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震災インタ 佐々木莉佳子さん“今を生きる”

  • 2024年11月7日

 

人気アイドルグループ「アンジュルム」で活動した佐々木莉佳子さん(23)。
気仙沼出身で、今はモデルやタレントとして活動しています。
佐々木さんは、東日本大震災から時間を経たいま、自身の経験を語り始めています。およそ1時間のインタビューのほぼ全文を紹介します。


Qどういった思いで今回のインタビューを受けましたか? 
「どういう思い…こういう震災のことって簡単に口にはちょっとできなかったんですけど、でも自分は発信できる立場にいて、震災のことを風化させてはいけないってずっと思いながらもいろいろ葛藤していたんですけど、こうやって自分の声で言葉にする、そして伝えるっていうのはすごく大切なこと、必要なことだなと思ったので、今回受けさせていただきました」

Q語れるようになったきっかけは?
「10年迎えてからですかね。やっぱり東日本大震災から。その時に、自分が気仙沼出身っていうのを公言したので、そこからちょっとずつ、自分が伝えていけるなら、そういう役割を自分らしく色々伝えていきたいなと思って。そこから少しずつなんですけど、本当に少しずつ、伝えていけるようになりました」


“311を忘れない”

佐々木さんは「モーニング娘。」を生んだプロジェクトのアイドルグループ「アンジュルム」のメンバーとして11年間活動しました。武道館や海外でのライブも経験しました。

2024年6月の卒業公演。
佐々木さんは、ファンに向けたメッセージで、東日本大震災にふれました。
「3月11日は今でも、これから先も、忘れることはありません」

Q口に出して、自分の言葉で言うハードルは?
「苦しいです、でもやっぱり。それは今でも変わらないですね。あの時も今も、私は何も変わらない感覚でお話をしてます。だから、何かな。苦しいですけど、でも、やっぱり責任があるなと思います。私は。頑張って伝えなきゃ、みたいなものがずっとあります」


東日本大震災 そのとき

震災当時、佐々木さんは小学3年生。小学校の授業中でした。
佐々木さんが母親と高台へ避難する様子が、偶然、NHKのカメラに記録されていました。

Q震災当日の体験
「私は小学3年生だったんですけど、5時間目の算数のドリルをやっていました。やってたら急に感じたことのない大きな揺れが来て、それが東日本大震災の揺れだったんですけど、本当に鮮明に覚えてるところが、私、窓際から2列目の机に座ってたんですけど、空が見えるんですよ、机に潜ってると。その空がすごく青くて、でもずっと怖くて、泣いていて。なんかもうわけわかんない感情がずっと自分の中に、ぐるぐるぐるぐるあって、もう頭の中はずっと家族のみんなに会いたいとか、怖い、どうしよう、もうパニック。ほぼパニックみたいな感じだったんですよ。
その後に、全校生徒が校庭に集合をして、両親がお迎えに来た子だけ、避難じゃないですけど、逃げられるみたいな感じだったんですね。そこで私は、お父さんとお母さんが迎えに来てくれたので、必死に、市立病院っていう気仙沼で1番大きい病院があるんですけど、そこが高台にあったので、学校の近くの。そこに逃げていったんですけど、防災頭巾を被りながら逃げて、でも車もすっごい渋滞してるんですよ。やっぱりみんな車で逃げようとするから。その瞬間も全部覚えてます。その病院の高台のところに行ったら、いっぱい人がいたんですよ。みんなここに来るんだなと思って。自分たちが走ってきた道をぱっと振り返ったら、もう波が来てるんですよ。もう信じられなくて。その状況をもう把握できないし、思考停止みたいな感じになって。でもとりあえず怖くて泣いてました。 
そこからはいろいろあったんですけど、半分、私、記憶がないんですよ。これが本当に自分でもびっくりするんですけど、トラウマって私は感じない生き物だと思って生きてきたんですけど、見てわかる通り、明るかったり、天真らんまんな性格ってずっと言われてきたので。けど、震災があってからのちょっとの期間が、自分の中ですごく怖くて、記憶がないんですよ。だから覚えてないこともあるんですけど」

佐々木さんの自宅は津波に流され、親戚の家で避難生活を送りました。
そうした中、心配だったのは、自宅に1人残った祖父のことでした。

Q避難先ではどのように過ごした?
「私は避難所ではなくて、おばの家に住まわせてもらったんですけど、ご飯が食べれないんですよ。ご飯が食べれなかったです。ご飯大好き、今も大好きなんですけど、余震がね、すごかったんですよね。だから、揺れが来るたびに布団に潜ってました、怖すぎて。電気もつかないから、ろうそくを立てるじゃないですか、暗いから。暗いところは、今も苦手なんですけど、本当に怖くて。土鍋でご飯を炊いていた記憶があります。その土鍋の、ちょっと焦げたお米が嫌いだったり。(震災前)おじいちゃんが建てた一軒家に、私たち家族全員住んでたんですよ。おじいちゃんって、すごく頑固なんですね。自分の意志を曲げない人なんです。でも、そこが好きなんですけど。おじいちゃんが、自分で建てた家だからって、逃げなかったんですよ。『残る』って言って。お父さんが最後の最後までギリギリまで『逃げるよ、逃げるよ』ってずっと言ってたんですけど、『俺はここにいる』って言って、ずっと家にいたみたいなんです。そういう話をお父さんから聞いて、おじいちゃん、もういないんだって思ってたんですよ。そうしたら地震から数日後ですね。コンコンコンって家に誰か訪ねてきたんですよ。『え、誰?』と思ったら、おじいちゃんだったんです。おじいちゃんが避難所に自力で歩いて行って、ギリギリで。女性と子どもちゃんからこうヘリコプターで安全なところに少しずつ送られるわけなんです。でも、おじいちゃんはずっと自分が最後になるようにいろんな人を送って、1番最後に乗って帰ってきたんですよ。私、ほんと泣くほど嬉しかったです。もう涙枯れるほど出しました。もう大好きだから、もう超嬉しかったです。そん時はなんかみんな家族助かったんだなと思って。泣いちゃう、ちょっとごめんなさいね。そう、そんな感じです。ごめんなさい泣きそうになるとふざけちゃうので止めてください。泣きたくないんですよ。私、真剣に話したいから。すいません」

佐々木さんの家族は全員無事でした。
しかし、学校も街も見慣れた光景が一瞬にして津波に襲われ、日常は失われました。

Q震災後のふるさとは?
「街並みはもう全部変わりましたし、でも、私のお友達とか親戚とか、全員助かりました。
当たり前なんてないなってやっぱり思いますよね。崩れるのは本当に早い」


震災を経てアイドルへ

幼い頃から天真らんまんで、アイドルが夢だったという佐々木さん。震災後、ふさぎ込む娘を見た父親が申し込んだのが、気仙沼に活気と笑顔を取り戻そうと結成されたご当地アイドルグループ、「SCK45」。コンセプトは「産地直送気仙沼」です。グループで最年少メンバーでした。

Qアイドルになった当初の気持ちは?
「あの頃の私は、とにかく何もかもが新鮮で楽しみでした。幼かったっていうのもあるし。でも、あんまり考えすぎてたら、私は、多分飛び込んでいけなかったです。あの頃の勢いがなかったら、アイドルっていう世界に私は多分、飛び込んでないし、アンジュルムとしても活動してないと思います。けど、あの頃の私はいい意味で何も考えてなかったので、悪い意味では捉えてほしくないんですけど、それが私だったので。とにかく気仙沼を盛り上げたい。みんなを笑顔にしたい。歌って踊りたい。それで自分も、もとの自分に戻りたい。自分の意思もあるし、お父さんの意思もあるし、そういう気持ちで私は飛び込んでいきましたね。もう怖いものがなかったです。もう怖いこと経験したので、もう何もかも、もういっちゃえと思って、勢いで全部突っ走ってました。『SCK45』のオーディションも小学生ダメだったんですよ。けど、無理に入れてもらって、許してくれたんです。私のアイドル人生がスタートしたので、自分のアイドル人生の軸というか、きっかけは、『SCK45』の代表とかお父さんかなと私は思いますね」

震災から8か月後、市内の海辺で行われたイベントでデビュー。
仮設のステージから目にしたのは、津波の爪痕が残る気仙沼の地に、次第に笑顔が広がっていく光景でした。

Q気仙沼での活動で感じてきたことは?
「みんなの笑顔ってすごいんですよ。普通に生きていたら感じることのない、温かさというか。笑顔のパワーとか、力を感じさせてくれたのは、やっぱり気仙沼の皆さんだったんですね。みんなが笑うと、私たちも笑うんですよ。だから、本当に笑顔の連鎖ってあるなって、そん時に思いました。うん、笑顔って大事


原点に向き合う

震災後の気仙沼で見つけたアイドルという光。
ふるさとの人たちの後押しもあり、震災から2年後、東京に進出します。
その後、アイドルグループ「アンジュルム」のメンバーとして活動を始めました。

Q気仙沼を離れるときは?
「正直、地元の『SCK45』に残りたいっていう気持ちと、もっと上に行きたいっていう気持ちがずっと自分の中で戦ってました。その当時、『SCK45』の代表をしてくださってた方が、背中を押してくれたんですよ。『お前はマジでもっといけるよ』。ずっと私に言葉をかけてくれるんですよ。私はもう本当にふざけてる人間だから、『え、そうなの』とか言って、『じゃあ頑張ろう』とか言って、本当にそういう子だったんですけど、本当にこんなところまで来られたのが自分でもびっくりです」

上京した佐々木さん。離れていても、気仙沼の力になりたい。
しかし、震災には、なかなか向き合えなかったといいます。

Q上京してからの震災との向き合い方は?
「私は、3.11の時に、アンジュルムでブログやらさせてもらってたんですけど、3.11の時に、毎回書くんですよ、とりあえず。だけど全部消すんですよ。結局、書けるのは2行とか1行とか、はっきりは言わないけど、自分の気持ちをちょっと書くみたいな感じなのをずっと繰り返して。たぶん怖かったんですよね。苦しいんですよね、やっぱり。皆さんそうだと思いますけれども、当時経験した方って、いろんな気持ちがあるから、私なんかが話しちゃいけないなっていう考えがずっと自分の中にあったし、やっぱり幼かったので、まだ伝えれる力がなかったっていうのもあるんですけど、ずっと1歩踏み出せずにいました。やっと、でも、節目の10年でやっと扉が開いたって感じですね

 

Q震災10年で、扉が開いた理由は?
「気仙沼出身で、こういう表舞台に立ってる人ってあまりいないんですね。あの当時を経験してる人っていうのは、本当にいないので、お父さんに相談したんですよ、前に。ちょっと辛いと。今後のインタビューだったり、震災のお仕事。もちろん私にお話が来るのは当たり前だし、でも辛い。『どうしよう』って話した時に、『でもお前しかいないんだよ』って言われてハッとしたんですよ。『確かに』と思って。私しか伝えられる人いないじゃんと思って。風化させちゃいけない、忘れてほしくない出来事だから。ずっと自分の心の中にはあるのに、自分が動かなかったらどうするんだって思ったんですよ。だから、苦しいけど、私の役割というか、責任感というか、そういうものを持って私は皆さんに伝えているつもりです


被災地 気仙沼への思い

Q外から見る気仙沼は?
「元の形に完全に戻らないのはわかるけれども、やっぱり人の強さっていうものを1番私は感じましたね。震災があって本当に色がなくなったのに、また違う色を生み出そうと動く人の強さっていうものを、私は帰るたびに自分の肌で感じてました。お父さんがいろんなところに連れてってくれるんですよ。ここは新しい建物ができたよとか、ここはまだ残ってるよとか。案内してくれるたびに、『あぁ、私も気仙沼の力になりたい』って。私はなんか物理的に何かを作り上げるとかはできないけど、私っていう存在を大きくする力はあるから、そういうところにいるから、何かまた違う形で、恩返しじゃないけど、気仙沼の力になりたいと思って活動していたら、(みなと気仙沼)大使になることができたり、気仙沼でライブをすることができたり。本当に、自分の夢じゃないですけど、自分の幼い時の頭の中にあったものが、1つずつこうやって叶えられていくから、本当に不思議な感覚ですね。今もそうです。信じられないです。今も」

Q地元に還元できることは?
「私が生まれ育った場所に、ファンの皆さんが来る。来てくれて、気仙沼を楽しんでくれる。それで、またにぎわいを取り戻す。『私の力なんてちっぽけだな』なんて思う時もあるけど、そのちっぽけだなって思ってる気持ちを大きくしてくれてるのは、私を取り巻く環境というか、そこにいる皆さんだから。とにかく感謝が1番大きいし、純粋に私は嬉しいです。気仙沼に携わることができて、微力ながら力になることができて、本当に私は嬉しいです。だって、私の大好きな場所。だって私のふるさとだから。そこにちょっとでもこう、色を添えるじゃないですけどね、なんかできる。私が何か活動することによって、また気仙沼に光が、スポットライトじゃないですけど、当たるのかなと思うと、嬉しいです」

Q全国の人にも気仙沼を伝えられることについて?
「行かないと魅力って伝わらないと私は思っているんですね。どうやって人を呼ぼうって、それは、すごく難しい問題だなって思うんですけど、でも、1回、だまされたと思って行ってみてほしいです。気仙沼はほんとにいいところなんですよ。気仙沼出身じゃない人でも、自分のふるさとだと思えるぐらい安心感があります。仕事に疲れたなとか、人に疲れたなとか、ちょっと心が荒れてる方は、ぜひ気仙沼に行って、ゆっくり息を吸いながら、空気もおいしいし、海の音を聞いたり、山もあるし、おいしいものもあるし、リラックスしたい時に行ってみてほしいなと私は思います」

Q気仙沼ってどんな場所?
「気仙沼という場所。え、これは深いことを言った方がいいのか、すごくリアルなことを言った方がいいのか、どっちなんだろう。私の中では、気仙沼に帰るとハグをしてくれてる感覚になります。ハグ、ぎゅーって。大丈夫だよって言ってくれる場所っていうのかな。いいよ、もう何も考えなくていいからねって。ありのままの自分で生きてって、リセットさせてくれる場所です。あと、すごいよく眠れる。そこも魅力♡」


佐々木さんにとって震災は・・・・

佐々木さんは震災の経験が活動の“原点”だと考えています。
“震災は憎い、それでも・・・・”

Q振り返ってみて、震災が起きたことをどう思うか?
憎いです。もう一生憎いですけど、でも私たちは勝てたので。人はやっぱり強い。私はそれをすごく感じました。怖いものないです。あれを経験しているんだから。なんでも乗り越えられるって思う。だから、強くしてくれました。自分を。あの出来事が。だって今ここに力強く立ってるから。あれを経験できた私は、自分ではめちゃめちゃプラスだと思ってます。人によると思うんですけど、私は1つのきっかけでした。震災がなかったら、多分今私はここに座ってないと思います。活動もしてないと思います。だから、私がずっとそのアンジュルムとして活動してた時にみんなに伝えてたのは、『震災という出来事を、私はプラスでもあるんだよ』っていう考えを生み出したいってずっと言ってたんですよ。私は、光を見つけて、そこに駆け出していったじゃないですか。誰かの光になれている。光になれていったんですよ。全部なくなっても、ここまで来られるんだよっていうのを、自分が体現したいなと思って、ずっと。それをずっと言ってたんですよ。震災は当たり前を奪うし、本当に許せない。私は一生許さないけど、でも、今の私を作ってくれたもの

Qその強さはどこから?
「なんですかね…元々。あ、でも強いわけじゃないんですよ私って。基本へにょへにょのお豆腐です。心はお豆腐。でもその豆腐だって、強くなれる瞬間がたくさん生きてるとあるんです。でも私は自分を偽ることができないから、素直に生きてる人なんですけど、でも、やっぱり環境が私を強くしてくれてます。ずっと。いろんなね、徐々に徐々にね、いろんな経験をね。いろんなものが自分を強くしてくれています」


震災を伝える“今を生きることの大切さ”

Q今後も震災を伝え続けていきたい理由は?
「当たり前なんて存在しないよって私は思うんですね。日常とかって慣れるじゃないですか。けど、それが崩れるのは一瞬だから。でも、私は震災を経験して、失ったものも多いけど、得たものも多いんですね。大事に大事に人生を生きようって思えたんですよ。別に丁寧に生きなくてもいいし、それぞれの人生があるから、これは別に押しつけないけど、いろんな形があるし。どんだけいびつでもいいから、とりあえず自分は、自分で生きようって思ってるんですよ。今しかできないことをやろう、いつなくなるかわかんないからって、ずっと私は心の中に。だから自由なんだと思うんです私って。好奇心旺盛だし、いろんなことにも挑戦したいし、知らないものは絶対に知って、人生を終えたいし。だから、欲張ってできることはやろうって、思うんですね。それを強く思わせてくれたのは、東日本大震災。人生1度きりだよって、みんなに私は伝えたいですね。自分の人生という中で、すごい大きな出来事だったから。みんなの人生があって、自分の納得のいく形で人生を楽しんでっていうのを伝えたい」

Q佐々木さんにとって、人生で大事にしていることは?
「私はずっと言ってるのが、先を作るのは今。私は今しか見て生きてないので、だから後先も考えずなんでも行動しちゃうんですよ。でも、自分はそれでいいと思ってます。人生論みたいになってきちゃったけど、私はとりあえず今を大事にしてます。今しか見てない。これからもそうやって生きていきたいですね」

Q今後やってみたいことは?
「気仙沼に関してだと、昔、気仙沼って観光バスたくさんあったんですよ。来てくれてたんです。その風景が超好きだったので、バスツアーみたいな感じで、みんなを連れていきたいです。気仙沼へ行く手段がないとか、行き方が難しいとか、そういう方って多分いると思うので、何か1つ形にできたらいいなと思います。みんなで行くっていう。
あと、個人的にやりたいことは、またステージに戻りたいなとは思っております。私はアンジュルムをやめて、とりあえず一旦アイドルである佐々木莉佳子の人生に終止符を打ったので、私はこれから2章の始まりというか、今2章中っていう感覚で生きてるんですけど。なんか本当にワクワクすることをやりたいですね、みんなが。私って、欲張りっていうか、自分にしかできないことをやりたいとか、ずっと思うような性格なので。物理的にはアイドルではなくなったけれども、心の中ではみんなのアイドルじゃんって、私ずっと思ってるんですよ。だから、これからもみんなにスマイルを届ける存在でありたい。スマイルとか幸せとか、あと活力ですね、力、パワーになるような存在でいたい。だから私は表舞台に立ち続けたいなと思います

Qいま一番伝えたいことは?
「難しい。なんだろうな。『何も恐れず胸張って生きよ』って私は言いたい。先のことなんて誰もわかんないんです。けど、先のこと考えて生きるよりも、目の前に広がってるものを1つずつ、ちっちゃな幸せでもいいし、そういうものを感じて生きていくのが1番。私はですけどね。震災を経験した方も、別に後ろを振り返ることが悪いことではないけど、ちょっとずつ、一緒に前を向いて生きていけたらいいなと思います。絶対にみんなに何か1つ光は絶対にあるので、ちっちゃくても、大きくてもいいから、そういう光を見て、みんなで人生を走っていけたらいいなと思います。人間みな仲間。私はそう思う。いろんな気持ちありますけど、私は佐々木莉佳子として、これからもいろんなことを皆さんに伝え続けて、生きていきます」


色紙にメッセージを書いてもらいました。
「今、目の前に広がっている世界を、感じて、愛して、生きて行こうね。
 今は今しかない」


10月9日にてれまさで放送した動画はこちら↓

  • 境彩花

    仙台放送局 記者

    境彩花

    2023年入局宮城県塩釜市出身宮城県政を中心に取材アイドルの動画を見てリフレッシュしています!

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