個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

Aigyptos第18王朝の時代

・紀元前1550年頃 Iah mesu ⅠがAigyptosの君主として即位した。

・紀元前1550年頃 Hatti君主,Zidantaは子息のAmmunaによって殺害された。Ammunaは新たな君主となった。(「Telipinu勅令」)

・紀元前1539年頃(埃及暦Iah mesu Ⅰ 10) Aigyptosの君主,Iah mesuはHut-waret(希:Avaris)を陥落させた。(「Iah mesu自伝碑文」)

・紀元前1538年頃(埃及暦Iah mesu Ⅰ 11) Aigyptosの君主,Iah mesuはPalestinaに遠征を行い、Heqau Khasutを攻めた。

※Hut-waret(希:Avaris)を陥落させても、まだPalestinaにはHeqau Khasutの拠点があったため、安心することなく遠征を行ったのである(河合望『古代エジプト全史』)。

・紀元前1535年頃(埃及暦Iah mesu Ⅰ 14) Aigyptosの君主,Iah mesuはPalestinaのHeqau Khasutの拠点を陥落させた。

※Heqau KhasutはAigyptosから放逐され、Iah mesuは統一されたAigyptosの君主となった(河合望『古代エジプト全史』)。

・紀元前1530年頃 Ammunaの死後、その子息の多くはHuzzijaによって殺害された。Huzzijaは新たな君主となった。(「Telipinu勅令」)

・紀元前1530~1520年頃 Aigyptos第18王朝はKushuに侵攻し、その君主を処刑した。

※第18王朝の軍はKushの中心部にまで進出した。Kushは属領となって貢納・軍事・服役が義務付けられた。また、このころからAigyptosの壁画には黒人奴隷が描かれるようになっている(山口昌男『アフリカ史』)。

・紀元前1525年頃 Amenhotep ⅠがAigyptosの君主として即位した。

・紀元前1520年頃 Hatti君主,Huzzijaは、自身の姉妹の夫で先代君主,Ammunaの子息であるTelipinuによって退位させられた。Telipinuは新たな君主となった。(「Telipinu勅令」)

※Telipinuは君主位争いが起こらないように、継承は男系優先とし、君主妃の産んだ嫡出の男子が継ぎ、嫡出子がいない場合は庶出の男子が継ぎ、庶出の男子もいない場合は君主の嫡出の女子の婿が継ぐべきことを勅令によって定めた。また、君主族間の殺人については、裁判によって量刑を定めることが述べられている(津本英利『ヒッタイト帝国』)。

※Telipinuが君主位の継承規定を定めたことで、それまでのように君主が後継者を指名して貴族会から承認を受けるといった慣習はなくなり、貴族会は継承に混乱が生じたときのみ介入することが定められた(小林登志子古代オリエント全史』)。

※Telipinuは君主位継承争いや不作による国の不安定化の是正を行った。官僚機構も設置されたようであり、Babylonia式の楔形文字が刻まれた土地賦与文書と呼ばれる粘土板文書が書かれるようになった。また、農民の貧困化を防ぐために財産の分割相続を制限したほか、年貢の納入を偽証した者は死刑にするとし、裁判所も設置している。また、穀物貯蔵庫も設置している(津本英利『ヒッタイト帝国』)。

・紀元前1510年頃 Hattiの君主,Teripinuは崩御した。

※Teripinuの崩御後、Hattiは勢力が減退し、代わりにMitaanniが台頭した(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1504年頃 Thutmose IがAigyptosの君主として即位した。

・紀元前1504年以降 AigyptosはMitaanniと交戦した。

※Thutmose Iの時代にAigyptosと交戦した記録が、Mitaanniに関する最古の言及である。首都も未発見であり、建国の経緯は不明である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※MitaanniはḪuurri人による国家である(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアギリシア』)。

※Ḫuurri人の話した言語は膠着語であり、Indo-Europa系でもSem系でもない。Kaukasos語系であり、紀元前3000年紀頃にはUrartu語と分離していたと考えられる(前川和也ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1500年前後 Balkan半島南部のIndo-Europa語族の人々には、小AsiaとTürk沿岸部へと移住する者がいた。

・紀元前1500年頃 Indo-Europa語族遊牧民のArya人が、馬、牛、羊、山羊を伴って、Hindu Kush山脈を越えて、Indus川上流の五河地域(Punjab地方)に進出した。

※Caspi海北部周辺で話されていた言語(Indo-Europa祖語)は、西に伝わるEuropaの諸言語へと派生し、東に伝わるとSaṃskṛt語などのPersiaや北Indoの諸言語へと派生した(馬場紀寿『初期仏教』)。

※複数の部族が、断続的に進出したものと思われる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※Aryaとは、「部民族の慣習法を身につけた」「行儀作法を弁えた」という意味である。Aryaは長い移動の過程で、一時的もしくは定期的な定住をしたため、大麦などの栽培も行っていた(馬場紀寿『初期仏教』)。

※Arya人は先住民と対立や交流の末に支配層となって土着したのだと考えられる(清水俊史『ブッダという男』)。

※Arya人はvarṇa制(varṇaとは色を意味する)という社会システムを形成した。varṇa制下においては人々はbrāhmaṇa(司祭)を頂点としてKṣatriya(王侯・戦士)、vaiśya(商人)、Śūdra(隷属民)として身分が分けられた。そしてその枠の外に「不可触民」が位置づけられた。Aryaと呼ばれたのはvaiśyaまでである。ŚūdraはArya侵入以前の先住民であろう(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前1500年頃 MitaanniはYamhadを支配した。

・紀元前1500年頃  Mesoamericaの集落はMexico湾岸の熱帯低地にまで拡大した。

※Ocós様式の土器を用いるようになって以降は「Ocós期」と呼ばれる。Guatemala高地を越えてTehuacán谷にまで集落が拡大したのは、土器の使用によって玉蜀黍や隠元豆を煮ることで、子供も含めて食べることが容易になり、人口の増加と農耕への依存が加速したからだと考えられる(大貫良夫ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※MesoamericaにおいてはGuatemala高地の黒曜石が交易されており、Ocósの人々はMesoamerica南部との交通網を発達させた(大貫良夫『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1500年頃 ArrapḫaはMitaanniの勢力下に入った。

※Nuzi、Alalakh、Qatna、Ugrtといった勢力下に入った地域からMitaanniに関する文書が出土しており、Ḫuurri人の影響力が広範囲に及んでいたものと思われる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1500年頃  Yucatán半島に農耕民が進出した。

焼畑農業を行う集団であり、Ocos文化の影響が見られる(大貫良夫『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1492年頃 Thutmose ⅡがAigyptosの君主となった。

・紀元前1479年頃 Aiguptosの君主としてDjehutimes(Thutmose)Ⅲが即位した。

※Aigyptosを統治する君主は巨大な王宮に住んで人々を指導したため、Aigyptosの言葉で「大きな家」を意味する「Per-aa」と呼ばれるようになった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※Aigyptos第十八王朝は、Djehutimes(Thutmose)Ⅲの在世中にBuranuna(Euphrátēs)川流域にまで領土を拡大し、芸術も発展した(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Aigyptos第十八王朝では、Imn(Ámmōn)-Raの信仰が強まってており、それに伴って神官勢力が力を持っていた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※紀元前15世紀になると、AigyptosのWaset(希:Thēbai)の貴族墓には「Keftív」と呼ばれる人物の肖像が描かれるようになった。服装や貢納品などから、Egé海からの使節と思われる(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。

・紀元前1475年頃 Galzu(Kassit)人は「海の国」王朝を滅ぼし、Babyloniaに王朝を建てた。

※Galzu王朝の初期の君主であるAgum IIの事績を記した文書は、彼がAnu神、Enlil神、Ea神、Marduk神、Sîn神、Shamash神によって君主と認められたと述べており、正当性の根拠をBabyloniaの神々に求めていたことを示している(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1458年頃 Aigyptosの共同君主,Hatshepsutは崩御した。

※Djehutimes(Thutmose)Ⅲの単独統治時代には、Hatshepsutの彫像や建造物が破壊されている。後継者のAmenhotepの立場を安定させるために、男系子孫継承が正当であることを示そうとしたことが理由だと考えられる(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアギリシア』)。

・紀元前1450年 Tudhaliya IIがHattiの君主として即位した。

※新たなHattiの王朝が成立した。君主の権力が強くなったほか、妃の名、宗教、文化などにḪuurriの影響が見られる点で、かつてのHatti国と様相が異なる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1440年頃 ŠauštatarがMitaanniの君主として即位した。

※紀元前15世紀中頃にMitaanniは勢力を拡大した。Aššurを属国化させたうえで、版図の東方はBuranuna(希:Euphrátēs)川を越え、西方はSyria北部とKizzuwatnaにまで広がった。Nuzi式土器の出土がMitaanniの支配が及んでいたことを裏付ける(小林登志子古代オリエント全史』)。

※MitaanniはSyria北部へと進出したAigyptosと対立することとなる(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアギリシア』)。

・1400年頃 Thutmose IVがAigyptosの君主として即位した。

・紀元前1400年頃 Mexico中央高原の盆地に農耕民が定住するようになった。

※標高約2000m・広さ約7000k㎡・年間降水量約450~1000mmの乾燥が強い盆地である。Texcoco湖・Xochimilco湖・Chalco湖という湖に生息する魚や水鳥は重要な食料となり、付近は農耕に適した土地であった。定住民は降水量の多い南部から中央部、湖岸に近い場所を拠点として生活した(お大貫良夫『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1400~1200年頃  San José Mogoteに漆喰壁と粘土で固めた床を持つ建物が築かれた。

※丁寧な造りであり、祭壇らしい部分を持つため、祭祀を行った施設であると考えられる。文化の中心地となった場所が、その文化の維持と強化を志向するようになることを示すものであるとも考えられる(大貫良夫『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前14世紀 商は文化圏を拡大させた。

※商は北と南に向けて大きく拡大した。北方は商王朝の建国以前に商の人々が居住していたため支配領域に組み込むことが行いやすかったと考えられる。南方に対しては長江中流域にある銅鉱山の獲得と、貴重品であった子安貝の交易網の掌握を目的としたとも考えられる(落合淳思『殷』)。

・紀元前1390年頃 Aiguptosの君主としてAmenhotepが即位した(AmenhotepⅢ)。

※Amenhotep Ⅲの名の刻まれたfaience板がGraecia各地から出土していることは、AigyptosとGraeciaの交流が続いていたことを物語る(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。

※Mitaanniの君主,Šauštatar IIは娘のKilu-HepaをAmenhotepⅢに嫁がせている(「Amarna文書」)。

・紀元前1380年頃 ArtashumaraがMitaanniの君主として即位した。

・紀元前1380年頃 Mitaanniの君主,Artashumaraは廷臣によって殺害された。廷臣はArtashumaraの弟,Tušrattaを新たな君主として擁立した。

※君主が暗殺されたことから、当時のMitaanniの治世が不安定であったことが窺える(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・ 紀元前1374年頃 Kadašman-Enlil IがGalzu(Kaššu)の君主となった。

  ※Kadašman-Enlil Iの姉妹はAigyptosの君主,Amenhotep IIIの妻となっており、Aigyptos側からは娘も君主に嫁がせるよう求められている。Galzu側も君主の娘を嫁がせるようAigyptosに要請しているが、昔からAigyptosの君主の娘は外国人に嫁がせることはなかったとして断られ、変わりに君主の娘のような美女を送るよう求めている(「Amarna文書」)。Amenhotep Ⅲとの文書通信の内容は、多くが政略結婚と贈答品に関するものであった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1370年頃 Šuppiluliuma IがHattiの君主として即位した。

※Mitaanni国内で、君主,Tušrattaと対立する勢力は領土の東部でArtatama IIを擁立しŠuppiluliuma Iの庇護を受けた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1370年頃 Niqmaddu IIがUgarituの君主に即位した。

※先代のAmmittamru IからAigyptosと交流していたことが「Amarna文書」から理解できる。Niqmaddu ⅡはAigyptosに対して医者の派遣を要請しており、Aigyptosの医者が重宝されていたことが窺える(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1360年頃 Hatti君主,Šuppiluliuma IはMitaanniの君主,Tušrattaを攻めて勝利した。

※Hattiは北SyriaのMitaanni支配下の領土を奪い、さらに首都にまで攻め込んだ(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・起源1359年頃 Burna-Buriash IIがGalzu(Kaššu)の君主となった。

・紀元前1353年頃 Ashur uballitがAššurの君主となった。

※Ashur uballitの時代にAššurはMitaanniの支配から独立した。NinevehとArbelaを結んで支配領域を拡大し、自身は「Aššurの地の君主」を称した(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアギリシア』)。

※Mitaanniの圧力に抗しえたのは、HattiがMittanniに侵攻して打撃を与えていたことも理由にある(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※Ashur uballitはAigyptosに使者と書簡を送り、戦車・瑠璃・馬を贈った見返りに黄金を受け取っているが、Mitaanniの君主と比べて量が少ないことを抗議している。当時の西Asiaの情報は遠方にまで行き渡っていたことを示している。Galzu(Kaššu)の君主,Burna-Buriash IIも書簡を送り、AššurはGalzuの属国であり、Galzuに無断で使者を派遣したのだと主張した。国際社会に参入してきたAššurを牽制しようとしたのだと考えられる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※Hattiの君主,Šuppiluliuma Iの妻はGalzu(Kaššu)の君主の娘である。当時勢力を拡大していたAššurを警戒して、Galzu(Kaššu)を交流を深めた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1352年頃 AmenhotepⅣ(Amenhotep Ⅲの子息)がAigyptosの君主となった。

※Galzuの君主,Burna-Buriash IIはAmenhotepⅣと文書通信を行っていたが全ての文面がが友好的な内容ではない。Galzuの君主からは瑠璃や馬などが贈られたが、贈答品を運ぶ使者が途中で襲われたことやAigyptosからGalzuへの贈答品の量が不十分であるなどの苦情も述べられている。Galzuから贈られた瑠璃は、Afghānistānを産地とするものであった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※Mitaanniの君主,Tušrattaは成長すると反抗勢力を粛清し、Amenhotep Ⅲに娘を嫁がせて国家の関係性を深めた。娘を嫁がせる際にはŠauška女神の像も贈答品として贈っている。ŠauškaはHurri人の神であり、BabilとAššurにおけるIshtar女神に相当する(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1350年頃 Tušrattaは子息の1人に殺害された。

・紀元前1350年頃? 商は混乱状態となった。

※『史記』-殷本紀には、中丁が王の時代以降に王位継承を巡る紛争が生じたとある。商代中期以降の商王による祖先を纏めて祀る「直系合祀」において、「祖乙」以降の商王の名が見られない。そのため、祖乙以降の系譜は混乱していたと考えられる。祖乙が後の祭祀において重視されたのは、『史記』や『尚書』が語るような名君だったからではなく、彼が商が統一されていた時代の最後の王であり、祖乙の子孫であることを正統性の根拠とする勢力群が争っていたのだ考えられる(落合淳思『殷』)。

・紀元前1350年頃 Amen hetep IVは、自身の名Amen hetep(Amen神は満たされた)をAkh-en-Aten(Aten神にとって好ましい)に改名した。

・紀元前1347年頃 Akh-en-Atenは、Wo'se(希:Thebai)から、Aten神の世界を意味する、Akhetatenと名付けた都に遷都した。

※神官勢力の影響を削ぐことを考えたAkh-en-Atenは、Aten神以外の神を信仰することを禁じた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Akhetatenにおいては列強の諸君主らによる贈答品の交換や婚姻政策が行われていた(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

※Aššur、Ḫa-at-tu-ša(羅:Hetthaei)、Mitaanni、Babylōníaの君主とは、Akkad語を楔形文字で刻んだ書簡を用いた交信が行われていた。Per-aaの君主号を持つAkh-en-Atenは、諸外国との外交におてはAkkad語で君主を意味する「sarru」を用いた。各君主は書簡に「ahi(我が兄弟)」という表現を使用しており、対等な立場において外交が行われていたことを窺わせる。そして使節団の饗応に際して礼儀作法が確立することとなった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※Amrna文書には、Ugrtの君主,Ammittamru ⅠがAigyptosの君主を「太陽」と呼んでいるものがある。Hattiの拡大に伴い同盟を結んだのである。下僕として足元にひれ伏すことを述べる文面は、卑屈さすら感じさせるものであり、大国と対峙するうえでの回避できない態度であったと考えられる(小林登志子古代オリエント全史』)。

※Akh-en-Atenは対外政策を放棄しており、それに乗じて、Kənā‘anの諸都市国家には、勢力を拡大するものや、エジプトから独立するものがいて、勢力争いをはじめた。また、ハビルもしくはハピルと呼ばれる、法の保護の外にいる集団が、Palestina付近に現れて略奪行為を行った。(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

※Akh-en-Atenは宗教改革に専念しており、対Asia情勢に関心を示さなかったため、Mitananiとの同盟関係は約半世紀後には破綻することとなる(小林登志子古代オリエント全史』)。

※Akhetatenには自身を美化していない肖像を製作せている。自身の外見的欠点まで含めて表現してもらいたかったとも、預言者としての自身の個性を重視し、あるがままに表現させたとも考えられる(Ernst Gombridge『美術の物語』)。

・紀元前14世紀中頃 Hattiの君主,Šuppiluliuma IはGalzu(Kaššu)の君主の娘を妻に迎えた。

※Šuppiluliuma IはMitaanniの攻略に失敗したため、周辺の小国との同盟やGalzuとの婚姻を通して再び攻めるための準備を整えた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前14世紀中頃 HattiはMitaanniを征服し、属国とした。

※かつての君主,Tušrattaの子息,Šattiwazaは、Hattiの君主,Šuppiluliuma Iの娘婿となり、庇護を受けてMitaanniの君主となった。しかし後にŠattiwazaの子息,Piyaššiliによって北西Syriaが統治されることになったため、Mitaanniは領土を縮小させた。その後はHattiとAššurの緩衝地帯的に存続することとなった。(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※宗主権をHattiに認める条約において、Ugrtの君主はHattiの君主のことを「太陽」と呼んでいる。Syria地域をHattiが纏めて支配するようになったことで、経済活動は促進されUgrtは繁栄することとなる(小林登志子古代オリエント全史』)。

・紀元前1336年頃 Akh-en-Atenの死後、その子息,Tut ankh Atenが9歳で後を継いだ。彼はTut anhk Amenに改名した。

※AigyptosはAmen-Ra信仰に回帰した。Akh-en-Atenの像の多くは破壊され、記録もほとんど抹消された(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前1336年頃 Hattiの君主,Šuppiluliuma Iは崩御した。

・紀元前1335年頃 Muršili IIがHattiの君主として即位した。

※君主の病没が続いたため、Muršili IIは疫病を止めるために天候神に対する儀式を行っている。Hatti国において支配層のNeša語話者は、先住のHatti人の他にḪuurri人、Aššurの信仰する神を需要した。特に信仰したのは太陽女神Arinnaである。Muršili IIの時代には周辺諸国で反乱も発生したが、平定することに成功した。(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1333年頃 Kara-hardashがGalzu(Kaššu)の君主となった。

※Kara-hardashの母はAššurの君主,Ashur uballitの娘である。Galzu(Kaššu)はAššurの圧力を受け、譲歩する立場になっていた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1333年頃 Galzu(Kaššu)の君主,Kara-hardashは殺害された。

※Aššurの干渉を嫌う勢力による暗殺であった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1332年頃 Nazi-BugašがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。

※素性は不明である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1332年頃 Aššurの君主,Ashur uballitはGalzu(Kaššu)の君主,Nazi-Bugašを処刑した。

・紀元前1332年頃 Kurigalzu IIがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。

※Kara-hardashの子息つまりはAššurの君主,Ashur uballitの曾孫であるのか、それともBurna-Buriash IIの子息かは不明である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・1327年頃 Aigyptosの君主,Twt-anx-Imnは崩御した。

※墓に副葬された宝物には、Aten信仰からなる新様式の玉座などがあった。妻のAnkhesenamenとともに背に肖像が描かれており、椅子に座った姿や夫妻がともに同じ大きさで表されていることなど、それまでのAigyptosのような様式的なものではなかった。しかし、Twt-anx-Imnの生前より既存の信仰が復活していたこともあって、その後のAiguptosに新たな美術様式が誕生することはなかった(Ernst Gombridge『美術の物語』)。

・紀元前14世紀後半 Mitaanniは滅んだ。

※理由は不明である。Miata-an-niの滅亡に乗じる形で、Aššurの君主,Ashur uballitは勢力を拡大させることとなった(小林登志子古代オリエント全史』)。

・紀元前1328年 Ashur uballitは崩御した。

・紀元前1323年頃 Twt-anx-Imnは崩御した。

※Twt-anx-Imnの木乃伊遺体に被せられた仮面には、Indoの産物である瑠璃が使用されていた。Elam商人によって運ばれたものと思われる。

・紀元前1315年頃 Muwatalli IIがHattiの君主として即位した。

・紀元前1305年頃 Adad-nirari ⅠがAššurの君主として即位した。

※Adad-nirari Ⅰ以降、Aššurの君主は称号に、かつてShamshi Adadが用いた「世界の君主」を加えることとなった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※Mitaanniを屈服させて朝貢を行わせるなど、Ashur uballitの崩御後に減退したAššurの勢力を再び盛んにした。その勢力はHattiにも匹敵するようになり、Hattiの君主,Muwatalli IIに対して書簡で「兄弟」と呼ぶ振る舞いをしている(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。