ても、ヘイトスピーチであったり、入管法の改正であったり、どう考えても理不尽だろうということが通ってしまう。それは異質なものを入れたくないということにつながっているのです。
そしてインタビューも終わりを迎え、最後に映画を通して伝えたいことは何かと聞いた。
森達也監督
それは見た方が考えてください(笑)。でも、一つだけ。言いたいことは、100年前の事件ですが、昔話ではありませんということ。この事件は今の日本を映していると思ってくれればうれしいです。