一緒に卒業したベルギー人の親友(左)と。お互いを励まし合って2年間を乗り切った。
撮影:雨宮百子
2024年11月、私はベルギーの大学院を卒業した。務めていた日本企業を辞め、2022年9月に大学院に入学してから2年が経ち、やっと卒業の日を迎えた。
私が通っていた学部では、ほかの学部と合同で卒業式があったようだが、私の友人は仕事が始まっていたので式には参加せず、私も参加しなかった。卒業証書はPDFで送られてきた。実物は学校に取りに行く必要がある。
振り返るとあっという間の2年間だったが、現地の大学院で学んだのは学問よりも、「世界」という枠で見たときの自分のポジションや、世界各国から集まっていた同世代の学生達の思想と彼らが抱えている背景だったと思う。
もう少し具体的に言えば、「世界がどうやって構成されているか」の解像度が圧倒的にあがったし、それによってキャリアの選択肢も増えた。
今回の原稿では、2年間の留学で得られた「予想外の収穫」について紹介したい。
学生たちが直面する脱落のリアル
2022年の秋、初めて学校にいったとき。広くて町のようなキャンパスで迷子になった。
撮影:雨宮百子
過去の記事にも書いたが、わたしが留学を決めたのはコロナ禍だった。当時私は、出版社で働きながら大学院に通って経営学を学んでいたが、ある日、国外のオンライン授業を受けるなかで「このままの生活では、国際標準の感覚から取り残されるではないか」と危機感を抱き、留学を意識し始めた。
留学費用などの懸念はあったが、調べてみると、日本の大学と違って、ベルギーの大学は安かった。学費は、1年目は4000ユーロ(当時のレートで約60万)だった。
※これは外国人留学生向けの価格で、現地人は800ユーロ(約13万円)だった。
外国人であっても、いくつかの条件を満たせばこの価格が適応されるので、私の場合は大学院2年目の学費はベルギー人価格になった。
私が大学院で履修したコースは上級修士課程で、修士号取得者が来るコース。そこで「欧州ビジネスと経済政策」を学んだ。
ただ、求められるレベルは決して低くなかった。同じコースの在籍者は十数人だったが、その後どんどん脱落していった。
かつ、アジアからの留学生は私とバングラデシュ人のみ。言語面でも苦しめられた。授業は英語で展開されるが、日常会話はフランス語。複数人が集まるとフランス語を皆が話し始めるので、孤独を感じることも多かった。
「世界を飛び回る」という夢
条約集はAIを利用して日本語版を作成し、英語版と両方開いて勉強した。
撮影:雨宮百子
1年目は授業が目白押しで、ほぼ毎日学校に通っていた。しかし私の場合、会社を辞めて留学していたので、収入がなければ当然貯蓄を切り崩していく生活になる。
その間、当初1ユーロ135円弱だった為替レートは、最終的に175円まで上昇していった。円を使用して生活している私にとっては、全ての生活費がどんどん上がっていった。今までの人生で経験したことがない恐怖で、フリーランスの編集者として、受けられる仕事があれば、とにかく引き受けてこなしながらの学生生活だった。
日本との仕事の場合、時差が8時間(サマータイムの時期は7時間)あるので、朝はいつも6時から仕事に取りかかり、日本とリアルタイムでのやり取りをした。
ベルギーで早朝6時から仕事を始めても、日本時間だと14時(サマータイムは13時)になってしまう。
10時からは授業が始まるので、午前9時半には家をでる。学校から戻ってからまた仕事をし、夜は午後10時には寝て翌日に備えた。
大学院2年目は授業はほとんどなく、「もっとよくできる」と教授にやんわり返された論文の再執筆と追試くらいだったので、実際はほとんどリモートで働いていた。
1年目で慣れたせいか、土日も働いたり勉強をしたりしていた1年目と比べると楽に感じた。
日本に戻る時間も作りやすくなったので、年に3回ほど帰国していたし、仕事も含め、ドイツ、イスラエル、香港、韓国など色々な場所を訪問するなど、ほとんど毎月国際線にのっていた。
フリーランスとして活動しながら、自分で会社も設立し、気付いたら日本を中心に色々な企業と一緒に仕事をしていた。
結果的に、20代の時に憧れていた「世界を飛び回りながら仕事をする」夢を叶えていた。これは、出版社で働いていたままだったら叶えられなかったことだろう。
「自分のペース」でやればいい
EUの中心であるブリュッセルは色々な国にアクセスがしやすい。
撮影:雨宮百子
EUの中心であるブリュッセルは色々な国にアクセスがしやすい。
はじめの頃は不安がつきなかった留学生活だったが、そんな時、私を支えてくれた言葉があった。
編集者をしていた会社員時代、私が担当した書籍を通じて出会った数多くの経営者からたくさんの「キャリアにおけるコツ」を聞いていたが、彼らの言葉が勉強と仕事の両立には非常に役立ったと思う。
特に記憶に残っているのが、当時LVMHファッション・グループのジバンシィ ジャパン プレジデント&CEOだったクリスティン・エドマン氏の次の言葉だ。
「行き先さえ決めておけば、あとはどのルートを取るかを決めるだけ。どの行き方を選ぶか、どのルートを選ぶかは、ライフイベントや状況などに応じて変えればいい。
険しすぎると思えば、遠回りでも緩やかなルートを取ればいいし、途中で天気が荒れたら、おさまるまで休んでもいい」
会社をやめて留学したときは、全く将来の予想がつかず、不安だらけだった。雨と曇りの薄暗いベルギーの冬に、悲嘆にくれたこともある。
知らないことばかりだから、全てに時間がかかる。そんな自分に最初はイライラすることも多かったが、「進み方やルートは変えていけばいい」との言葉を思い出し、途中からは自分のペースでやればいいことに気づいた。
欧州出身でもなければ、フランス語もわからないので、時間がかかって当たり前。
「最短で卒業しなくてはならない」などと無意識に思い込んでいたが、自分を許すことで、心に余裕が生まれた。
留学によって手に入れた「自由」
「世界一小さな町」とも呼ばれていている町・ビュルビュイで撮影。
撮影:雨宮百子
ようやく教授に論文を受け取ってもらえたあとは、今までに感じたことがない疲労感に襲われて、日本に一度帰ってきた。
私にとって初めての留学で、気が張っていた部分があったのだと思う。
2年前に入学したときは、卒業できる自信も当初はなかった。けれども、がむしゃらに毎日を過ごすなかで、気づけば遠くに見えていた山の頂上にたどり着いていた。
もちろん当初の目標通り、学位を取ることができ、言語の習得や専門知識を得られたことは嬉しいが、それ以上に、この2年で私が得ることができたものは、世界の中での自分の立ち位置、つまり異国で移民として生活する厳しさを知ったことと、世界中から仕事を探すことができるという選択肢だろう。
大学院を卒業したいま私は今後もベルギーと日本との二拠点生活をもう少し楽しんでみたい。私が一緒に働く企業の多くは日本企業だが、フランスやイギリスなどの企業とも働いた。契約ベースのものが多いが、こうした働き方は世界では珍しくない。
現在は住んでいる場所を問わず、オンラインでできる仕事を中心に引き受けているので、今後も日本や海外を行き来したいと思っている。
そして二拠点生活のなかで、EUと日本をつなぐようなことにもっと携わっていけたら嬉しい。
こんなことは、留学前は考えもしなかったので、結局、留学生活で得たことは、単なる学位ではなく、人生の幅と選択肢を広げるための切符だったと言えるかもしれない。
就職をしてもしなくても生きていけるし、どこで生活をしてもいい。自分が満足していれば、それが人生の正解なのだ。
日本にいたときは、受験や就職、結婚などのプライベートに至るまで誰かと自分を比較していた。ベルギーにきて、あまりに多様な人と出会い、前提条件の違いに気付いた。
人と違うのが当たり前なので、比較したところで何も意味がない。これに気付いた私は、留学によって、本当の意味での「自由」を手に入れた気がする。