2020年は、カルチャーの広範な分野でフェミニズムをはじめとしたジェンダー・イシューや、ブラック・ライブズ・マターに端を発するマイノリティ・イシューがかつてないほど語られる年となった。だがそれらはトレンドではないし、ひとごとでもない。生活のあらゆる面に内在する問題点を清水晶子、鈴木みのり、ハン・トンヒョンの3名がさまざまな視点から指摘し、成熟した社会のあり方を語った。


清水晶子:東京大学大学院総合文化研究科教授。専門はフェミニズム、クィア理論。著書に『読むことのクィア 続 愛の技法』(共著)など。
鈴木みのり:ジェンダー、セクシュアリティの知見やクィア運動・理論への関心から小説・映画評についてなど、幅広く執筆活動を行う。
ハン・トンヒョン:日本映画大学准教授。専門はネイションとエスニシティの社会学。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌』など。

―そもそも、日本のジェンダーをめぐる現在の状況とは。

清水晶子(以下SA):冒頭から希望のない話ですが、基本的に、ジェンダー・イシューで褒められた点はほとんどないでしょう。就労の男女格差、男女のカップルで生活している場合の家事労働負担の割合、シングルマザーへの手当てや性被害者へのサポートもまったく行き届いていない。教育も、例えば学位を持つ女性比率は圧倒的に少ない。

そういうベースゆえとも言えますが、マイノリティ女性の問題や、女性の貧困などのいわゆる「女性が輝く社会」といったイメージから外れる問題は完全に無視されていて、国連から何度も勧告が出ているにもかかわらず、ほとんど改善されていません。

ハン・トンヒョン(以下HT):いわゆる「女性」は本来少数派ではないはずなのに、その問題がこんなにダメなのは一体どういうことなのかと思っています。ただ「フェミニズム」という切り口で言えば、このような雑誌企画も含めて、少しは声を上げる人が増えているのでしょうか。

鈴木みのり(以下SM):トランスジェンダー女性や女性的なノンバイナリーは「女性」というくくりのなかで影響を受ける部分もありますが、トランスとの複合的なマイノリティとしての実態調査が必要だとわたしは思っています。

HT:調査ということで言うと、在日外国人差別の現状を国が初めて調査したのは、「ヘイトスピーチ解消法」ができた翌年の2017年です。それまで調査すらせず、実態から目をそらし続けていたということ。

マイノリティとしての女性と女性の中のマイノリティと

河出書房新社 完全版 韓国・フェミニズム・日本

完全版 韓国・フェミニズム・日本
異例の増刷となり、後に書籍化された『文藝』2019年秋季号(特集「韓国・フェミニズム・日本」)は、内容を新たにして完全版が刊行に。

SM:こういう企画が組まれたり『文藝』の「韓国・フェミニズム・日本」特集が話題になったり、カルチャーと女性が接続されて可視化される機会も増えたと思います。ただ「女性」間の格差は問題の俎上にあがりにくい。そうした企画にわたしがトランスとして呼ばれるとき、10人の登壇者にひとりというのは、人口比率からすると仕方ないと思うものの、代表にされてしまうのは、偏りも背負うものも大きすぎると感じます。

SA:わたしはこの3人のなかではマジョリティに近い属性を持っていますが、それでも会議に出たら女性がひとりしかおらず、何か言うと「女性はそういった意見なんですね」とまとめられかねない、と不安になる経験はあります。そういうおかしさはまだまだ残っている。多様性を困難にするものとしてのシンプルな数の問題、というのはありますね。

HT:そう考えると、つまらない数合わせだとしても、まずはその数合わせをすることが大事なのでしょうね。

SA:やはりフェミニズムが十分な広がりを持ててきていないのは大きい。政治の場でも、女性のための施策が立ち上がったときに、日本国籍女性のみで在日コリアン女性は含まれない、シス女性のみでトランス女性は当てはまらない、異性愛の女性のみで同性とパートナーを組みたい人には関係ない、というような状態が続いてしまう。

冒頭の「女性問題全体がダメだよね」で止まってしまって、それがマイノリティ女性を後回しにする口実になってしまうんですよね。

HT:つまり、女性という属性であることによる不利益がなかなか改善されないから、社会全体のなかではマイノリティという意識が強化される一方で、女性という属性のなかのマイノリティには目が向きにくい現状だというのもわからなくはないです。

過渡期を迎えるエンターテインメント界の動き

―エンターテインメント界での変化は。

SM:いくつか動きがあります。アカデミー賞は2024年の作品賞の選考対象への新基準を発表しました。物語、登場人物、スタッフ登用などに、代表性や表象の機会が乏しい立場の「人種・民族的マイノリティ」「女性」「LGBTQ+」「障害を持つ人々」の包摂や配慮を求めています。アメリカですらまだ女性に配慮が必要ということですよね。ベルリン国際映画祭では「男優賞」「女優賞」を廃止。性別区分がなくなってノンバイナリーの俳優を評価する可能性が開かれると思いました。

一方、アメリカで最も権威的なテレビドラマの賞、プライタイムエミー賞で、多くのトランス女性の物語を中心とした『Pose/ポーズ』のトランスの俳優たちはノミネートされず、シスジェンダーでゲイのビリー・ポーターだけが候補になりました。

過渡期とはいえ、トランスの俳優への過小評価と思います。ただ『Pose/ポーズ』にも課題はあります。美しくかっこいい人ばかり登場し、ホームレスのエピソードもあるものの、「今の規範のなかで許容されにくい人」を表象に含める難しさを感じます。

POSE/ポーズ (字幕版)

POSE/ポーズ (字幕版)
性的マイノリティの若者たちが、母親がわりの「マザー」のもと、ボール(舞踏会)・カルチャーを通じて夢や愛、プライドを追いかける姿を描くドラマ。

HT:日本のメディアにおけるジェンダーの扱いについてはどうでしょうか?

SM:日本アカデミー賞を受賞した女性監督はいませんし、プロデューサーも、名前から推測する限り、女性らしき方もほぼ見ません。しかし若い世代の性的マイノリティに関するジェンダー観は変わりつつある気がします。2001年の『3年B組金八先生』で上戸彩さんが演じたトランス男性から、断続的ですが表象されている影響かもしれません。

HT:性的マイノリティが登場する作品が増えているのは事実だと思いますが、作り手や演者の勉強不足を感じることも少なくありません。

SA:日本の芸能を考えたとき、伝統的にG(ゲイ)とT(トランス)女性の一部の、特定の形だけを尊重してきた一方で、その存在に平等な社会的権利は認めないという二重体制がありました。そのうえ、ゲイはいかにもいかつい体形の人かもしくはオネエ、といった単純化された記号で表現され、レズビアンやトランス男性に至ってはまったく出てこない。

にもかかわらず社会の認識としては「オネエもテレビに出てる」とか「歌舞伎がある」と言って、社会として何の問題もないような気になっている。つまり、特定の記号が社会に「受け入れられている」ことがかえって正しい認識の足かせになっているんです。これを覆すのはすごく難しい。

SM:『Pose/ポーズ』はスタッフにも性的マイノリティを登用していて、ジャネット・モックという黒人のトランス女性が監督と脚本とプロデューサーを務め、特に注目されています。彼女が担当した脚本回を見ると、トランスとしての経験や歴史をものすごくリサーチしているんですよね。

日本はその点が圧倒的に足りないと思う。「当事者に取材しました」と言うとき、その「当事者」は誰なのか? ニューハーフと呼ばれるトランス女性の就労・あり方やオネエ文脈が日本ではよく知られていて、現実にそういった選択をする当事者自体が悪いわけでもないけど、そうではない生き方をする人に与える影響や配慮が、メディアでは考えられる必要がありますよね。

同じ属性で別のあり方を入れて作品内でバランスを取るとか。そもそも「当事者に取材した」という言い訳のような、批判からの逃げに利用されてはならないと思います。

SA:『Pose/ポーズ』は登場人物にトランス女性がとても多く、職業経験も、差別や暴力と向き合って生き延びるやり方も、性格も違っていて、同質化されない。女性刑務所を舞台にしたドラマ『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』も女性登場人物のなかにトランス女性もレズビアンもいるし、人種もバックグラウンドも多様。そういうのを見ると、やはり多様性のある表象を可能にする前提としての数、ということを考えてしまいます。

HT:表象だけでなく、実態としても、数で見せることは重要だと思いますか?

SM:そう思います。いわゆる「LGBTQ+」とされる人々やプライドパレード内でも、人種やジェンダーの格差は指摘され、ブラックやブラウンのトランスジェンダーへの暴力や差別は軽視されてきた。今年6月14日にブルックリン美術館前での「ブラック・トランス・ライヴズ・マター」の1万5000人の集会で、問題意識が広まりつつあると思います。

資本主義社会での折り合いの付け方とは?

SM:韓国でフェミニズムやクィアの運動が盛り上がっている背景に、映画や音楽の力もある気がしています。韓国のプライドパレードに2年連続で行きましたが、2回ともみんながアンセムのように少女時代の曲を歌っていたんです。

いわゆる「女性が輝く社会」といったイメージから外れる問題は完全に無視されている

HT:「タシ・マンナン・セゲ(また逢えた世界)」ですね。

SM:日本語でそういう歌はないと思うんですけど、文化的な事柄が人と人をつなぐコミュニケーションの潤滑油になる気がしていて。アメリカのブラック・トランスからもファッション誌でアイコニックな人が出てきたり……。

宮下公園のデモ
Aflo
2010年、再整備に伴い深夜から午前中にかけて閉鎖されることになった宮下公園に対し、ホームレスの強制排除を行ったとして市民団体による反対運動が広まった。その後、渋谷区は行政代執行を実施した。

SA:そこで少し考えたいのは、日本の現状としてはまだ、そういうキラキラしたところで話題になればうれしい、というところも大きいわけだけれど、一方で、渋谷区がホームレスを強制退去させたミヤシタパークに出店している高級ブランドが、フェミニズムや性的マイノリティの権利などを後押しするようなキャンペーンを打ちもする、というような問題と、どう折り合いをつけるべきか。

わたしは学者だから堅い意見を言っていられるけれど、例えばミュージシャンや俳優さんなどがそのはざまにいたときに、わたしたちは何を求め期待するのかと。

それがたとえつまらない数合わせだとしても、まずはその数合わせから声を上げ、存在を示すことが重要

SM:宮下公園の問題は10年くらい前からずっと気になっていますが、メディアにおいて、セクシュアリティなりジェンダーなり、何らかのマイノリティ性と貧困の結びつきが軽視されてきた影響もあるのではと感じています。

わかりやすい例では、男性より女性の収入が低いとか、シスジェンダーよりトランスが就労しにくいとか。一方で、わたし自身もあの場所に出店するようなブランドに憧れがあります。アンバサダーになる著名人の意識が向いて、関心が高まればと期待もするのですが。

HT:そういうジレンマはありますよね……。この雑誌を読む人に伝えたいのは、資本主義社会のなかでわたしたちは生きているので、全否定するのも難しいし、その必要はないけれど、ジャスティスの種みたいなものは持っていてほしいというか。

キラキラしているその陰で、どこかの誰かが不当に抑圧されていたり理不尽な目にあっていることがないだろうか、そういう問題意識を持ってほしいですね。そのうえで、個々人が判断すればいい。そこで開き直らないで迷うのは、いいことかもしれない。

自分の「生きづらさ」から踏み出す

HT:開き直りといえば、たとえば差別について、完全になくすことはできないのだから努力するだけ無駄だというようなことを言う人もいます。確かに完全になくすことはできないかもしれません。

でも差別とは、あるカテゴリーに属する人々が、そのカテゴリーに属するというだけの理由で不利な状況におかれることであって、わたしたちはすでにそれがおかしいことだと知っています。なぜなら、それがおかしいと声を上げてきた人がいるから。

こうして、それすら当たり前のことだと思われていた時代から、わたしたちは大きく前進してきたわけです。何かが達成されたらまた次の課題が見えてくるし、このプロセスには終わりはないけれど、それ信じて進むことが、大げさに言うと、わたしたちが人間であることの意味かもしれません。

SA:そうですね。わたしたちは差別的な体系に組み込まれて、日々差別に加担もしている。でも、間違えたら改めればいいし、問題に気づいたら改善に努めればいい。一度「それは差別です」と言われたら、その人はもう善人には戻れないという発想だと、それなら差別なんて考えたくない、みたいな極端な方向に行きかねない。

HT:差別をしたくないという恐れを抱くことそのものは大切だと思います。そうならないためにも、まずは社会にはいろんな人がいるということを知ってほしいです。

この記事を読んでいる人のなかには、「女性としての生きづらさ」を感じている人も多いと思います。この「女性としての」を軸にするのももちろん重要なのですが、では別のかたちで同じような「生きづらさ」を抱えている人がいないだろうかと考えてみる。たいてい、それをもたらしているものは同じだったりします。

もちろん、女性というカテゴリーだって一枚岩ではありません。こうしてカテゴリーから離れて考えてみることが、解決の糸口になるかもしれません。

グラフ
最新のジェンダーギャップ指数(Gender Gap Index)。4 つの軸で算出され、日本の水準はかなり低い。内閣府男女共同参画局サイトより。

SA:その点で思うのは、特に日本で育った人たちはそもそも、自分の状況を社会の問題として「これはわたしが悪いのではない、これは差別だ」と理解するところまでたどり着くのに、ものすごい力を要求されると思うんです。だからまずはそこまでたどりついて怒ることはとても重要です。

ただ、その先の問題として、ハンさんがおっしゃるように「わたしの生きづらさ」から一歩進む必要がある。自分に起きている差別、例えば性差別ときちんと向き合うと、自分が差別される側ではない差別、例えば民族差別、人種差別、トランス差別も見えてくると思う。逆に言えば、そこにたどりつかなければ反差別のつながりは生まれないと思います。

HT:自分の問題を一般化できる力を持てれば連帯が可能になるし、それは結局自分を助けることにつながります。

SM:2000年代初め、ステラ・マッカートニーが、確かグウィネス・パルトロウか誰か、親友がファーか革製品を身につけていて、叱りつけたっていうエピソードが好きで。当時は笑ったけど、いくら仲がよくても、意見をちゃんとぶつけたり交換するって大事だなと思わされます。身近な人と立場や思想の差を踏まえて話をし、時に怒られてもやり直せばいいと、読者のなかに引っかかってくれたらうれしいです。

HT:「経験の共有」ということだと思います。ひとりでいろんな経験をするには限界があるし、異なる立場の人になってみることはできない。でも学ぶことで、さまざまな人が積み重ねて来た経験の蓄積を知ることはできる。

そして語り合うこと。もちろん、安心して話すための安全な場をいかに作っていくかという問題はあって、ここでまた他者への想像力が必要になってきますが、まあすべては循環しています。とにかく、こうしていろんな声が響き合っているような、風通しのいい社会を目指していきたいです。


From Harper's BAZAAR December 2020