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テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ 単行本(ソフトカバー) – 2005/9/27

4.6 5つ星のうち4.6 22個の評価

▼90年代、いつしか当たり前のように「マンガはつまらなくなった」という言説が一人歩きを始めた。実際には、多様なマンガ作品が数多く生み出された豊潤な時代だったというのに。
▼だが、戦後マンガの隆盛とともに歩んだ世代は、それを見て見ないふりする。89年、手塚治虫の「死」以降、あたかもマンガの歴史が終わったかのように、マンガの歴史には何も付け加えるべきものがないかのように語られた。マンガが描かれ、読まれ、変化を続ける現実は厳然と存在するというのに議論はいつも同じ所を堂々巡りしていた。
▼私たちは神(=手塚)の死後15年というもの、歴史的空白のなかにいる。この間に描かれ、読まれ、愛されたマンガたちは、孤立し、そして急速に忘れられようとしている。空白は歴史の分断である。89年で歩みを止めてしまった者たちが、いくら「手塚は…」「赤塚は…」「石森は…」と言っても、若い世代から「それ、あなたがたのノスタルジーでしょ」と見向きもされない現実は、その空白に由来する。
▼これは、マンガというジャンル全体にとって不幸ではないのか? マンガ史を書かせずにきた「マンガの近代」が抱え込んだものとは? 私たちの生きる、二重の意味での「歴史の不在」を解き明かし、90年代以降、そして「これから」のマンガ表現の可能性を「キャラとリアリティ」という視点から探る。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ NTT出版 (2005/9/27)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2005/9/27
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本(ソフトカバー) ‏ : ‎ 320ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4757141297
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4757141292
  • カスタマーレビュー:
    4.6 5つ星のうち4.6 22個の評価

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伊藤 剛
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星5つ中4.6つ
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上位レビュー、対象国: 日本

  • 2014年10月1日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    2005年にでた単行本のオビには夏目房之介・東浩紀両氏の推薦文があり、
    ユリイカ2006年1月号でもとりあげられ、なんだかスゴイのがでたなぁとおもった記憶があります。
    いまふりかえると2001年には日本マンガ学会の創設、2004年には夏目房之介氏の『マンガ学への挑戦』があり、
    あのころはマンガ語り界隈がおおきく変わりつつある時期であったとおもいます。

    さて、新書になってひさびさに読みなおしてみましたが、やはりとても刺激的でおもしろかったです。
    厳しいレビューも書かれていますし、私自身、正直いってきちんと消化しきれていないところもあります。
    しかし、おもに3つの点を理由に、本書を強くオススメしたいとおもいます。

    【1】マンガという現象を1つのモデルにまとめている。

    図は5つにわけて解説されていますが、マンガという現象を見事に1つのモデルにまとめています。
    そのころ私はマンガ関連の本を2、30冊ほど読みあさっていたのですが、バラバラにみえていた
    作品論・作家論・オタク論などがこの1つのモデルのどこを切り取るかで整理できうることに大変おどろきました。

    なお、『ぼのぼの』をおおきくとりあげ、これまでに書かれたマンガ史の終点に設定していますが、
    著者は『ぼのぼの』こそが唯一画期的だといいたかったわけではないとおもいます。
    あくまで、いがらしみきお氏が80年代後半以降になにをかんがえ、なにをやろうとしていたか、
    まわりの批評家らはそれをどのようにとらえたかという事例をみて、モデルをとりだすことが目的であったはずです。

    【2】テヅカ中心史観を相対化してみせている。

    テヅカ神話がいかに形成され、それによってどのような問題が起こっているかをじっくり検証しています。
    また、積極的に近年のヒット作(90~00年代)のタイトルをあげているのもかなり新鮮でした。
    マンガ時評などをのぞいてヒット作をあつかうこと自体、当時は珍しかったようにおもいます。

    引用だらけという指摘もありますが、それまでの言説を検証し、自説を展開するのが趣旨ですから当然のことでしょう。
    なにより著者には、70年代のぼくら語り(それまでの言説をはねのけたことで、のちにいきづまりをみせた)と
    同じあやまちをくり返すまいという強い意志があったのだとおもわれます。

    【3】言語化までのもがき苦しみがあらわれている。

    本書はかなりまわりくどかったり飲みこみづらかったりする部分も多い(特に表現論について)のですが、
    それは著者自身が無意識に感じていることをなんとか言語化しようともがいていたからだとおもいます。
    そういう意味で、マンガにかぎらず現在マイナージャンルとされているものの魅力を
    なんとかコトバにしたいという人にとっても参考になる部分があるんじゃないでしょうか。

    もちろん、マンガをまともに語りたいという人にとっても必携の書になるとおもいます。
    巻末の参考文献一覧はそのままマンガ批評のブックガイドとして、各章末にある註釈は用語集としても使えます。
    特に【1】のモデルにおいて、自分がどの立場からどの位置をみて語るのかを意識することはかなり大事なことだとおもいます。

    ちなみに、新書化にあたって、あとがきが書きおろされたほかはほとんど加筆されてないそうです。
    (フォントや図版はむしろ見やすくなったとおもいますが、ページ数の都合からか索引が削られたのは少し残念でした)
    28人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年4月12日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    本日届きました。商品の状態もよく満足です。
  • 2005年12月17日に日本でレビュー済み
    何かにつけて「物知り大会」に陥りがちだったマンガ研究を現代までひきずり出す一冊。「動物化するポストモダン」などの一連の議論に目を通されている方向けの書籍ですが、本書は曖昧な「ぼくら語り」から一歩進み、マンガ史から適度な距離感を持ってマンガ表現論が確立するための、重要な一歩となることは間違いないでしょう。
    30人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2006年12月8日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    奇を衒ったような挑発的なタイトル、過剰なまでに丹念な先行の言説の批判的検討の所為もあって、この本をマンガにおける「萌えの時代」を肯定するものと考える向きもあるかも知れない。しかし、そうした読みは本書で行われている仕事の重要性をそれこそ「隠蔽」してしまうだろう。

    本書の達成は何よりもまず、マンガ表現を構造的に分析するモデルを提示した点にある。「萌え」を駆動するマンガについて肯定的に語られるのも、それらがまさしく「マンガ」であるからに他ならない。むしろ「キャラ」「フレームの不確定性」を十分に捉えていなかった従来の批評が、限定されたマンガしか語りえなかっただけだ。

    重要なのは、モダン/ポストモダンというマンガ表現の「切断」の指摘ではなく、一見「切断」して見えるものを、連続性の中で捉えられる視点を導入した部分にこそある。
    23人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2006年7月26日に日本でレビュー済み
     p295の記述にもかかわらず、私は本書タイトルからLA STYLEのJames Brown Is Dead(1991)を想起した。「動物化」の観点から考えても似つかわしい。

     要点は2つ。第1に「キャラ」のリアリティ。これは「人格を持った身体の表象」としてのマンガのキャラクター(ルプレザンテ)を、描線の一定のアンサンブル(ルプレザンタン)の水準で見た時に立ち現れる対象で、「萌え」はこの境位で発動する。

     ただし、「萌え」は想像的同一化ではない。「キャラがその成立から今日に至るまで、『文字=シンボル』と『絵=イメージ』を明確に分かつことのない『不純な領域』にあり続けることも忘れてはならない。一方、ラカンによるモデルとは、イメージとシンボルの分割を前提にしたものなのである」(p245)。この問題意識は「環境管理型権力」の問題にも、新たな言語論にも連接する。

     第2にフレームの不確定性。これはマンガにおいてコマとページ(または見開き)のいずれをフレームと見るべきかの決定不能性を意味する。

     著者によれば、マンガのモダンは手塚の『地底国の怪人』におけるキャラ否認によって開幕する。そして「劇画-少年/青年マンガ」におけるコマのモンタージュ技法の発展(=フレームの不確定性の抑圧)により「映画的リアリズム」が成立。この起源が『新宝島』に遡及的に措定されてテヅカ神話が完成する。つまりマンガのモダンは上記の2つのエレメントの抑圧/隠蔽によって仮現している。

     記述のもたつきや、やや性急な部分、柄谷的な文学史観への無条件の寄りかかりなど気になる点はあるが、全体として帯の夏目・東両氏の推薦文はきわめて的確だ。マンガの理論は、これで確かに1歩前進していると思う。
    25人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2009年10月17日に日本でレビュー済み
    「本書は、マンガをさまざまな表現行為のひとつとしてとらえ、そこに内在するメカニズムを
    見ようとしている。……第1章は、80年代後半以降から現在に至るマンガをめぐる言説の
    問題についての文章からなる。……第2章では、80年代後半にマンガに起こったと思われる
    決定的な変化を指摘し、その意味について考察を加えた。……第3章は、マンガという表現を、
    その必須構成要素である『キャラクター』という観点を軸に分析を試みている。……そして、
    第4章と第5章では、より大きなマンガ表現史へと言説を開くことを目標に、マンガにおける
    『リアリティ』のありようを手がかりにした議論を行っている」。

     形式が内容を規定する。成熟は限りなく飽和と似る。
     例えば絵画において、写実主義やロマン主義といういわば「ベタ」の方法論がほぼ出尽くして、
    その状況の打破として提示される現代美術が、隘路を志向する他なくなった結果、大半の
    受け取り手にとってはもはや理解不能な代物と化してしまったような話。
     手塚という啓蒙家によってもたらされた近代日本マンガの革命が、手塚という「ベタ」をいわば
    「制度」として消費し尽くしたその帰結として、手塚の向こう側へと飛び出そうともがき苦しむ。だが、
    その状況はしばしば「マンガはつまらなくなった」として片づけられてしまうのだけれども、その試みを
    否定的にばかり解するのではなく、開かれたマンガ論の中で系統立てて理解し展開するために、
    その基礎づけとして「マンガ表現史」を構築しようというのが本書の狙い。
     モダンの打破という主題について、例えばマンガを素材にとって、論点や用語の整理からはじめて
    みたらこうなりました、という一冊。議論の整理に追われて、しかしその整理さえもかなわず、
    その結果、自身の論旨もやや不明瞭、個人的には消化不良の印象が残る一冊。
    23人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2005年11月16日に日本でレビュー済み
    興味を持って買ってみたが、とても全部読めなかった。
    難解な言葉、マンガ批評ではなく、マンガを踏み台にした近代哲学、近代思想を展開したかっただけのようにしか思えなかった。
    やたら概念化した言葉(プロトキャラクター性、前キャラクター態etc)がぞろぞろ出てくるが、それらの肝心な説明も十分にしないままどんどん読者を置き去りにし、はやばやと著者は結論を出してしまう。
    最後の第五章の内容が一番、この本のテーマとする大事なところであると思うのに、
    その部分は「〜と思われてならない」など主観的感想、直感的発言を連発し、結論へ至る論理的飛躍が目立つ。
    注釈も抽象的でとても専門的知識がない人には、ついていけない。

    結局ストーリーマンガが、マンガの生来の性質を隠蔽し、その元凶が手塚崇拝だといいたいのだろうか?むしろキャラが、共有出来るテクストから離れ、マニアックな視点になることで、どんどん閉じた系になり、部外者が感情移入できない領域になっていきはしないか。
    「マンガがつまらなくなった」というのは、小さな価値集団に分かれた個々のキャラファン同士の「共有する物語」がいらなくなった状況だが、それはマンガ言説の問題だけではないだろう。時代や社会と密接に関わっているのだから。歴史や時代性に影響されない人間がいないように、歴史や時代性に影響されない中立普遍的な表現など存在しない。例えば、西欧のアートに中立普遍的な視点からの批評が存在しないことはアートの歴史それ自体が裏付けているのではないだろうか。
    80人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2006年1月11日に日本でレビュー済み
     1989年の手塚治虫の死と符合するようにささやかれはじめた「マンガがつまらなくなった」言説。“ゲームやケータイの登場でマンガの相対的価値が下がったから”、“ジャンルが細分化して全体を見通せなくなったから”、なんて理屈付けも出来るけど、それだけじゃどうにも腑に落ちない、とにかくこのままじゃヤバイ!っていうのが著者の問題意識。

     で、マンガあるいはマンガ言説が停滞してるかに見える要因はどうやら“偉大なるテヅカ”にあるんじゃないか、ってのが著者の見立てだ。“偉大なるテヅカ”を一旦御破算にしないとマンガはこの先進めないっていう危機意識。映画でも文学でもない、マンガ独自の自律的な表現システムの要として著者は「キャラ」という概念を挙げる。テヅカが(もちろん本意ではなく)、自律性、リアリティを本来的に持つ「キャラ」を隠蔽することで、戦後まんが史がスタートしてしまったことを、著者は丁寧に検証していく。戦前、戦中と戦後のまんが表現史を図らずも切断してしまったのが“偉大なるテヅカ”であるって文脈は、大塚英志の近著「『ジャパニメーション』はなぜ敗れるか」にも重なってくる。

     門外漢からすると、マンガ表現論の各論、ディテールはちょっと退屈だけど、全体の論旨はとっても刺激的。

     逆にさらに突っ込んだ論議を期待するむきには、本書を起点として各論が展開されている「ユリイカ 」2006年1月号「特集 マンガ批評の最前線」を読むべし。
    41人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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