食べられなかったあの時代 弟へ 私は子ども食堂のキッチンにいます

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三宅梨紗子
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 野菜たっぷりのシチューに、ピザ。12月18日、「要町あさやけ子ども食堂」(東京都豊島区)では、クリスマスのメニューが並んだ。「いただきます」。子どもたちの元気な声が響く。

 最年長のボランティア、原尾多津枝さん(83)は、キッチンやリビングを移動し、時折座って休憩しながらその様子を見守っていた。

 手伝いを始めたのは、1年半ほど前。きっかけには、過酷な原体験がある。

 旧満州生まれ。満州航空で働いていた父はフィリピンへ出征し、母と二つ下の弟と暮らしていた。1945年8月9日、ソ連軍の侵攻が始まった。日本から来ていた祖母も一緒に、わずかな食糧と茶わん、防空頭巾などを持ち、帰国を目指した。

 1カ月も経たないうちに、2歳になったばかりの弟が栄養失調と疫痢で亡くなった。一番いい着物にくるみ、好物のお菓子を添えて、他の子どもたちと一緒に土に埋めた。その10カ月後、祖母も感染症で息絶えた。母は泣きながら、祖母の口に水を運んだ。

 博多港に着いたのは翌年10…

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この記事を書いた人
三宅梨紗子
ネットワーク報道本部
専門・関心分野
福祉、多文化共生
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