前回のお話
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〝私〟の在り方と構造/類型的世界 ~苦しむのはこの私だから?
構造や類型的でない具体的な作品?
からっぽなものではない具体的なものに満ちた作品とはどのようなものでしょうか。なかなか話が先に進みませんが今回も続けてみましょう。
からっぽなもので出来た作品とは、前回も少しだけ書いてみたように構造や類型で出来上がった作品、ということになります。これらはその構造や類型が維持されたまま上辺だけ変えれば新しい作品になる、そういうものですね。代わりに展開や人物も予想されやすく安心して読み進めることが出来る作品です。
【プロップ『昔話の形態学』/東浩紀『動物化するポストモダン』】
ではこうしたからっぽ=構造や類型ではないものとはなんでしょうか。それは具体的に存在してしまっている私たちそれぞれの在り方だ、ということも出来るかと思います。
いじめとその構造/類型的現象
たとえばある人がいじめられているとします。そのいじめられ方が専門のケースワーカーなどから見れば典型的なやり方でなされたものと映るとします。するとその人がいじめられていることはありきたりな構造的な現象であるかもしれません。
【山口昌男『いじめの記号論』】
(こんなタイトルの本もある。けどあまりいじめとは関係ないかな。私はこの元となった新書版で読んだことがあります)
またそのいじめられ方は他人から見ればつまらないもので、もっとはっきり意思表示をしめせ、とか、そんなことじゃこれからやっていけないぞ、とか言われるものかもしれません。しかしいじめられている当の本人である人にはそんな簡単には割り切って対処出来るものとは受け止められません。
唯一無二の〝この私〟に起こってくる出来事
これは何故かといいますと、そこで起こっている出来事や現象はいくら構造的/類型的なものであっても、いじめられているこの私には唯一無二の出来事や現象であり、外から見れば単純に思える事柄も当の本人を中心として複雑な諸関係によって成り立っているからこうなるわけです。
【柄谷行人『探究2』】
(柄谷行人が他者と共に考えた単独者という考え方がありますが、それこそ〝この私〟を意味するもののような気もします)
問題の起こる現象 〜構造の拡大と縮小
たとえばその人をいじめているのがクラスの親分であって、ある有力な家柄の子供だとします。しかしそんな相手にいじめているということを発言出来ないとします。その背景を知らなければ簡単に意思表示をしめせと言うことも可能です。しかしもしその通りに意思表示をしめせば、有力者と関係ある人々がいじめられている当の本人を有力者の子供を貶めようとしている、と非難されることもあります。
また教師等にいじめっこのことを実名をあげて告発することもあるかもしれません。しかし教師の側で有力者に配慮してその告発を握り潰すこともないわけではありません。
さらにまたこれがいじめとしての出来事である、と自分と無関係として切り離していても、同じように大人の世界で有力者そのものからいじめられてしまうこともあります。特に権利や経済関係を踏まえれば容易に起こってきます。こう捉えてみるならば、子供の世界で起こっているいじめと大人の世界で起こってくる利害闘争の問題は、似たような問題構造を有していると考えることも出来るかもしれません。そしてこの時いじめであろうが利害闘争であろうが構造的なものとして現れてきたとしても、その中で問題の焦点となってしまった当の本人にとっては耐えられないような具体的な問題=苦しみとなってきます。そしてこうした利害関係に巻き込まれた時、いじめられっこに対して発言したのと同じようにして自分に言い聞かせか問題解決に乗り出す人はまれでしょう。それは子供の世界のいじめに対しては構造/類型的に捉えているのに対し、自分の周りで起こってしまった出来事に対して具体的なものとして捉えるからです(もし自分に起こってきたこうした問題を他人事=客観的に捉えて対処していける人は大変偉いと思います)。
【阿部和重『シンセミア』】
(複雑に絡み合う人間関係と権力構造が描かれている名作小説。つまらないちょっとした出来事と街を覆う歴史的な蓄積が交差してぐっちゃぐちゃ)
諸関係の束と問題=苦しみ
そしてこの問題=苦しみはどこから生まれてくるのか、といえば、自分を中心とした諸関係の束から起こってくるわけです。そしてこの諸関係の束は文字通り絡まった糸束のようにこんがらがっていてその都度その都度解きほぐしていかなければならないものとしてあります(有力者を説得するだけでなく、その利害関係を見抜いて把握し、そもそもその利害関係から自分が狙われないように位置を移動するだけでなく、また新たな利害関係において標的とされないように利害関係が起こってくる関係性を調整し続け、また有力者周辺の関係者からも悪影響を与えられないから観察する、などといった多様な対応を終わることなく続けなければいけない)。
実存としての具体性
こうした諸関係の束は構造や類型によって還元することは出来ません。その起こってくる出来事や現象は構造的であったり類型的であったりするかもしれませんが、起こってしまった出来事や現象はその都度違う具体性に満たされてしまっています。いわば万華鏡のようなもので、そこにあるものは同じものでしかないのに、そこに映ってくる光景はひとつとして同じものはないわけです。そしてこうした具体的なものを解決していくということは大変な労力と徒労と思われるほどの根気のいる長い時間が必要となってしまいます。
【ハイデガー『存在と時間』】
(実存主義の原点。でもハイデガーは自分はそんなもんと違うぞ、と言ったとかなんとか)
こうした具体的な諸関係の束の中心としてのこの私としての在り方を実存と読んでみるならば、からっぽな作品が構造/類型的な作品とすると具体的な作品は実存的な作品となるのかもしれませんね。
次回のお話
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お話その213(No.0213)