津田信澄

登録日:2025/01/26 sun 23:00:01
更新日:2025/01/28 Tue 00:00:26NEW!
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津田信澄とは、戦国時代~安土桃山時代の武将の一人である。
苗字は「津田」とある*1が、織田信長の甥にあたり、明智光秀の婿となった。

【生没年】弘治元年(1555)年*2~天正10(1582)年
【出身地】尾張国


生涯

 尾張の戦国大名・織田信秀の三男であった織田信行(信勝)とその妻・荒尾御前のあいだに嫡男として生まれる。幼名は「坊丸」といった。
4歳(以下、数え年)の頃、父親・信行が信長への反旗を翻し、兄を殺害しようと企てた。しかもこれはニ度目の謀叛の企てであったため、家臣・柴田勝家*3がこれを信長に密告した。信長は病と偽って信行を自らの館に呼び、訪ねてきた信行を殺害した。
母親は別の男性との再婚を強制され、坊丸は父の仇の黒幕ともいえる存在であった勝家に引き取られた。この勝家への引き渡しの手引きは、信長・信行京大の生母で、坊丸の祖母にあたる土田御前が行ったとされる。

 父親代わりとなった勝家は、幼い坊丸を実子同然に厳しくも愛情深く育て、
若様は織田一門のお一人なのですから、将来は何としても信長様のお役に立たねばなりません
と常に言い聞かせてきた。
坊丸はそうした義父の期待に応えるため、武芸や勉学に力を注いだ。

 永禄七(1564)年、坊丸は勝家に連れられて叔父・信長に面会した。勝家は信長に、坊丸が文武両道に優れた若武者に成長しつつあることを説明した。
信長はこれを大変喜び、
「俺は思わぬところで言い広いものをしたな。坊丸とやら、これからも俺のもとで大いに励めよ」
と坊丸を一人の家臣として登用した。この年に坊丸は元服し、名を「信澄」と改めた。
これ以降、信澄は一手の将として織田家で活躍するのである。

 19歳の時に浅井攻めで活躍し、浅井家の旧領の近江国に地盤を得た。この翌年の天正二(1574)年、信長の命により、明智光秀の娘を娶った。
天正三(1575)年の越前一向一揆の平定や天正四(1575)年の丹波攻略において、信澄は多大な戦功を立てた。
これに喜んだ信長は、その褒賞として、信澄に近江大溝城を与えた。これは、舅・光秀が支配する坂本、羽柴秀吉の支配する長浜、叔父・信長の支配する安土と並ぶ主要な近江国の要地であった。
この頃になると「信澄様は信長様のお子様方をも超える優れものだ」という声が広まった。その一方で、信澄は自身の「謀叛人の子」という出自や、自身が命を救われた経緯を知ることになる。
それでも、信澄は父の仇ともいえる叔父への復讐心を抱くことなく忠実に仕え続けた。
信長もまた、自身に忠実に仕える甥を厚遇した。それは信長にも、謀叛を企てていたとはいえ、信澄の父親である信行を殺害したことへの罪悪感がまだ残っており、信澄を厚遇することで、「謀叛人の子供」という色眼鏡から信澄を解放し、信澄への贖罪を果たしたかったためであったともとらえることができる。

 その後は石山本願寺攻めや荒木村重討伐などに従軍し、天正七(1579)年に発生した「安土宗論」の場においては警備員を務めた*4。天正八(1580)年に石山本願寺から一向衆が退去する頃から大坂に常駐し、「大坂の司令官」と呼ばれるまでに成長した。信長の一大軍事パレードである「京都御馬揃え」の際も、一門衆の五番目に位置していた*5。軍事面のみならず政治面でも優れた信澄は、安土城の造営における普請奉行など行政面でも手腕を発揮している。
天正十(1582)年、「天目山の戦い」で武田氏(武田勝頼)を滅ぼした信長は、四国統一を目前にした長宗我部元親に同盟関係から臣従関係に転換するよう迫るが、元親はこれを拒否。信長は三男・織田信孝を大将とした四国討伐軍を編成し、元親への攻撃を命じた。この時信澄は、丹羽長秀、蜂谷頼隆と共に副将として参戦するため、大坂に駐屯した。
そして信澄は、大坂で最も信じたくなかったニュースを耳にする。
それは、信長が本能寺で襲撃を受け死亡した」ということ、そして「信長の死に舅・明智光秀が大いに関わっている」ということであった。

 この報せが信澄にもたらされた三日後、信澄は「光秀の縁者」という理由のもと、大坂城において信孝・長秀に弁解の余地を一切与えられずに殺害された。享年28歳。首は堺で晒された。

 信澄の不幸は、織田家一門に忠誠を尽くすためにしてきた努力が、光秀の本能寺襲撃によりあっという間に崩れ去り、しかもよりによって織田一門の一員であった信孝にあらぬ疑念を向けられてしまうという結果を招いたことだ。歴史に「もし」は禁物だが、もし信孝が短慮を抑え、信澄を生かしていれば、織田家の弱体化を早めることはなかっただろう。


その後

 理由は不明ながら、信澄の子供たちや弟は本能寺の変後も殺害されず、命を拾った。
まず長男の昌澄は、かつての父の部下であった藤堂高虎に仕えて文禄の役に出征。以降は大坂の陣に豊臣方として参戦し、かつての自身の仕官先であった高虎の部隊と干戈を交えた。
大坂城が落ちた後は徳川軍に降伏し、切腹しようとしたが高虎のとりなしもあって助命された。その際に出家するが、大坂の陣から3年後、徳川秀忠に旗本として召し出されたことで武士身分に復帰。そして二千石取りになり、徳川家光の治世まで生きた。
次男の元信は織田信雄に仕え、その改易後には豊臣秀頼に仕えた。大坂の陣では兄・昌澄同様豊臣方として参戦するが、最期の様子は不明である。
弟・信糺(のぶただ)は信長の次男・織田信雄に仕えていたことで何らの処分も下されなかった。後に蜂須賀家政に仕えたが、いつ亡くなったかは不明である。
もう一人の弟・織田信兼は織田信孝に仕え、賤ケ岳の合戦では信孝とともに勝家方として参戦し、信孝が自害した際には自身もこれに従い、殉死を遂げた。


逸話など

 主君をやたら変えることで有名な藤堂高虎も信澄に一時期仕えていたが、あまり折り合いは良くはなかったのか、高虎はすぐに豊臣秀長へ主変えを行っている。だが義理堅いのか高虎は信澄の息子の事は気遣っていた。

 ルイス・フロイスからは「甚だしく勇敢だが異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」とまで言い放っている。実際に彼は罪人を馬で踏み潰させる処刑をするなどと言った一面があったとか。
一方、フロイスは信孝を手放しで高く評価している。これは、信孝がキリスト教に深く理解を示していたためであるという。


創作における津田信澄

信長の野望

第7作『将星録』から参戦と初登場は遅かったが以降は皆勤。
シリーズ通して軍事系の能力がやや高いぐらいの二線級武将という「一段の傑物」の二つ名に比して寂しい扱い。近年地味に政治や知略が上昇しているが、綺羅星の如き人材を擁する織田家では活躍の望みは薄い。
織田一門という事で鉄砲適正に優れているかそれに関係する特技を持っている事が多いのと、一応因縁の信孝よりは五十歩百歩とは言え優秀な事が多いのが救いか。
また本能寺の変イベントで彼の死が再現された事は無く50~60歳ぐらいまでは生き、安心して使えるのでその点は優遇されている影が薄すぎて相手にされていないだけでは?
一方、織田家が信長と信行に分裂しているシナリオだと信行側でプレイする場合、必然的に正統後継者となるため、重要度は俄然増す。
また第9作『嵐世記』だけの特徴として父親が早世した武将は後継不在を防ぐためか父の没年から登場するシステムがあったので数え3歳から現役の武将として使う事が出来たためその点は従兄弟たちに対しての明確な強みだった*6

太閤立志伝

』『』『ⅤDX』に登場。いずれも全武将プレイの作品で武将札を入手すれば主人公として選択できる。
全体的に能力、特技ともに低空飛行で唯一魅力だけが高く茶の湯や医術の修行、人脈作りや朝廷との交渉に有利。
なお『Ⅴ』『ⅤDX』では『信長の野望』と違い本能寺の変イベントが起こると史実通りの流れで死ぬ(秀吉でプレイすると顕著、それ以外の武将でも以後ゲームから消える)。
ただし信澄を主人公として選ぶと問答無用で死亡&ゲームオーバーにはならず、史実と異なり信忠の随員として妙覚寺に赴き、二条城で明智軍と戦う事になる
専用イベントではなく、村井貞勝らとの共用イベントで義父・光秀との固有会話等も無いが、かつての謀叛人の息子が父の謀叛相手の息子を別の謀叛人から守るために戦うという胸熱展開である。
とは言え多勢に無勢で前述の通り信澄の能力も低いので信忠を生かして安土城まで逃し後継者に推戴するのは至難の技、信澄を鍛える余裕がある早い年代のシナリオで開始した場合はまだしも、1582年シナリオで開始した場合は時間的余裕も無く、やり込み特典の主人公編集で強化でもしない限り不可能に近い。
一応、信忠救出に失敗しても死亡する事は無く人でなしの有楽のように逃げ延び、その場合は信雄、信孝、秀吉、勝家のいずれかの勢力に与する事になる。
もちろん父の仇・信長を自ら討ったり、織田家を出奔して剣豪や商人になるようなプレイも可能。


戦国大戦

コモンカードとして登場。
「俺は父のようにはならない」と言っているが、スペック、計略、特技のほぼ全てがその父親の丸写し。違いは兵種くらいである。
だが持っている「呪縛の術」が敵の移動速度を大幅に下げるというものであり、スペックも妥協点というスーパーサブである。
…なのだが父親(このゲームでは信勝名義)がやたらキャラが立っていたせいで、総じて信澄は地味な存在でもあった。

戦国無双

モブ武将としてたまに登場するかしないかと言ったところ。
『5』では父親(信行名義)がメインキャラとして登場し、更に彼の遺児が登場。
…するも、それはオリジナルキャラクターの「娘」であり、信澄の存在はほぼ抹消された。






追記・修正は叔父さんに信頼されてからお願いします。




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最終更新:2025年01月28日 00:00

*1 太田牛一の『信長公記』などの一次史料上では「津田」の名字が確認できないことから、実際は「織田」の姓を名乗っていたとも推測されている

*2 誕生年を永禄元(1558)年説もあるが、本稿では弘路元年説を採用するものとする

*3 当初は信行側についていたが、一度目に信行が自身に反旗を翻した際に降伏を申し出、謀反の罪を許されて以降は信長に仕えた

*4 太田牛一『信長公記』に記述あり

*5 一番目:信忠(信長長男)、二番目:信雄(信長次男)、三番目:信包(信長弟)、四番目:信孝(信長三男)。

*6 特に本作は拡大した領地を管理するのに必要な配下軍団を設立した場合、一門衆以外が軍団長だとプレイヤーが直接操作できない縛りがあったため、どんなに能力が低くても一門衆というだけで貴重な人材だった