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SF作家のニール・スティーヴンスンは、メタバースを“発明”したと言える人物だ。少なくともイメージをつくり出したという点ではそうだろう。
ほかのSF作家も同様のアイデアをもっており、仮想現実(VR)の先駆者たちはすでに人工的な世界の構築を始めていた。しかし、スティーヴンスンこそ、1992年発表の小説『スノウ・クラッシュ』で物理的な世界に代わるデジタルな空間に逃避するというビジョンを具体化しただけでなく、それに名前を付けたのである。
スティーヴンスンは『スノウ・クラッシュ』で大作家としての地位を確立し、そこから大きな成功を収めてきた。ところが、スティーヴンスンの描いた「人々の周囲を取り巻く持続的かつ没入的な現実に代わる世界」は、2021年後半から突然、コンピューティング分野の次の進化のステップとして認識されるようになったのである。
「メタバース」はバズワードとなり、大手テック企業は製品化を急いでいる。なかでも力を入れている企業が、社名をメタ・プラットフォームズに変更した旧フェイスブックだ。メタは拡張現実(AR)やVRを開発する社内チーム「Facebook Reality Labs」に数十億ドルを投入している。
一方で、メタバースを実現する技術は、まだ手の届かないところにある。それにもかかわらず、マイクロソフトからアマゾンに至るまで、どの企業もメタバース戦略を打ち出し始めたのである。
このころスティーヴンスンは、気候工学がテーマの新作小説を発表し、宣伝しているところだった。「ところが、本のプロモーションで出向いた先々で『あなたはメタバースについてどう思いますか』と質問されたのです」と、スティーヴンスンは語る。その質問に対するスティーヴンスンの答えは、困惑と嫌悪が入り混じるものだった。
その理由のひとつは、『スノウ・クラッシュ』で描いたメタバースがディストピアのような世界だったからだ。メタバースは「素晴らしい場所になる」と謳っている企業が無視している点である。それに自身の架空の創造物が、成長に貪欲で利益を追求する巨大テック企業に支配されつつある様子は、見ていて楽しいものではなかったのだ。
暗号資産との接点がもたらした疑念
ところが、ここで話は奇妙な方向に進む。スティーヴンスンは、自身の描いた架空のアイデアを現実のものにしようと、独自の挑戦を始めたのである。
こうしてスティーヴンスンは、暗号資産に精通しビットコイン財団を率いるピーター・ヴェッセネスと共に「Lamina1」を創業した。Lamina1は、クリエイターたちがオープンなメタバースを構築できる基盤をつくることを目的としている。
「まるでスティーヴンスンが、小説『指輪物語』の魔法使いガンダルフのように山から降りて、メタバースのオープンかつ非中央集権的で創造的な秩序を取り戻すようなものです」と、Lamina1の戦略アドバイザーを務めるロニー・アボヴィッツは語る。アボヴィッツはマジックリープの元最高経営責任者(CEO)で、スタートアップであるSun and Thunderの創業者でもある。
“正義”がこの新しい会社のブランディングになっているようだ。当初はスティーヴンスンが「カーダシアン的」に、自分の作品が偶然にも発端となった流行に便乗しているだけではないかという疑念が向けられていたことを、ヴェッセネスは認めている。
「スティーヴンスンは自分のブランドを、得体の知れないメタバース企業に売ってしまったのか、というのがよくある最初の質問でした」とヴェッセネスは語る。またヴェッセネスのビットコインの推進者という経歴から、Lamina1は“ぼったくり”ではないかという疑問が、その次によく聞かれていたという。
「話をすると、最終的には順当な取り組みであるとわかってもらえます」と、ヴェッセネスは語る。そして「これは本当なの? 本当にやるつもりなのか?」と聞かれるという。Lamina1は本気で、投資家も出資している。「リード・ホフマン(リンクトインの創業者)は、VRゴーグルが未来ではないが、それでも会社はうまくいくのかを知りたがっていました」
ヴェッセネスが「うまくいく」と断言すると、ホフマンは個人名義での出資を決めている。
「ひとつのメタバース」をつくり出す
会社がうまくいくかどうかは別として、Lamina1の使命には説得力がある。コンピューター技術の歴史は、ユーザーと開発者にどちら側に付くのかを強制的に選ばせてきた忌々しい過去がある。MS-DOSか、アップルか。Windowsか、Macか。アップルか、Androidか、といった具合だ。
あるいは、ひとつのプラットフォームがある製品分野をすべて支配し、ライバル製品を締め出すことで創造性や使い勝手の発展を阻害した例もある。オープンなソーシャルプラットフォームを実現する計画を、フェイスブックが参加を拒否したことでつぶしたことを覚えているだろうか。
これがメタバースで起きれば大惨事になる。メタバースを支配する企業は、人々が働き、遊び、物を買う世界を、文字通り「所有」することになるのだ。
Lamina1の目的は、このような事態を防ぐことにある。スティーヴンスンもヴェッセネスも、ひとつのインターネットがあるように、最終的にはひとつのメタバースが存在すべきと考えている。しかし、そのメタバースには、さまざまな体験や仮想世界に対応できるよう十分な柔軟性をもたせるべきというのが、スティーヴンスンとヴェッセネスの共通認識なのである。
「メタバースを構築したい人たちのためにオープンソースのブロックチェーンという選択があったなら、それはどのようなものになるのでしょうか」と、スティーヴンスンは問う。「技術として、社会的な組織として、どのような特徴をもつものになるのでしょうか」
Lamina1は、こうした問題に取り組むと公言している。
メタバースの基盤をつくるという冒険
スティーヴンスンのテック企業への参画は、世間が思うほど劇的な転換ではない。スティーヴンスンは以前から、工学的な側面を見せていたのだ。
『スノウ・クラッシュ』のメタバースについて説明する最初の段落で、スティーヴンスンが細部までマニアックに描写していたことを多くの人は忘れている。小説ではヘッドセットがレーザーで目に色のベクトルを照射する様子や、いまでは「空間オーディオ」と呼ばれている技術でメタバースの体験を高める方法について説明していた。
スティーヴンスンは、これまで執筆活動をしてきたほぼすべての時間を、作品の創作と興味深いパートタイムの仕事に充ててきた。民間宇宙企業のブルーオリジンや、特許を大量に所有して革新的な事業を展開するIntellectual Ventures、拡張現実の先駆者であるマジックリープとかかわってたのである。
それでもLamina1は、スティーヴンスンにとってこれまでの活動とは異なる。地球上で最も強力な企業と相対する会社の創業者になったのだ。
いまのところLamina1の開発者は3人だけだが、没入的な体験や空間技術の専門家と共にブロックチェーンに取り組む人員を20〜200人にまで増やす予定だと、ヴェッセネスは説明する。だが、メタだけで開発者を数千人も抱えている。
Lamina1の計画はメタバースの基盤をつくることだ。その上にさまざまなサービスがつくられることを想定している。ゲームやほかのアプリのプラットフォームとなる「Unity」のようなサービスも登場するかもしれない。これは無数の外部の開発者が、このシステムの開発に力を注ぐことで成立する。
またLamina1は、収益化についても独自の計画を立てている。ベンチャーキャピタルから出資を受けているので、この点は非常に重要だ。
現時点での計画は、大企業がLamina1のオープンな環境で製品を開発する際に落とす細かい金を集めることである。「経済性は人々によるプラットフォームの採用と結びついています。多くの人が使うほど価値が高まるのです」と、ヴェッセネスは語る。イーサリアムのブロックチェーンにおけるガス代のように、安定した細かな収益が最終的には大きな額に積み上がるのだと、ヴェッセネスは説明している。
だが、開発者が資金力のある巨大企業と仕事をする誘惑を無視し、オープンなメタバースをつくろうとする反抗的な取り組みに参加しない限り、これは機能しない。そしてそれは、オタクに響く何千ページにも及ぶ文章を通じて評判を得た人物が共同創業した会社の取り組みなのだ。
「スティーヴンスンはお金では買えない道徳的、哲学的な面で、今回の取り組みを後押しできると思います」と、Lamina1の戦略アドバイザーのアボヴィッツは語る。「世界は冷ややかなのか、それとも理想主義的なのか。人々はオープンで、民主的で、創造的で、ピアツーピアの形式で仕事をすることを望むのか、それとも何でも与えられることを望むのか。『ライトセーバーを手に取り、やってみよう! 』という思いです」
正直、うまくいきそうにはない。だが、これはスティーヴンスンの小説に似つかわしい冒険なのだ。
Lamina1の取り組みにおける唯一の欠点は、スティーヴンスンが2022年内には小説を書かないことだろう。22年の残りの期間、スティーヴンスンは起業という冒険に集中し、物語を何ページにもわたって書くという朝の日課を見送ることになる。
「でも、義務を果たさなければ出版社が殺し屋を送り込んできますから」と、スティーヴンスンは語る。「カレンダーが2023年に切り替わったら、いつも通りの生活に戻る予定です」
それならひと安心だ。メタバースの世界でも、人々には優れた読み物が必要だろう。
(WIRED US/Translation by Nozomi Okuma)
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