ぐうたら社員は、なぜメジャーを断り続けてきたアーティストと契約できたのか

    MOROHAとユニバーサルミュージックのディレクターの話

    「あの人、働かないんですよ」

    ユニバーサルミュージックのディレクター矢部順也さんについて、最初に聞いた評判だ。

    夜7時になれば、会社でストロングゼロをあおる。

    生まれてこの方、ケンタッキーを骨まで食べ続けてきたことが原因で吐血し、医者に注意される。

    仕事はというと、気にいったアーティストじゃなければ動かない。けれど、気にいればとことん入れ込む。

    大手事務所の社長に「30キロ痩せたら、担当してるアーティストを事務所に入れてやる」と言われて、2か月で本当に痩せてみせた。

    普段はダメだが、やる時はやる。なんだか『美味しんぼ』の山岡士郎みたいだ。

    矢部さんは、もともとハロー!プロジェクトのファン。いつかアイドルを担当したいと思っていた中、スタートしたばかりのHKT48の公演を見た。

    兒玉遥、宮脇咲良といった若いメンバーのきらめきに心を奪われ、一緒に仕事をしたいと思った。

    既に他のレコード会社との話が進行していた。それでも諦めきれず、手書きの手紙に熱意を込め、プロデューサーである秋元康氏に送った。

    数日後、秋元氏のGoogle+に矢部さんの名前があった。

    「業務連絡。ユニバーサルシグマの矢部くん!手紙、読みました。熱い思いをありがとう。近々、打ち合わせをしましょう」

    後日、秋元氏に直接熱意を伝え、逆転でHKTとユニバーサルの契約が決まった。

    念願かなってHKTの担当になった矢部さんだったが、人気アイドルだけに激務が続く。

    担当してから4年目に突発性難聴を患い入院。HKTに関わり続けたいと訴えたが、会社からストップがかかり、担当から外れた。

    失意の中にいた矢部さん。

    入院中、暇つぶしのYouTubeで見つけたのが、後にカルト的な人気となるアイドルコンビ『生ハムと焼うどん』(生うどん)だった。

    「HKTとできなくなって、けれどアイドルをやりたいと思っている中、とにかく存在が面白い2人に出会った。あの時は僕にとって希望の光でした」

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    寸劇と歌を合わせた斬新なアイドルだった「生ハムと焼うどん」

    契約の前に知名度を上げようと、学祭をブッキングしたり、物販を手伝ったりと裏方として1年働いた。

    生うどんの人気もどんどん上がり、赤坂BLITZ、TOKYO DOME CITY HALLとワンマンライブの会場が大きくなった。

    しかしブレイク寸前と見られた2016年。金銭問題などが重なり、2人の関係は完全に壊れてしまう。

    その年末には活動休止が決定。再び失意のどん底に矢部さんは投げ込まれた。

    2017年1月、実家で地元の友達との飲み会までの暇つぶしに見たYouTubeでMOROHAを知った。

    東出昌大、生田斗真ら芸能人のファンも多い、2人組のラップグループ。存在自体は知っていたが、彼らの曲『革命』を聞いたとき、電流が走った。

    「歌詞がめちゃくっちゃ刺さって。HKTとも生うどんとも一緒にやれない状況になり、アイドルで有望なものをダメにした俺って一体なんだろうと思っていたんです。だから、その時の歌詞が、これは全部俺のことだと思ったんです」

    飲み会の時間も忘れ、気づけばYouTubeに上がっているMOROHAの映像を全部見ていた。

    1月13日の大阪、梅田クアトロ。いてもたってもいられず直近のMOROHAのライブを自腹で見に行った。

    公演時間は70分。最初から最後まで泣き続けた。

    一緒に仕事がしたい。

    女の子としか仕事をしたくないと思っていた元アイドルヲタクが、初めて男性アーティストに”ガチ恋”した。

    MOROHAは当時インディーズ。契約の可能性があるか周辺を探ると、どのメジャーレーベルからのオファーも頑なに断っていることがわかった。

    ある大手レーベルは社長自らが動いたものの、無理だったと聞いた。

    契約の可能性は低い。でも、思いだけは伝えたかった。

    HKTの出来事以降、手書きの力を信じるようになった。だからMOROHAにも手紙を送ろうと思った。

    京都、兵庫、愛知と自腹でツアーについていき、最終公演で地元凱旋となる松本でのライブで手紙を渡した。

    僕は今、あなたたちの地元・上田で手紙を書いています。

    僕があなたたちを知ったのはつい最近ですけど、射抜かれまして、どうしても仕事がしたい。

    何がなんでも一緒にやりたいです。連絡ください

    前日、MOROHAが生まれ育った長野県の青木村、地元のタワーレコード、ゆかりのライブハウスを周った後、ホテルで書いた手紙だった。

    グッズ売り場に出てきたMOROHAのギター、UKに手紙を渡したとき、足は震えた。

    だが、待てど暮らせど返事は来なかった。それでも諦めきれず、何を優先してもMOROHAのライブに通い続けた。

    “ラブレター”を渡してから1か月後。

    打ち合わせで訪れたテレビ朝日で、矢部さんは偶然にもMOROHAと会う。

    手紙を読んでくれたかどうか確認すると『MOROHA』のMCであるアフロは次のように返した。

    「もちろん、もちろん。手紙、本当に嬉しかったっす。ただ連絡をしなかったのは今自主レーベルでやっている中で、メジャーから手紙をもらってすぐ連絡したら、一緒にやっているやつが悲しむと思った。だから連絡はしなかったっす。申し訳なかった」

    実直な性格が伝わる言葉。がっかりしたけど、ますます好きになった。

    その週末。徳島空港から2時間かかる祖谷渓温泉に向かった。温泉地で行われるフェスにMOROHAが出演するからだ。

    「テレ朝で『またライブ行きます』と言いましたが、都内とか名古屋くらいで、まさか徳島まで来るとはアフロも思ってなかった。会場に入る僕の姿を見てびっくりしたらしいです」

    徳島でのライブ、MOROHAは『奮い立つCDショップにて』という曲を披露した。曲中に「avex DefJam EMI UNIVERSAL」という歌詞があるが、このユニバーサルの部分を歌う際、アフロは矢部さんを指差した。

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    『奮い立つCDショップにて』

    ライブが終わると、アフロが客席にやってきた。

    「ここまで来てくれると思わなかった。すいません、指差して。今までのメジャーレーベルの人とは違う、並々ならぬものを感じたです、今日は」

    そこで初めて連絡先を交換し、1週間後に会う約束をした。

    待ち合わせは渋谷のディーゼルカフェ。10分前に向かうと、すでにアフロがいた。そして時間通りにUKが店に入り、話が始まった。

    「その日はどうやって曲を作っているかだったり、あとは自分の話だったり、契約の話はしませんでした。契約したい気持ちは伝えていたので、相手がその気ならやりましょうとなるかなと思っていたけど、なかったです」

    その後、上司とともに再びMOROHAに会い、自分たちのプランを出したが、色よい返事はなかった。

    やり方は色々あったかもしれない。けれどレコード会社の人間である前にMOROHAのファン。彼らの意思を無理やりひっくり返すのではなく、自然に任せたいと思った。

    その後も大阪、名古屋、福岡、札幌と地方のライブに行き続けた。ただ彼らと話す機会はなかった。

    4月、早朝の札幌。

    前夜にガガガSPのライブに参加したMOROHAを見た矢部さんは、新千歳空港に向かうためバスを待っていた。

    すると、後ろから「矢部さーん」と呼ばれた。振り向くとMOROHAの二人がいた。偶然、そのバスで二人も東京に帰るところだった。

    二人からは「来てくれているの、わかってました」と伝えられ、空港までのバスの車内で、契約の話はせず、昨日のライブの良さなど話をした。

    数日後、矢部さんの元に「打ち合わせ、1回できますか」とMOROHAから連絡があった。

    夕暮れの渋谷の喧騒の中、待ち合わせ場所に向かった。ただ、なんの打ち合わせかはわからなかった。

    「矢部さんもわかっていると思うんですけど、俺ら3年に一度しかアルバムを出せていない。だから再録ベストとかがいいと思うんですよ」

    アフロからの第一声を聞いてぽかんとした。

    再録ベスト? 自主レーベルのアルバムの相談かなと思った。すると続けて「いつ出します」と聞かれた。また混乱した。

    「ちょっと待ってもらっていいですか。それはユニバーサルで出すということでいいんですか」

    混乱を整理するように矢部さんが告げると、アフロは不思議そうな顔でこう言った。

    「そりゃ、そうでしょ」

    “ラブレター”の答えはYESだった。

    6月6日、MOROHAのメジャー初のアルバムとなる「MOROHA BEST〜十年再録〜」がリリースされた。

    お茶の間にも自分たちの曲を届けたいというのがMOROHAの願い。矢部さんはそのために全力を注ぎたいと思っている。

    「MOROHAを知らなかった9年間をすごく悔やんでいるんです。なので、それを取り返すために自分の持てるものを総動員して届かせたい。それは紅白かもしれないし、武道館かもしれない」

    HKTを担当したことでいろんな人たちと知り合い、生うどんというインディペンデントと関わったことで、個性あるアーティストとの向き合い方を学んだ。

    失敗も成功も含めて数珠つなぎとなり、MOROHAの仕事に生かされている。

    「こうやって振り返ると、MOROHAのために今までやっていたのかなとも思えちゃいますよね。12年ディレクターをやって、途中で入院したり失敗もあったのに、レーベルのフロントラインに自分をおいてくれている会社にも感謝しています」

    MOROHAは常々、満足した時が自分たちが辞める時だと言っている。その満足した時に、一緒に立ち会いたい。今はそれが願い、そして目標だ。

    しかし、なぜMOROHAは、あれだけ頑なに断っていたメジャーレーベルと契約したのだろう。

    あるメジャーアーティストがMOROHAに対し「行かなくていいと言っていたメジャーに結局行くんだな」と言ったとき、アフロはこう返したそうだ。

    「矢部さんがインディーズだったらインディーズで仕事していたよ。たまたま選んだ人がメジャーの人だっただけだ」