「en-taxi」SUMMER 2009 VOL.26
「en-taxi」AUTUMN 2009 VOL.27
2月は以下三本の雑誌記事をワープロソフトに打ちこんで、あれこれ手を加えていた。
・「en-taxi」VOL.25掲載、「不確かさと理不尽さの合間」
・「en-taxi」VOL.26掲載、「師と師の師の間に」
・「en-taxi」VOL.27掲載、「我が石原慎太郎の慎太郎」
昨年亡くなった福田和也さんのことを数回に渡って書いたところ、「回想録を出したら」とか「関係者に取材して評伝を書いたら」と言ってくれる人がいる。たしかにまだ書いてないこと、書くべきことがあるような気はする一方で、どういう形で書いたらいいか、どういう形で公表するべきか、具体的なイメージがまとまらない。今の自分に書けるだろうか、という疑問もある。
なにしろ疎遠になって15年近く経つ。近年の(晩年の)福田和也という人のことは著書や伝聞によってしか知らないし、親しかった頃の記憶もところどころぼやけて褪色している。まずは当時の自分に聞いてみるか、という気持ちで昔の原稿を引っぱり出したわけだ。
「en-taxi」は2003年に創刊した「超世代文芸クオリティマガジン」、要は少々変わった文芸誌だった。創刊時は編集同人として柳美里、福田和也、坪内祐三、リリー・フランキーが名を連ねていた(敬称略)。その後、柳美里さんが抜けて重松清さんが加わり、2015年に休刊した。私は福田さんの門下生だったために、2010年頃まではいろいろ書かせてもらっていた。
書かせてもらったという言い方は謙遜ではないが、より率直に言えば、ずいぶんな荒稽古をつけられた。「出獄した角川春樹さんをお迎えして句会をやるから俳句を20個作りなさい」と言われたときは天を仰ぎ、「石原慎太郎さんと立川談志さんの対談をするから構成をやって」と言われたときも天を仰いだ。比喩ではない、人間、困ったときは空中に視線を泳がせるのはどういうわけだろう? ある門下生は「佐藤和歌子は福田和也と寝て仕事をもらっている」とウワサしていたそうだが、バカ言ってんじゃねーよ、だったらテメエが書いてみろ、と思ったものだった。
福田さんとの距離が一番近かったのが2009年で、その時期に「書かせてもらった」上記三本の原稿を、私自身は荒稽古の極みとして記憶している。概要としては、懇意にしていた陶芸家が亡くなって、その追悼文を書けと言われたのが一本目(先生が書かないのになんで私が?)。江藤淳の没後10年特集を組むからアナタも何か書きなさいと言われたのが二本目(先生の先生について書くなんて荷が重いわ~)。ブルジョワジーを特集するから石原慎太郎について書いてみない? と言われたのが三本目(ハイハイ、わかりましたよ)。
酒の誘いだろうと原稿の依頼だろうと先生に言われたことは断らない、福田さんが私を弟子と呼ぶようになった頃から、私はそう決めていた。人の家でごちそうになるときに、これは食べたくないとかあれが飲みたいとか、ワガママを言わないのと同じで、差しだされたら選り好みしないでいっさいがっさい飲む。それが「弟子」としての礼儀だと思っていた。
そのため、呼び出されたら深夜だろうと銀座のバーに向かい、正月二日の二十三時にご自宅へお邪魔したこともある(ご家族には迷惑だっただろう)。原稿も、引きうけた後で途方に暮れて、〆切間近になってから半ばヤケクソで書きだしたものだった。
昔の自分の原稿を読み返すことは、私はあまり好きじゃない。写真に映った自分の顔を見たり、録音された自分の声を聞くのと同じようなもので、端的に言って恥ずかしいからだ。だいぶ時間が経ったから冷静に読めるかと思ったけれども、やっぱり今回もダメだった。当時は書けたつもりだったけど思ったより書けてないなとガッカリしたり、今の自分には書けないなと感心したり。いろいろな感情が渦を巻いて、チクチクと羞恥心を刺激する。
読み返すだけでは収まらず手を入れようと思ったのは、この文章は福田和也ただ一人に向けて書かれている、と感じたからだ。原稿料をもらう以上はその雑誌の読者にとっておもしろい原稿を書くのがスジというもので、その要件は、編集同人である福田和也がおもしろいと思う原稿を書けばおおむね満たされるだろう。そういう、当時の自分の射程感覚が誤っていたとは思わない。その一方で「en-taxi」に限らず、ライター時代に書いた原稿はだいたい全部そうだったな、先生に喜んでもらうために書いてたんだな、とも思う。私にとってそれくらい大きい存在だった。
批評家としての福田和也が後世どのように評価されるかはわからないが、100人の現役作家の主要作品を百点満点で採点した『作家の値うち』を例に挙げれば、少なくとも読み巧者だったことは否定し得ないと思う。文章表現の道を志した二十代の若者(私)にとって、そういう人を読み手として想定し得たことは、幸運なことだった。やがて師弟関係が破綻して、その若者が自分の文章を見失った(そしてライター業を廃業した)ことは、そのツケが回ってきたからだとも言える。因果応報、あのときああすればよかったという後悔は、思いつく限りでは一つもないけれども。
2009年当時、福田和也ただ一人に向けて書かれたテキストを、不特定多数(少数)の未知なる読者に向けて開くとしたら。そういう試みとして、昔の原稿に手を入れてみた。
そんなわけで来週以降、冒頭にあげた三本の記事を三回に分けて転載します。記事自体は無料で公開して、編集後記のようなものを有料(300円)に設定する予定です。前回購入ボタンをつけたとき(2024年12月27日付)と同様、投げ銭的な性質になると思います。
福田和也という人について、ある程度まとまった形で書くとしたら、なんらかの形で「商品」にするべきだと思うけど(対価が発生しない状態では完遂できない気がする)、どういう形が良いのかが、まだ見えてこない。今回の投げ銭(的なもの)の結果が参考になるかもしれない。
たとえば、三本の記事にはそれぞれ福田さんが登場しますが、一本目では「先生/福田先生」、二本目では「福田和也/福田」、三本目では「F先生」という具合に距離感に微妙な違いがあります。全部読んで全部「購入」してくれたらもちろん嬉しいけど、購入者数のばらつきを見て、どういう距離感が好ましいとか、そんなようなことを参考にしたいなと。
あとは、福田さんについてまとまった形で書くのがいつになるかはわからないけど、思うように書けなくて投げ出したくなったときに、どこかの誰かが「購入」してくれたら、やっぱり書こうと顔を上げることができるかもしれないな、とか。
なるべく横書きのwebテキストという体裁に馴染むように手を入れたつもりですが、それぞれ約二十枚(8000字くらい)だから、普段のブログ(2000~3000字くらい)と比べて長すぎるかもしれない。ご興味のある方は、時間に多少余裕があるときに遊びにきてください。
おっと、はてなブログの今週のお題が「思い出の先生」とのことです。卒業シーズンだからでしょうね。福田さんは私にとって「思い出の先生」なのかなあ、どうなんだろう?