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平成のはじめに、田嶋陽子がテレビカメラの「向こう側」に語り続けてきたこと

「笑っていいとも!」「ビートたけしのTVタックル」などバラエティ番組に出演し、お茶の間では「吠える女」のイメージが強かった田嶋陽子がいま、30代の女性たちに人気だ。その理由とは。

田嶋陽子、78歳。

メッシュの入ったボブヘアに黒縁メガネの彼女のよく通る声がテレビから聞こえてくるのは、平成を迎えたばかりの日本のお茶の間によくある風景だった。

当時、男性に食ってかかる女性は珍しく、「怒る女」「吠える女」と評されてもいた。

その田嶋が最近、1980〜90年代生まれの女性たちを中心に再び人気だという。

何が起きているのか。

半日で満席に

2019年12月16日夜、東京・神楽坂のイベントスペースに、約90人の女性たちが集まった。

イベントの主催者側は「応募を開始してわずか半日で、1枚2000円のチケットが売り切れました。参加者のほとんどが1980年代生まれの女性です」と明かす。

小上がりのステージの上で、ホワイトボードに「男らしさ」「女らしさ」のステレオタイプな単語を書きつけているその人こそ、田嶋陽子。さながらフェミニズムの授業のようだ。

いまも関西ローカル番組「そこまで言って委員会NP」などに出演し続けており、時おり「ガハハハハ!」と笑う姿は健在だ。

ともに登壇した作家の山内マリコ、柚木麻子が、夫との家事分担について遠慮がちな発言をすると、すかさず突っ込み、笑いを取る。

一方で、会場を見渡しながら、しみじみと語りかける場面もあった。

「女の人って本当に大変。私は、本を書いたことで自分がラクになったから、みんなにもラクになってほしいと思っていたの」

「フェミニズムなんてものを持ち出すとバカにされるよ。これはフェミニズムだなんて言わなくていいから、自分がどう思っているかを丁寧に話す力が必要なんだよ」

いまなぜ田嶋陽子なのか

このイベントは、2冊の本の刊行を記念して開かれた。

1992年に出版された田嶋の著書『愛という名の支配』の文庫版(新潮文庫)と、「We🖤LOVE 田嶋陽子!」という特集名が表紙に踊る雑誌「エトセトラ」だ。

「エトセトラ」は、編集者の松尾亜紀子が立ち上げたフェミニズム専門の出版社から年2回、毎号異なる責任編集長による特集号を発行するフェミマガジン。

第2号の責任編集を山内と柚木が担当し、作家や研究者ら20人超の執筆者による「田嶋陽子論」を展開している。

1980年生まれの山内は、数年前にTwitterの投稿を見かけたことがきっかけで田嶋の著書を読み、「道行く女性に配って回りたいと熱望した」ことが、今回の特集の出発点だったと書いている。

1981年生まれの柚木は、山内からLINEで勧められ、田嶋の著書を読んだ。そして自身の記憶の中にあるテレビでの田嶋の発言を思い起こした。

「鍵が開いていても泥棒が悪い」

柚木は小学6年生のとき、学校帰りに細い抜け道を歩いていて、不審者に後をつけられた。母親が学校に連絡すると、「通学路以外の道を使うな」と柚木が悪かったことにされ、先生からも怒られた。

そんなときに見た「TVタックル」で、性暴力被害に遭った女性のことが取り上げられていた。被害者の落ち度をあげつらうムードのスタジオで、ひとり田嶋がこのようなことを言ったのだ。

「たとえ家の鍵が開いていたとしても、他人の家に入ったらそれは泥棒。悪いの泥棒でしょう」


「以来、この言葉は私にとって一種のおまじないというか、武器になった」と柚木は書いている。

30年前の女性の立場

2020年が目前に迫る令和の今でさえ、性暴力の被害を受けた女性が「泥酔したこと」や「被害後に笑っていること」を責められるようなセカンドレイプが横行している。

30年前の1990年代に、男性中心のバラエティ番組で女性がひとり「レイプ神話」に異議を唱えるのは、どれほどの孤独だっただろうか。しかしながらその孤独な言説は着実に、少女たちの内面に自己肯定の種をまいてきていた。

山内と柚木は、幼いころにテレビが強く印象づけようとしてきた田嶋の「吠える女」のイメージに疑いをもった。当時の番組のVTRを見て、関西まで番組の収録を見学しに行き、そして田嶋本人と対面する。

田嶋が「結局は男性に勝てないわからず屋」の役回りにされて嘲笑され、女性からも「ああはなりたくないよね」とバカにされるような構造を、つくりだしていたのは誰だったのか。

田嶋陽子とは何者か

田嶋は、太平洋戦争がはじまった1941年、岡山県に生まれた。

厳しかった母親は、病気で寝たきりの状態になっても、田嶋を近くに呼び寄せては二尺ものさしでピシャリと叩いた。

「勉強しなさい」「勉強ができても女らしくしないとお嫁に行けない」。矛盾する母親からの脅しは、18歳で家を出てからも田嶋を苦しめ続けた。

母もまた、その母から苦しめられていた。女性に生まれたというだけで、生きたい人生をあきらめていた。抑圧の正体や構造を知ったことで、田嶋はようやく母親から解放された。

法政大学で女性学を教えていた田嶋が、ほとんど観たことがなかったテレビに初めて出演したのが1990年の「笑っていいとも!」。初回から抜群の存在感を示した。

「男性はパンツを洗え」

「女性はパン代を稼ぎ(職業)、男性はパンツを洗え(家事)」

身近でキャッチーな「パンツ論争」は、男女平等についてわかりやすく考えさせた。男女雇用機会均等法が施行されて間もなかったころ、女性は職場でお茶汲みをして、結婚すると「寿退社」していた時代だ。

「テレビを観ていなかったからタモリさんのことも知らなくて、最初は『女の(問題の)ことを話せないなら出演しない』と言っていたの。大学教員がテレビに出る目的はそれしかないでしょう」

田嶋は出演の経緯をそう振り返る。毒舌で自由に議論していたように見えても、葛藤はあったという。

「番組は、私が男性を言い負かしたところでは終わらない。男性のコメンテーターが勝ったところで終わるように編集されるから」

議論が短く編集され、言いたかったことがカットされたため、一般の視聴者からだけでなく、フェミニストから批判されたこともあったという。

当時のVTRを観た柚木の感想はこうだ。

「水着のようなコスチュームの女性が、無言のまま出演者に飲み物を配っていた。田嶋さんが戦っていた90年代のバラエティ番組は、今なら考えられないほど偏見と差別に満ちていて、男性中心に回っていた」

それでも、田嶋には忘れられない出来事がある。出演をやめたくて仕方がなかったとき、電車の中で子連れの女性が歩み寄ってきて、泣きながら声をかけてきたのだ。

「言いたくても言えなかったことを言ってくれてありがとうございます」と。

夫のパンツを黙って洗い続けている主婦というサイレントマジョリティが、自分を応援してくれている。そんな女性たちの代わりに物申すため、田嶋はどんなに批判されようとテレビに出演し続けた。

「目の前にいる人ではなくて、テレビカメラの向こう側にいる人に向かって、ずっと話しかけてきた」

「なんで教えなきゃいけないの」

1990年代と今とで大きく違うのは、インターネットの台頭だ。「言う側」「聞く側」に分かれるのではなく、誰もが同じ土俵で議論できるようになった。

男女平等やフェミニズムに関する発言は、ことTwitterでは炎上しやすい。

受け入れがたい主張はミュートし、聴きたい意見だけを選び取ることができる。主張の内容ではなく、その口調や態度を批判する「トーン・ポリシング」によって、議論に及ばないこともある。

「言い方が悪い」という相手に対してはどんな態度を取ってきたのか、と田嶋に問うと、すかさずこんな答えが返ってきた。

「『言い方をよくすれば聞いてやる』という態度すら取られなかった。私の周りはそもそも聞く耳をもたない人ばかりだったから。聞いてもくれない人たちに、なんで親切丁寧に教えてあげようとしなきゃいけないの。時間の無駄!」

「雨が降ったら全員が濡れる」

田嶋は「どうして私はこんなに生きづらいんだろう」から出発し、自らの体験を語り、構造の問題に行き着いた。

イベントの最中、目の前にいる女性たちに「抑圧の構造から解放されよう」と何度も語りかけた。

「差別っていうのは霧雨のようで、一人も濡れない人はいないのよ。『私は差別なんて受けていないわ』という人は、雨が降ったら全員が濡れているということをわかっていないんじゃないかしら」

「差別は構造だということ。女性差別がある限り、日本が損するってことなんですよね。女の人たちにはこんなに力があるのに、それを生かせないなんてね」

あのとき、テレビカメラの向こうにいた少女たちが、編集の施されていない田嶋の話に直接、聞き入っていた。

30年の時を経てもなお、自分たちの置かれている環境がさほど変わっていないことに、複雑な思いを抱きながら。

(文中敬称略)