世界各地で戦禍が続くなか、第2次世界大戦の犠牲になった画学生たちの作品を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の共同館主に就任した、文筆家の内田也哉子さん。「生」や「戦争」について自問自答しながら、混迷の時代をどう生きていくのか、聞いた。
先の見通せない不確かさに覆われた時代をどう生きていくのか、社会と向き合う人たちに語ってもらった。
――2024年6月、「無言館」の共同館主に就任しました。どのような場所でしょうか。
展示されている戦没画学生の絵は、最年少は17歳、多くは20代や30代で、まだまだこれから人生が続き、花開いていく時期に描かれています。描くことにひたむきで、「表現」という根源的な行為を象徴するエネルギーがある。彼らが戦争で散っていった事実があるから、どうしても悲しいものに見えてしまうけれど、彼らの生命力、純粋に「生きる」ということがそこにはあります。無言館を立ち上げた館主で作家の窪島誠一郎さんの、「戦争資料館としてではなく、命にスポットをあてたい」という思いが込められています。
たとえあと数時間後に出征しなければいけない現実があったとしても、キャンバスに向かっていたその瞬間は紛れもなく平和で喜びに満ちていた。愛している人を描いているのか、自分を育ててくれた美しい景色を描いているのか、題材は色々だけれども、本当にかけがえのない瞬間や思い、その積み重なりが「平和」というものだと思う。矛盾はしているけれど、「生」と「戦争」というものを両方感じられる場所だと感じています。
――なぜ共同館主になったのですか。
元々のご縁は、母(樹木希林さん)が戦後70年のドキュメンタリーの特別番組で無言館を訪れたことでした。窪島さんも母も2人とも病を抱えていたこともあって、「死」について6時間くらい語り合ったそうです。
母は死というものを私が幼い頃から見せるようにしていて、たとえば母の友達が亡くなったらお通夜に連れていかれ、「こうしてあっけなく命というものは終わるんだよ」と言われた。子どもの頃はそれがすごく怖かったし居心地が悪かった。けれどやっぱり「死」というものがあるからこそ「生」が浮き立ってくる。そのメッセージは親が他界して今、自分の中で特に鮮明になってきています。
私自身は、19歳で結婚して3人子どもがいて、ずっと家庭を耕すことに注力してきた。ただ、他界する前に母はよく「もうそろそろ誰かのために、自分を使ってもらえるようなことが見つけられるといいね」と言っていた。「多くの」という意味じゃなく誰か一人だけでも、誰かのために役立っている、誰かを笑顔にできる、誰かの背中を押せるということが、自分自身の生きる活力になると。人生の折り返し地点に立った40代半ばの私に、限られた人生や時間をどう使うか考えながら生きてほしい、というメッセージだったと思います。
私なりにそれを模索している中で、窪島さんと出会った。母が亡くなった翌年、母の道をたどる形で、私も無言館を訪れました。その後、窪島さんと対談もして、「2頭立て馬車に一緒に乗ってくれる人を探している」と共同館主のお話をいただきました。
「乖離」をどうつなげていくか
――内田さん自身は「生」や「戦争」とどう向き合ってきましたか。
実は、無言館の尊さを伝えていくという大役が自分に務まるのだろうかと、ずっと悩んでいたんです。
それまでは戦争というと、自…
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