2015-12-01から1ヶ月間の記事一覧
ここで少し戻って御園が「加納楽市場」ではない理由を別角度から。 『岐阜志略』より 岐阜惣構の内は内町といひ構の外を外町といふ南口は御園にて市立(今は加納領内也)西口は岩倉町にて市立(今は川を隔る地方なり)右貳ヶ所に市神とて今榎あり北口は中河…
近年、岐阜市街地の衰退が甚だしいと聞く。 規模の大きな繊維問屋街が街を支えて来たが、近年は安い輸入品の台頭や、名古屋や東京への流通の集中などで衰退し、再開発に迫られてきている。近年、中心市街地の空洞化が激しく、近鉄百貨店や新岐阜百貨店、岐阜…
信長は楽市楽座令により商人を集め市場を発展させようとした。それは安土城下町について言えば全くその通りだ。だが加納楽市場はそうではない。加納楽市場は浄土真宗浄泉坊の寺内町であって信長のものではない。また岐阜城下町でもない。信長は織田氏ゆかり…
信長が永禄10(1567)年・永禄11(1568)年に出した楽市楽座令の第一条 (永禄10年) 一 当市場越居之者、分国往還不可有頂、井借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、 (永禄11年) 一、当市場越居之輩、分国往還煩有へからす…
諸研究者はそれぞれの見解の違いはあれど、戦災によって楽市場の人が減っていたのを、信長が楽市令によって戻ってくることを促し、また新たに商人が流入することを促したと解釈している点ではほぼ一致していると思われる。 しかし、俺の考えは全く逆だ。当時…
「加納楽市場」は浄泉坊を中心とした寺内町である。 だが「近年の研究」は楽市場と浄泉坊(円徳寺)の関係を否定している。これでは話が全く咬み合わない。両者の関係を示す状況証拠はいっぱいあると思うのだが、なぜか多くの研究者がそれを認めたがらない… …
話が少しずれるけど新しい情報を仕入れたので。 加納楽市場が「御園」にあったという説について。 ⇒岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 10.信長の楽市楽座令 『岐阜志略』に 岐阜惣構の内は内町といひ構の外を外町といふ南口は御園にて市立(今…
加納楽市楽座令の条文の解釈について気になること(その1) (永禄10年) 一 当市場越居之者、分国往還不可有頂、井借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、 (永禄11年) 一、当市場越居之輩、分国往還煩有へからす、并に借銭…
つまり信長は、このようなアジール的な場を楽市令によって保証しながら、その権力に取り込んでいったということである。 このような見解に対しては、堀新氏および小島道裕氏などより反論が出されている。堀氏は、富田林寺内町の例を引いて、信長が寺内町の特…
正直驚くべきことだらけである。 右当郷百姓等、可罷帰候、然上者伐採竹木、猥作毛刈取、於令狼藉者、可成敗也、仍下知如件、 を 信長はこれとは別に、岐阜城下の村落へ、平和保障と百姓の帰住を呼びかける制札も出しており (『信長研究の最前線』) などと…
ここから先どのように書いていけばいいか悩む。楽市楽座については結論からいえば単純な話だと思う。しかし何かを書こうとすれば、そこに「従来の研究」と「近年の研究」の両方が立ちはだかる。それについて書くにはそれとは別の論点についても論じなければ…
制札の宛先である「楽市場」「加納」は円徳寺(浄泉坊)と「何ら本質的な関係はない」どころか、むしろ切り離すことのできない密接な関係にある。 これはもう確実でしょう。「近年の研究」はその逆の方に進んでいるみたいだけど… 「楽市場」と「加納」は同一空…
昨日、楽市楽座令の制札を円徳寺が所蔵していることを根拠として「この市場は円徳寺(浄泉坊)と密接な関わりがある」と書いたばかりだが、その後いろいろ調べていたら、「近年の研究」の中心にいるのであろう小島道裕氏が「円徳寺と楽市場との間には、何ら本…
岐阜市にある円徳寺が所蔵する楽市楽座礼のうち、永禄10年(1567)に出されたものの宛先は「楽市場」。永禄11年(1568)のものの宛先は「加納」。 これら二枚の制札は、ともに岐阜市内にある真宗寺院円徳寺の所蔵で、これまでは両制札の宛先の因果関係と、市…
信長が楽市楽座令を発した美濃の「加納」について、何と説明しているのか。 これら二枚の制札は、ともに岐阜市内にある真宗寺院円徳寺の所蔵で、これまでは両制札の宛先の因果関係と、市場がどこに開かれていたかが問題とされた。だが近年の研究で、両宛先は…
「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」 これを知って俺の楽市楽座令に対する俺の認識は一瞬にして変わってしまった。基本的にはこれだけで十分だと言えるが、さらに調べれば調べるほどその認識は確実なものとなっていく。 しかし不思議なの…
「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」何で俺はそのことを知らなかったのか。 信長関係の本を読み返してみると確かに「加納」と書いてあるものもある。だが楽市楽座に特に関心があるでもなかったからそんなのは読み飛ばしていた。そもそも「…
俺が楽市楽座についてほとんど無知だということは前にも書いた。 で、調べているうちに俺はとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。それは「楽市楽座が信長の独創ではない」ということではない。そんなことはいくら無知だからってさすがに知ってた。信…
さて元に戻って『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編)より「信長の流通・都市政策は独自のものか(長澤伸樹)より。 そうしたなかで、これまで新都市建設法、自由商業法として捉えられてきた楽市楽座令は、近年、都市や市場など政策が施工される地域の視…
楽市楽座の「最新」の研究とは何なのか? 世界大百科事典 第2版の解説 (略)しかし現在では,これらの権力の発布した楽市・楽座令の以前に,各地に〈縁切り〉を基本的性格とする楽市場なるものがすでに成立していたことが想定され,この法令は城下町の繁栄…
これについては既に書いた。そんなことは近年わかったことではなく戦前からわかっていたことだ。1549年に近江六角氏が石寺新市に出した楽市令のことは小野均という学者が1928年に考察しているという(『信長の政略』谷口克広) そんな前から知られていること…
考えれば考えるほど謎が深まる。 信長の「楽市楽座」令が「革命」とか「革新」とされる場合の「革命・革新」とはどういう意味かといえば、中世から近世へ移行させる役割を果たしたってことですよね?違うのだろうか? で、中世とは何かといえば、俺の考えで…
楽市楽座とは何だったのか?何だったのかというのは、従来の見解が見直されているという中で、従来の見解とはどういったもので、現在の見解はどういったものか?そしてこれが「中世から近世へ」という時代の変化の中でどうい意味を持っていると考えられるの…
唯物史観は「科学」であると考えられてきた。しかし今から見れば疑似科学そのものであろう。いや「今から見れば」と書いたけれど、マルクス主義全盛期の学者はおかしいと思わなかったのだろか? 唯物史観が「科学」だというのは、近代になって科学が発達し、…
結局のところ進歩史観・唯物史観なんてこじつけでしょって俺は思ってる。 そりゃまあ普遍主義を否定するっていっても同じ人類なんだから、イヌやネコよりも共通点はあるのであって、似たようなところがあるのは間違いない。 それに日本は極東の島国とはいっ…
信長は「革命の英雄」だったのか、なかったのか?という場合、当然「革命」とは何かということをはっきりさせなければならない。 これがマルクス主義の進歩史観による「革命」だというなら話はわかりやすい。「信長は中世を終わらせ近世を作ったのか」という…
⇒信長研究と歴史観 - 国家鮟鱇 今までに書いてきたことを踏まえて具体的な話を。素材は『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編)より「信長の流通・都市政策は独自のものか(長澤伸樹)」。 (なお俺は「楽市楽座」について詳しくない。なぜなら一般歴史フ…
一条兼定の場合 翌天正3年(1575年)キリスト教に入信し、宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受けた。洗礼名はドン・パウロ。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り再興を図って土佐国へ進撃したが、四万十川の戦いで大敗し戦国大名としての土佐一条氏は滅亡し…
信長研究と進歩史観もそうだけれど、そもそも歴史を語るときにどういう歴史観で語るのかというのは非常に重要な問題。もちろんそれは全ての歴史において問題になることだと思うけれど、織豊期、特に信長時代においては個人的に関心があるからかもしれないが…
前にも書いたんだけど。 信長が「中世の破壊者」「革命児」だったのか否かという問いかけ自体が、進歩主義史観が崩壊した時点で陳腐化しているのではないか ⇒信長像の見直しに対する違和感 1980年代までは、人文・社会系の多くの学問ではマルクス主義的な考…