社会学者の卵の中村香住氏の「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」と言うエッセイに対して、ネット論客の青識亜論氏が「オタクコンテンツにエシカル消費はいらない」と言う批判を加えているのだが、青識亜論氏の議論に今後を考えると小さくない問題があるので指摘しておきたい。(1)性的モノ化(sexual objectification)の議論、フェミニスト倫理学者ヌスバウムのものと乖離している。また、(2)メディアが自分や他者の行動変容をもたらしうると危惧されていることや、他者の内面のあり方も道徳的に問題になりうることを忘れている。
1. 性的モノ化の定義について
ヌスバウムは人格である存在(パーソン)を道具として扱ってしまうことがモノ化の諸々の道徳的問題の起因であると論じているのだが、モノ化それ自体が必ず不正とはしていない。青識亜論氏が参照している江口論文*1の第3.4節で、ワンダフルなモノ化の例が紹介されているが*2、ヌスバウムによれば*3状況もしくはモノ化の(その文脈における)定義による。
昨日、流れていたインタビュー記事*4でも、自己モノ化の例として露出度が高いセクシーな服を着ることを挙げているが、悪い事ではないとしている。ゆえに、以下の青識亜論氏の説明は、ヌスバウムの議論に沿ったものであれば、誤りとなる。
例えば、グラビアアイドルは自らの肢体をセクシーに見せる職業であるし、読者に「見られる客体」になることが当然に予定されているのだが、だからといってその自己表現が直ちに性的客体化に当たるとは言えない。
「性的客体化にはあたるが、ただちに不正ではない」とすべき。ツイッターらんどのフェミニストの創作物が性的客体化だと言う非難は、(1)誰が誰を性的客体化するとしているのか*5、(2)その性的客体化は不正と言えるのかと言う2点が不明瞭なのだが、批判する方がツイフェミに騙されてよいわけではない。
2. 倫理的に「「まし」な消費の仕方」はあり得る
青識亜論氏の以下の主張、大きな問題がある。「明らかだ」としているが、明らかではない。
中村氏はフェミニストを「ジェンダー平等」を希求する者として定義しているが、オタクコンテンツの愛好者が「ましな消費」を心掛けたとしても、ジェンダー平等には微塵も寄与しない。
オタクコンテンツをエシカル(倫理的)に消費したとしても、(自己満足を覚える当人を除いては)誰一人として幸福にしないことは明らかだ。
中村香住氏の「「まし」な消費の仕方」の「まし」の意味がよく取れないのだが、創作物が人々の振る舞いに悪い影響を与えるのであれば、影響を受けないようにコンテンツ消費を行うことは、ジェンダー平等に寄与することになる。ここでの振る舞いは、男性の出演者の女性への態度、男性の女性一般への態度、女性の自己評価などを含む。マンガ・アニメ・ゲーム内の性的描写が犯罪を誘発する説は根強くある。青識亜論氏にはかつて、アメリカ心理学会の古いレポートで、メディアのポルノ化が少女の自己モノ化を促進し、心理的・肉体的・進路的に少女の人生に悪影響を及ぼす可能性を指摘していたことを知らせたことがあるはずなのだが、忘れてしまったようだ。どちらもあんたは支持していない説だろだって? — 信じていなくても言及しないといけないものもある。
女性の尊厳を傷つけるような作品を敬遠することも、同様にジェンダー平等に寄与しうる。他者の内面が、女性の自尊心に影響しうるからだ。男女問わず、他者にどう思われているかと言うのは、人間の幸福度に大きく影響する。また、自分の属性への評価は自分への評価と考えてしまうことがあるのは否定できない*6。だから、多くの女性は女性の尊厳が踏みにじられる作品は不愉快だし、男性がそのような作品を愛好すれば、男性が女性の尊厳を尊重していないと感じて不愉快になる。さらに、商業ベースである以上、人気作品の作風がその後の作風に影響を与える傾向があるので、作風は製作サイドだけの責任とはいえない。フェミニストは男性が女性の尊厳を尊重すべきと考えているわけだが、それが女性に実感できることもジェンダー平等の条件の一つとして要求しており、女性の尊厳を踏みにじるような作品を愛好するコンテンツ消費者はジェンダー平等の実現を阻害している。ツイフェミに非難されてきた作品の多くは、女性の尊厳は十分尊重していると思うが。
3. 表現の自由の問題は自明ではない
以上の問題は性的モノ化の道徳的問題と言うよりは、性的モノ化された女性を描いた作品を見たときに、もしくは作品を楽しむ男性を女性が見たときに、どういう道徳的問題が生じうるかの可能性を議論したものであって、実証的に何か強い根拠が提示されていない事には注意して欲しいし、表現の自由が創作物を豊かにすることで、コンテンツ消費者の幸福を高めていることも忘れないで欲しい。しかし、「暴力的」とまでいかなくても、作品が誰かを傷つける可能性は必ずあり、受け手の行動を変容させることも危惧されている。
これらは、功利主義でもロールズ主義でも程度によっては大きな問題になるし、実際、近代的な社会では、名誉毀損・誹謗中傷・公衆猥褻・プライバシーの侵害などは許されておらず、これは創作物においても適応されている。(行動変容が実際にどれぐらいあるかは疑義が多いのだが)子供への悪影響を心配して、映画やゲームではカテゴリー制限も設けられている。どこまで自由な表現を許容すべきかと言う問題は確かにあり、それは決して自明な話ではない。
*1江口 (2006)「性的モノ化と性の倫理学」現代社会研究, 9号, pp.135–150
*2江口氏の紹介で満足できない人は、Nussbaum (1995)のp.251あたりを参照。
*3江口論文によれば、カントさんに聞けば、生殖のための夫婦生活以外の性的モノ化は必ず不正になるそうだ。
*4The Objectification of Women with Martha Nussbaum - Literal Magazine(ゲリラ訳)
*5創作物のキャラクターは最初からモノなのでモノ化しないと言う批判を、まず、投げかけるべき。男性コンテンツ消費者が女性を、女性コンテンツ消費者が自分自身を性的モノ化すると言う話に進めば、もっと具体的に議論を深めることができる。sexual objectificationではなくて、pornificationが問題だったりしそうではあるが。
*6関連記事:エロ可愛い格好は女性に有害
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