■ [大事なこと]好きな先生
私には尊敬している先生がいます。その先生は全国に知られた現場実践者の第一人者です。昨日の講演の後、新幹線で隣に座った先生が、教師用雑誌を読んでいました。横目で見るとその先生の書かれた文章です。その先生の文章は頻繁に載っています。私なんぞより、ずっと著名な先生です。それにもかかわらず本日は、私ごときの若輩者にも関わらず、わざわざ「西川先生」と丁重なご挨拶をしていた だきました。色々忙しいにも関わらずです。本当でしたら、「西川さん」でも自然なのにも関わらず・・
私が座っていながら、その先生の様子をチラチラ見ます。会の途中で先生が中座しました。あれ?と思ったら、先生が重いストーブを運んできました。小柄なその先生が、年長者で偉そうに座っていようとすれば出来るのに、誰かに頼めばいいのに、先生が大きなストーブを運んでいる姿に違和感を感じました。きっと、会場のみんなのことを心遣かっているんですね。
先生の語る言葉は、本でも、電子メールでも感じるとおり、詩です。しかし、それにおぼれることなく自制がきいています。自分の語る言葉に自己モニターが聞かなくなると、時間を守れなくなります。会で先生は語る言葉は詩です。ところが、先生は詩を語りながらも、会全体をモニターしています。ちゃんと時間を守って語りました。
私の研究室に来る院生さんに、先生のファンは少なくありません。その人から、先生の授業の印象を聞くと、「あの先生はすごい教科の力がある、でも、それを感じさせずさらりと授業をする」と異口同音に言います。
先生は、本当のプライドがある人だと思います。本当のプライドがあるから、若輩者にも礼をつくし、長幼の序にかかわらず仕事をする、ロマンを語りながらも自制が出来る、教科の力があるにも関わらずそれを武器としない。先生の姿は教師の理想の姿です。でも、先生のようなレベルに達する人はどれだけいるでしょうか?少なくとも、私には先生のような気品は持てないと思います。
私は熱心な仏教信者ではありません。せいぜい葬式の時にお世話になるぐらいです。その程度の私ですが、本願他力という言葉を知っています。悟りに至る道には、自力本願のように自らの力で達するご宗旨もあります。先生はそれが出来る方と感じます。先生であれば、先生の語りを通して、個々の子どもの引きつけ、その主体性を引き出すことが出来ます。でも、そんな方はごく少数ではないでしょうか?能力もない、そして、それをやれるだけの時間をついやせるような家庭環境にない、という人が少なくないと思います。そういう大多数の教師は、先生を目指しても無理のように思います。
私は、自分の能力の自覚し、それ故、別な方向で頑張ろうと思っています。その道とは、子どもに頼ろう、そのために自分を出来るだけ引こうという道です。本日は限られた時間ですが、それを語りました。子どもが、そして、教師が幸せになる道は一つではなく、いくつもあります。私は凡夫の教師が永続的に救われる道を模索しています。
追伸 本日の出張で、しばらくは講演のための出張がありません。家族エネルギーの充電をしようと思います。