郵便配達はベルを鳴らさない

平均よりちょっとだけ多めに映画を観る人間の雑記

2024年観た映画の振り返り

もう早いもので年の瀬である。
この1年間観た映画について超特急で振り返ろうと思う。

海の上のピアニスト

オッペンハイマー

大日本スリ集団

酔いどれ天使

古都

さらば友よ

生きる歓び

ビッグ・ガン

冒険者たち

黒いチューリップ

ル・ジタン

仁義

フリック・ストーリー

パリの灯は遠く

フィリップ

プリンセス・シシー

若者のすべて

あの胸にもういちど

クリスティーン(恋ひとすじに)

ひまわり

去年マリエンバートで

 

忙しい1年だったせいもあるが、大学時代は年間100本くらい観ていたことを思うとかなり数が少ないラインナップである。再見も含めれば『山猫』や『サムライ』、暗黒街シリーズも加算されるのでもう少し本数は増える。この中で感想を文章化できたものもかなり限られている。ここ数年ずっと思っているが、社会人って本当に時間ない! CANMAKE TOKYO!

せっかくなので、感想を個別の記事としてまとめられなかったものについて覚えている範囲で各映画の感想を述べておこうと思う。公式のものと思われるトレーラーが発見できたものは貼っています。ネタバレは、たくさんあります。

オッペンハイマー Oppenheimer(2023)

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ノーラン作品は『ダンケルク』観て以来。時系列の行き来が頻繁で頭の中を整理しつつ観た。トリニティ実験が成功したときの演出が(当然オッペンハイマーたちにとってはそうなのだろうけど)スポーツ系作品で甲子園優勝決めましたみたいな方向で「うわあ」と思った。彼の奥さんの「自分がしでかした結果に同情しろと?」というセリフに集約されている気がする。
これは作品自体から離れるが、科学者が主役の映画作品ならヴェルナー・フォン・ブラウンとか観てみたいなと思った。インディ・ジョーンズ最新作でマッツ演じるフォラー博士はブラウンがモデルだったらしいが、あれはおそらくブラウン本人というよりはブラウンの経歴・立ち位置を基にしている気がする。なので、ブラウンの人生そのものを題材にした映画、どこかで誰かが作ったりしないかな~と思う。


大日本スリ集団 (1969)

主人公。平平平平で「ひらだいらへっぺい」と読むらしい。そんなことある?
関西弁を話すフランスこと平田昭彦、馴染みがなさすぎて頭大混乱。そんなフランスはスリの現場が警察にバレて逃走劇を繰り広げる最中に車に轢かれて死んでしまう。轢かれた死に際でもなおおそらくスリの獲物を狙ってか動いていた手が印象的だった。なんやかんやで絶妙なバランスだった平平と刑事の船越の関係も、この復讐から周囲を巻き込む形で均衡が狂っていく。しかしスリ集団にも互助会みたいなのがあって、捕まってリ死んだりしたときの保障があるのはちゃんとしてるなと思った。マフィアとかもそうか。


酔いどれ天使 (1948)

志村喬、『ゴジラ』や『七人の侍』あたりの思慮深く一歩引いて周りを観察しているとうな賢者のイメージが強かったのでブチギレ系の役でびっくりした。あと若い頃の三船敏郎がまさしく二枚目だった。いつも60年代以降の映画でしか観たことがなかった。最後の方のペンキまみれになりながら岡田と争う場面でなんだか女殺油地獄を思い出した。そして清純さがセーラー服着て歩くがごとし久我美子


古都 (1980)

山口百恵のことは好きで『蒼い時』も持っているしカラオケでも彼女の曲はしょっちゅう歌うのだが、映画作品を観るのは初めてだった。呉服問屋の娘と北山杉の娘の一人二役で、メイクや衣装の力もあろうが「こんなに佇まいって変わるんだ」と驚かされた。北山杉の世界線の百恵ちゃん、三浦友和とくっつくのかと思ったらそんなことはなかった。


黒いチューリップ La Tulipe Noire(1964)

黒いチューリップって呼び名ちょっとかわいいかもしれないと思った(チューリップという花へのイメージが童謡か球根バブルしかない)。ビジュアルが完全に後年演じるゾロと同じ。どうやらデュマ・ペールの小説が原作らしいが大幅に脚色している模様。この作品もアラン・ドロンによる一人二役


プリンセス・シシー Sissi(1955)

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ミュージカル好きとしては『エリザベート』で馴染み深いシシー(シシィ表記のほうが個人的に馴染みがある)こと皇后エリザベート。ちょっとクスッとできる要素もあり、なんだか「たぶんディズニーあたりがエリザベートを題材にしたらこんな雰囲気になりそう」と思いつつ観ていたが、皇太后ゾフィーとの軋轢の影もしっかり描かれていてよかった。正式に申し込まれてしまったらシシーが断れないのを知った上でやや強硬策として婚約を申し込むフランツに「おい!!!!!!!!!!」と思いつつ、ゾフィーとシシーの対立する場面では「母上、私が(宮中でのしきたりについてシシーに)説明します」と間に入るなど、そこはえらいと思う。プリンセス・シシーは3作あるそうだが、残り2作も気になる。
ちなみに私は『ルートヴィヒ』でロミー・シュナイダーが演じるエリザベートも好きである。美しく、それでいて現世とはどこか1枚ヴェールを隔てたところに居るようなエリザベート。『ルートヴィヒ』もスクリーンで観てみたいが腰が終わりそう。

あの胸にもういちど The Girl On A Motorcycle(1968)

マリアンヌ・フェイスフルのやつ。素肌にライダースーツなんてそんなこといいんですか!!? どうやら峰不二子のファッションの元ネタらしい。納得。バイクの乗り方を教えてもらい、贈られたバイク(しかも結婚祝いらしい。とんでもねえな)で不倫相手の元へ通うのも……そんなこといいんですか!!? バイクの名前がディオニュソス号なのもまたいい。この作品のアラン・ドロンみたいな出で立ちの大学教授が現実にいたら私は間違いなく留年しまくっていたか、かっこよすぎて講義に全力で励み優秀な成績を取ったかの二択であろう。

クリスティーン Christine(1958)

別タイトルは『恋ひとすじに』。Prime Videoでは原題そのまま『クリスティーン』で配信されていた。日本語字幕がバクか何かで完全に他の作品のものが流れていたので、英語字幕でなんとか観た。音声フランス語で字幕英語、私の無きに等しい外国語パワーが試されている。人妻との関係を終わらせるに終わらせられない若き将校アラン・ドロンが、ケリをつけるべく訪れたウィーン・オペラ座でかかる演目が『ドン・ジョヴァンニ』(ドン・ファンとも)なの洒落てません? あとオペラ座の場面でフランツ・ヨーゼフが登場した。詳しい説明もなしにビジュアルでわかるのすごいと思った。肖像画そっくりのメーキャップだった。1906年の設定らしいので、エリザベートが暗殺されて数年経っているはず。ところでシシーにそっくりな少女(もちろんロミー・シュナイダー)が客席に座っていると思うのですが……。

ひまわり I Girasoli(1970)

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どんなに忘れられない人、戻りたい過去があったとしても人生は続いていくんだなという哀しさがあった。てっきり『シェルブールの雨傘』みたいに、最後に想い人のその後を知ったところで終わるのかと思っていたが、知った後がむしろメインとも言えるかもしれない。
ジョヴァンナとアントニオが愛し合うようになる過程が想像以上に早かった。しかし『ロミオとジュリエット』も5日間の話らしいし、愛が燃え上がるのに時間はいらないのかもしれない。24個の卵を使った特製オムレツのシーンなんか幸せの象徴である*1
それからロシア戦線でのシーン、雪原の白さと兵士の黒い人影の画面に赤い旗が翻るところがなんとなくサイレント映画のフィルムの染色*2を思わせた。
個人的に気になったのは作中の時間経過である。特にジョヴァンナがアントニオの住む村を訪ねてから、アントニオ一家が引っ越したりアントニオがジョヴァンナに会いに行くまで。おそらく1年以上は経っている気がする。それと同時にアントニオはどの時点でどれくらい記憶が戻っていたのかも気になった。ジョヴァンナが駅で落としていった自分の写真と裏に書かれたメッセージを見て徐々に思い出し、すべて思い出したことをきっかけにイタリアへ……というあたりが自然だろうか? にしても、いくら失った記憶を取り戻したからといって現在築いた家庭を置いてジョヴァンナにやり直しを持ちかけるアントニオはよくないと思った。気持ちはわかるが、ロシアにいる妻にも娘にもなんの罪もないのだ。そしてジョヴァンナの人生だって進んでいる。愛が燃え上がるのに時間はいらないかもしれないが、時の流れが愛を難しくすることはいくらだってある。
最後、ロシアへ戻るアントニオを見送るジョヴァンナの場面が、その昔に戦争へ行くアントニオを見送った場面と重なった。アントニオが戦争を振り返って言った「あの時ぼくは死んだ」というセリフを考えるに、最初に駅で見送ったアントニオは死んだ。そして最後見送るアントニオも、今後一生会うことはないだろうと思うと再びの今生の別れなんだろうなと思った。鑑賞後の感覚が「なるほど名作」というずっしり感だった。

去年マリエンバートで L'Année dernière à Marienbad(1961)

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数年前に4Kデジタルリマスターの上映告知を見てなんとなく記憶に残っていた作品。
観てる最中の感想としては「なにか思い煩っているときに見そうな夢だな」という、ようは解釈が難しい作品だなという印象があった。完全に私個人の空想で解釈するなら、ミュージカル『エリザベート』の大枠である「死後の世界の再現劇」っぽいか、と思った。あのバロック調のホテルの紳士淑女はみんな死んでいるか、もしくは何かホテルという場に関連した強い思い、感情、とにかく生身の人間ではない何かが人型をとっていて、囚われた過去をなぞり続けている、そんなような。そして男Xは女Aとの記憶を、さながら『羅生門』みたいにこうだったか、いやこうではない、いやこうだったはず、と語りで浮き上がらせる。最後、約束の刻限を待っていた女Aと男Xがホテルを出ていくところは『エリザベート』ラストのシシィとトートっぽい、と思ったらなんとなく理解できる気がした。
そんなわけでストーリー解釈はすっぱりできたわけではないが、画面の美しさは難しいこと抜きにして堪能できた。あと女Aことデルフィーヌ・セイリグ、『ジャッカルの日』の男爵夫人ってマジですか?


今年のラインナップはご覧の通りアラン・ドロンに持っていかれたと言っても過言ではない。もう新たに追悼特集と銘打った催しが行われる気配もいまのところ無いので、年が明けていくことに寂しさも感じている。とはいえ未見の作品でソフト化されているものもまだまだたくさんあるのでゆっくり観ていこうと思う。そもそも追悼特集で観た作品もまだ全部は文章化できていないので、せめて年末年始の休暇の間に書き上げてしまいたい。しかし『山猫』は原作も読み始めてしまったので、それを読んでから書くとなると……先は長い!

それから読み物といえば、早川雪洲の名前が出るとのことでナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』を買った。こっちも読まないといけない。早川雪洲の言及箇所は読んだが、かといってそこだけ読むのも作品に対して失礼な気がするので全部読もうと思う。やることしかないまま2024年と2025年の間を飛び越えていきそう。おわり。

*1:美女と野獣』のガストンは毎日卵5ダース、つまり60個食べているそうだが、ジョヴァンナとアントニオがふたりで24個分を持て余しているのを考えると、どう考えてもガストンのレベル感がおかしい。たぶん何かの間違いでガストンが通りかかったら全部食べてくれたと思う

*2:場面ごとにフィルムの色を染める演出。たとえば夜の場面は青、など。この『ひまわり』で言うなら、(制作陣が染色をイメージしたかはわからないが)戦場だから血の色で赤かな、と思った

ハリウッドをカバンからぶちまけて -早川雪洲の役柄とそのイメージの一例

毎度毎度の合言葉であるが、私は日本人ハリウッドスター・早川雪洲が好きである。
どこが好きかと聞かれれば、まずわかりやすく口から出るのが「顔」*1。それから「スケールの大きさ」。そして「よくわからないところ」。

私は早川雪洲のよくわからないところが好きである。近現代の人物だというのに生年や年齢の記述がしっちゃかめっちゃかになりがちなところ。身長が結局どれくらいだったのか曖昧なところ。経歴も文献によってバラバラなこと。
こうしたところは本人による自己演出の産物である。アメリカのデジタルアーカイブで当時の映画雑誌を調べてみると、「海軍兵学校に落ちたので俳優になった」「叔父が川上一座の舞台監督だった」「叔父が川上音二郎だったので貞奴の一座と共に欧米に行った」なんて本人が語る映画界入りの経緯も二転三転していってしまう。彼は『スター』としての仮面をいくつ着けるつもりなのだろう。ひとり仮面舞踏会になってしまう。
しかし、ただでさえ知名度の高く、日本人を代表する国際的映画スターだった雪洲である。彼の意図しないところで、彼のイメージの方が独り歩きを始めてしまうことだってある。私がそのことに気づいたのは、ある記述がきっかけであった。


今は昔、私が大学生の頃の話である。私は映画に関する講義を履修していた。豊富な映像資料と共に、映画について網羅的に扱う楽しい授業だった。ちょうどそのころ、早川雪洲に熱を上げて数ヶ月であった私は、「この講義で早川雪洲の名前出てこないかな~」と常々思っていた。

思っていたら、なんと、出た。

さすがにびっくりした。映画とプロパガンダについて扱う回で、いつものようにレジュメを見たら「早川雪洲」の名前があったのだ。びっくりしすぎて叫んだ。そのときに周辺の席に座っていた知り合いを大いに驚かせたと思う。休み時間中とはいえ、大変失礼いたしました。

文章を解せる程度には落ち着いてから、彼の名前がある箇所を読んでみた。どうやら本の引用らしい。戦争映画における人種的偏見についての文だった。同じ箇所を乗せよう。

たとえば、アメリカ製の戦争映画にハンサムな日本兵が出てきたためしはない。賭けてもいい。ところが、ナチスはいつもぴかぴかの片眼鏡をつけてめかしこんだ、四角いあごの男たちだった。凶悪な役でさえりっぱな服装をしていた。私が東京を訪れて最初に気づいたことは、ハンサムな日本人が大ぜいいることだった。戦争に参加した日本人の中にも教養のある尊敬すべき人々がいた。しかし、映画の中の将校は早川雪洲のような連中によっていつもきまった型に演じられていた。彼らはみんな丸いめがねをかけていて、白人の看護婦を犯し、まともな人間に見える日本人は一人もいなかった。

サミー・デイヴィスJr. 『ハリウッドをカバンにつめて』(1971年、早川書房)、p204 

私はこれを読んで、キレた。

早川雪洲のような連中」とは……?
早川雪洲が出演したアメリカ製の戦争映画( ここは文脈的に第二次世界大戦ものと仮定する) は『三人は帰った』『戦場にかける橋』『戦場よ永遠に』の3本だと私は記憶している。いずれも早川雪洲の演じた将校は丸めがねなんぞ掛けていないし、もちろん白人の非戦闘員に彼が直接に暴行ということもない(彼ではない日本兵がそうした行動に及ぶ描写はあった)。むしろ雪洲の演じた役は、主人公に理解を示す立場として描かれていたり、日本軍の将校として振る舞う一方で人間的な面が垣間見えたりするような人物だった。
例として、『戦場にかける橋』はいうまでもなく有名作であるので、『三人帰る』で雪洲の演じたスガ大佐についての新聞記事の記述を引用しよう。

この映画は、戦争初期の数カ月間、傲慢な日本人が東インド諸島を支配し、非戦闘員を一網打尽にし、不潔な収容所に押し込めたときの残忍さを余すことなく伝えている。雄弁に、そして繊細に、虐待された人々の恐怖を描き、日本人の道徳的な過失は疑うべくもないだろう。
しかし、この映画は、こちら側にも弱く利己的な人間がいたこと、敵の中にも真っ当な心を持った同情的な人間がいたことを率直に表現している。この作品でこの特異さをもっとも顕著に、かつ興味深く物語っているのは、サイレント映画の名優、早川雪洲の演じる日本軍の収容所長である。ボルネオの白人住民を残忍に監禁し、辱めながら、キース夫人の文学的才能には敬意を持ち、丁重に賛辞を贈るのがこの男だ。夫人と後に親しくなり、彼女が収容所で拷問を受けているときに致命的なことに彼女を見捨てるのも彼である。そして最後に、戦争が終わり、自分の家族が原子爆弾で死んだことを知ったとき、収容所の子どもたちに不思議な優しさを見せるのも彼である。

THE SCREEN IN REVIEW; Moving Story of War Against Japan, 'Three Came Home,' Is Shown at the Astor - The New York Times

ちなみにこの後、「早川氏の日本人大佐の演技は稀に見る好演である」とも書かれている。
このように、早川雪洲の演じる日本軍将校は、敵でありながらも共感的な面を持つ人物であるというのが特徴的といえる。もちろん上記に拷問の無視とあるように、完全な人格者とはとても言い難い。しかし、「早川雪洲のような連中」が「いつもきまった型」に演じる「まともな人間に見える日本人は一人もいなかった」役という表現は不適切であろう。

本当に『ハリウッドをカバンにつめて』の作者は早川雪洲の映画を観たのだろうか? 彼がハリウッドで有名な日本人俳優であるというイメージだけで書いていないか? 彼が有名だからって、彼が演じた役と「映画の日本人将校の表象」が一致するとは限らない。
ドイツ軍がかっこよく描かれがちなのは大いにわかる。おそらくアメリカの戦争映画において「かっこいい悪役」ポジションを担っているのがドイツ軍である。日本軍はかねてからの黄禍論と魔合体して「倒すべき黄色い猿」ポジションにされたのであろう。
この筆者がメインとして言いたいことはわかる。わかるが、早川雪洲に関しての記述はまるっきり間違っている、というのが私の持った感想だった。

しかし、この文章は結局のところ一部抜粋である。前後がどのような話だったのかわからない限り、もしかしたら私は大いにこの文章を誤解しているのかもしれない。文脈
の切り取りはとんでもない誤読を招く。とにもかくにも出典の本にあたろう! 私はそういう方針にたどり着いた。
残念ながら大学の図書館には置いておらず、古本屋ローリング作戦を実行し無事に『ハリウッドをカバンにつめて』を購入した。

結論から言うと、特に私は誤読したわけでもなんでもなかった。あの文章は、戦争映画に潜む人種的偏見の表象、事実の改竄に関して書かれたものだった。筆者の言いたい
ことや見解は極めて正しいものだと私は思う。日本人はステレオタイプをなぞるようにして多く描かれてきた。ドイツ人もそう。黒人もまた然り。
でもそれはそれとして早川雪洲に関する記述は妥当とは言い難い。筆者は「ひとまず有名な日本人俳優の名前出しとくか」くらいの気持ちで書いたのかもしれないが、せめて裏を取ってから筆を執ってほしいものである。

さきほど、「映画の中の日本人描写は差別的に歪められており、早川雪洲のような連中によって決まった型に演じられている」と述べていた『ハリウッドをカバンにつめて』の文章はこう続く。

人種差別は未知なるものへの恐怖にもとづいている。イギリス人はつねにドイツ人を理解していて、ひそかな敬意さえ寄せてきた。しかし、彼らはけっして神秘的な東洋民族の日本人を理解しようとしなかった。"ジャップ"にも名誉を重んじる心があることを彼らがやっと理解したのは『戦場にかける橋』'57年を見てからであった。

サミー・デイヴィスJr. 『ハリウッドをカバンにつめて』(1971年、早川書房)、p204

その『戦場にかける橋』で日本人将校を演じ、アカデミー賞にノミネートされたのが早川雪洲であることを筆者はきれいに忘れてしまったのだろうか。

とはいえ「当時のアメリカにおける雪洲のイメージとはこのようなものかもしれない」ということが頭によぎった。「悪役ではなく、ありのままの姿の私たちを撮りたい」と自分のプロダクションを立ち上げた雪洲であるが、どうも『チート』の影は色濃いようである。彼が1973年に亡くなった際のニューヨーク・タイムズも、彼を「悪役、そして恋人として120本以上の映画に出演」*2と紹介している。
私が観た彼の映画の中で、「悪役」という印象があったのはせいぜい『チート』か『颱風』あたりである(あとは強いて言うならアメリカ映画ではないが『ヨシワラ』もいろいろな事情とすれ違いで思いを寄せ合う二人を引き裂くような立ち回りにはなっている)。もちろんそもそも私が観た絶対数が少ないのもあるだろうが、それと同時に、黄禍論を始めとする当時の日本人ないしはアジア人に対するイメージが(実際のところはさておき)早川雪洲に結びつけられているところもあるのだろうと思う。早川雪洲は当時の日本人/アジア人イメージを映す鏡なのかもしれない。そんなこんなで「本人の自己演出」と「外部によって投影されるイメージ」で早川雪洲は実像が見えにくい人物に仕上がっていると思う。

さて、話が四方八方に飛んだが、そんなわけで早川雪洲は謎めいた人物であると思うし、そこが魅力的でもあると思う。明白明瞭よりもミステリアスなほうが調べ甲斐があるし、永遠のテーマというやつは掘っても掘っても掘り尽くせなくてよい。

記事の締め方が行方不明になった。最近アラン・ドロンの話ばかりしていたし書いていたので(まだ感想を書き始めてすらいない鑑賞作品がたくさんある)久しぶりに早川雪洲について書けてよかった。知恵泉早川雪洲編が再放送されていましたね。次は大河ドラマですか? 朝ドラですか? 映像の世紀でも大歓迎です。

最後に、早川雪洲の出演した第二次世界大戦物のハリウッド作品のトレーラーもしくは全編映像を貼り付けておこう。

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『ハリウッドをカバンにつめて』の筆者はせめて映画を観直してから本を書いてください。お忙しいところ恐縮ですがどうぞよろしくお願いします。

 

*1:これは友人とも話していたのだが(友人は彫刻のような顔の舞台俳優を贔屓にしている)、「推し/贔屓の魅力について問われたとき、もちろんいろいろとあるのだが、入口となったもの、なおかつ他者から見て客観的にわかりやすい魅力としてどうしてもとりあえず『顔』が出てきてしまう」という意見がある

*2:Sessue Hayakawa Is Dead at 83; Silents Star Was in ‘River Kwai’ - The New York Times

アラン・ドロン追悼特集で観た作品たち② 『太陽がいっぱい』感想

アラン・ドロン追悼特集で観たものシリーズ②はこちら。

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そう、アラン・ドロンの原点にして傑作、『太陽がいっぱい』だ。

美しくも屈折した青年トム・リプリーは、大富豪の友人を殺害しなりすましを計る。まばゆい太陽が照りつける南イタリアの地ですべてを手に入れたトムは、完全犯罪を成し遂げたはずだった――。

Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下坂 Adieu(さらば)アラン・ドロン フライヤーより

この映画を観るのは4回めくらいである。なんなら大学生時代にレポートの題材にしたこともある。ちなみにさっきそのレポートを読み返したら、スープまで飲みきったカップ麺のカップにお湯を注いで飲んだくらい薄い中身で絶望した。今回はそれと比べたらいろいろと気づけたことが多い(と信じたい)のであれこれ書き記そうと思う。
以下ネタバレ祭りです。原作は未読です。それからこの感想を読んでいる人は『太陽がいっぱい』を観たことのある人がほとんどだと思うが、一応登場人物の名前に注釈をつけると、富豪の友人がフィリップ、彼の恋人がマルジュ、彼の友人がフレディです。


映画全体についての感想。最初にこの映画を観たのは高校生の頃で、「トムとフィリップは同性愛的なものを彷彿とさせる」というのを見かけては正直あまりピンと来ていなかった(さすがに鏡の前でフィリップの真似をするシーンは印象的だったが)。ただ、数年ぶりにこの作品を観て、以前よりも「この二人(というよりトムがフィリップに向ける感情が)、異様な関係だな」というのは感じるようになった。トムが「15歳のとき、僕は海に溺れて君(フィリップ)に助けてもらったね」と語るエピソード。マルジュの前でフィリップ古参アピールか? と思ったらあとで「トムと以前に会ったことなんてない」とフィリップ。トム、存在しないエピソードをいきなり語ったってこと? 怖すぎる。私も存在しない話をその場で創り上げるのは得意なたちだが、そういうノリでないところで真顔でそれを炸裂させるのはレベルが違う。のちにトムが言うように「想像力が豊か」なのは確かなようだ。
それからこれは大学生のころの私も書いていたのだが、トムが部屋でくつろぐときもフィリップのガウンを着ているのだ。不意の来客に備えて着ているのかもしれないし、ガウンがそれしかないのかもしれないが、人目のないところでわざわざフィリップのものを着なくてもいいような気がする。どうだろう。着なくてもいいのにわざわざ着ているとしたらそれもまたちょっと異様かもしれない。

太陽がいっぱい』のアラン・ドロンは24歳である。今の芝居いいな、そういえばスクリーンの彼と今の私は同い年だな、なんという表現力だろう、と思う度に白目を剥きそうになった。インドシナ兵役の話やら幼少期の話やらなんとなく知ってはいたが、彼の24年と私の24年は濃度が全く違うであろうことを改めて感じたし、(もちろん本人の直感とか、センスとか、才能とか、そういった要因も大きいのだろうが)それに裏打ちされての表現力だろうかとぼんやり思った。フィリップ(殺害済)を訪ねてやってきたフレディをアパートで出迎えたとき、トムのヒクつく目元に招かれざる客への苛立ちが色濃く出ていて印象的だった。この作品を初めてスクリーンで観たが、細かい仕草や動作も観られて本当にありがたかった。

そして「アラン・ドロンってやっぱり美男子だな」と思った。もはや地動説と同じくらい周知のことである。私は追悼上映を観る中で「アラン・ドロンは顔の美しさが取り沙汰されることが多いが、演技力もあり、なんなら顔が見えなくたってセリフが無くたって芝居がすごい」ということを確認した。
ただ、終盤も終盤のマルジュを訪れるシーンはアラン・ドロンのあの造形美をもってこそのあの破壊力だったと思う。手に口づけられてあの青い目で見つめられて陥落しない人類が存在したら教えてほしい。逆にアラン・ドロンくらいの美形でないと「婚約者に残されて打ちひしがれる女性が、婚約者の友人と恋仲になる」という状況の説得力がないと思う。この場面は座席で叫びそうになった。もちろん叫んでないです。しかしトム・リプリーは「フィリップの全財産をマルジュに残し、自分がマルジュと恋仲になることでその財産を手に入れる」という筋書きを考えたんだろうが、自分の顔の美しさにとことん自覚的で憎たらしい男……! と思った。アラン・ドロン本人が若い頃の自分はハンサムだったと認めていたそうなので、この映画のトム・リプリーもそうだったのだろう。日仏学院でのトークショーで、当初アラン・ドロンはトムでなくフィリップを演じるはずだった(ドロン本人の希望とクレマンの妻の強い後押しで彼がトムになった)という話を聞いた。トムで大正解だと思う。むしろトムでなくてなんなのだろう。

さて、以下に思ったことを雑多に書く。

 

死体と食べ物は表裏一体なのかもしれない

フィリップを殺害した後、マルジュと度々会うトム。小切手を換金するというマルジュに、じゃあ辺りを回って待っている、とトムは市場を散策する。そこで繰り返し写されるのが魚である。どうやら魚市場なのか、魚がずらりと並んでいる。トムも時折手に取ったりして眺める(魚って手にとっていいのか?)。
ここで私の頭には『ゴッドファーザー』のあるシーンが浮かんだ。生魚を送って「シチリア式の挨拶だ」「ルカは海の底だ」というやつである。もちろん『ゴッドファーザー』の方が制作年は後なのだが、似た解釈で行くならば、魚市場の魚たちはトムが殺して海の底(にいるはず)のフィリップを暗示しており、ついでに途中で写される天秤は裁きを意味しているのかもしれない。市場に並ぶ魚も、死体といえば死体である。

さらに先述のフレディ。彼はアパートを訪ねるが、トムに「フィリップは不在だ」と返され部屋を出る。そこに女中がやってきて、「グリンリーフさん! 食材です!」とトムに向かって声を掛ける。トムがフィリップのフリをしていることに気づいたフレディは、「おれが持っていくよ」と女中から食材を受け取り、再び部屋へと向かう。フレディは入った瞬間、待ち伏せしていたトムにより撲殺される*1。散乱する野菜、そしてチキン。海で死んだフィリップは魚、幾分恰幅のよいフレディはチキンか。ちなみに女中はあとで「チキン美味しかったでしょう?」とトムに声を掛ける。

ついでに殺しと果物もつきものかもしれない。フィリップを殺した後、トムはオレンジに噛みつく(なんなら終盤モンジベッロに戻ったときにオレンジを売る店が写っていたと思う)。また、マルジュの家族と共に死んだフレディの身元確認に立ち会ったあと、通りがかる市場で売り子がマスカットを勧めている。

 

気付いた対比・反復など

船のシーン。トムが舵を握っているときは空の青さが印象的で、そのあとフィリップが舵を取るときは空が白っぽいように見えた。フィリップ殺害後、大荒れの海でトムが舵をとるときは眩しいくらいに真っ白だった。ひょっとするとただの時間経過の問題かもしれない。

フィリップの船を売ろうとしたとき、「グランリーフさん」と言われ「グリンリーフ」と言い直すトム。リカルディ刑事に「リスリーさん」と言われ「リプリーです」と言い直すトム。これがそれぞれ"フィリップになりすましているトム"と"トムであるトム"の両方で行われているのが対比的だと思った。

フィリップとフレディの死体。フレディの死体を運ぶシーンで、階段を下から見上げるようなカット。死後硬直したフレディの右手だけが手すりから飛び出して見える。
最後、船と共に引き上げられるフィリップの死体。ボロボロになった左手だけがのぞいている。

服の色。フレディの死体を車に乗せるとき、赤い服の聖職者が通りかかる。トムはとっさに友人を介抱するふりをして「おい、しっかりしてくれよ」と呼びかける。トムの紺色のジャケットと聖職者の赤い服が対比になっていると思った。

ラクション。フレディの死体を車に乗せたときと降ろすとき、どちらもフレディの体が触ってしまったのかクラクションが鳴る。また、フレディの身元確認の帰りに市場を歩いているき、マルジュの家族とトムを後ろから来た車がクラクションを鳴らして追い抜いていく。

料理の拒否。マルジュの家族とともにレストランに入ったシーン。マルジュの母親がフレディの死について話している最中、ウエイターが魚の乗った盆を差し出すが手で制する。一方、モンジベッロのアパートでフィリップの死について話している最中、女中が料理を運んでくるがマルジュが手で制する。

ついでに、ボートのロープが切れてしまって海上にあわや置いてけぼりだったトムと、ロープを切ったはずなのにスクリューに絡んで船(マルジュ号という名前らしい)から離れなかったフィリップの亡骸も対比かもしれない。

 

余談

ロミー・シュナイダーカメオ出演、結構思いっきりでてくるのでわかりやすい。フレディは名前を忘れるんじゃない、そのマドモアゼルはロミー・シュナイダーだぞ(怒)

・灯油の巡回販売で『太陽がいっぱい』を使っていることがある。以前「曲のチョイスが怖くない?」と父に話したら「他の曲にすればいいのにね」と言われ、「なんだろう、タワーリング・インフェルノとか」と言ったら「それは火力強すぎ」と言われた。燃えすぎである。

 

さて、本当は『若者のすべて』『冒険者たち』と合わせて記事にしたかったのだが、『太陽がいっぱい』を観たら、これ単体で3500字くらい書いてしまった。完全に予定が狂ったが、計画通りうまく運ぶわけはないし予定通りいかない番狂わせが面白いのだ。たぶん。それが面白いのはオーストリア皇帝の結婚限定かもしれない。ともかく残りのもちゃんと書きたい。

 

*1:これ大黒様で殴ってるの良くないと思う

『フィリップ』感想

面白そうだな~のノリで観に行きました。映画なんてなんぼ観たってええですからね。
備忘的に書いているので、徹頭徹尾内容のネタバレしかありません。あとそれっぽい記事のタイトル思いつかなくってすごくそのままの題になっています。

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1941年、ポーランドワルシャワのゲットーで暮らすポーランド系ユダヤ人フィリップ(エリック・クルム・ジュニア)は、恋人サラとゲットーで開催された舞台でダンスを披露する直前にナチスによる銃撃に遭い、サラと共に家族や親戚を目の前で殺されてしまう。2年後、フィリップはフランクフルトにある高級ホテルのレストランでウェイターとして働いていた。そこでは自身をフランス人と名乗り、戦場に夫を送り出し孤独にしているナチス上流階級の女性たちを次々と誘惑することでナチスの復讐を果たしていた。嘘で塗り固めた生活の中、プールサイドで知的な美しいドイツ人のリザ(カロリーネ・ハルティヒ)と出会い本当の愛に目覚めていく。連合国軍による空襲が続くなか、勤務するホテルでナチス将校の結婚披露パーティーが開かれる。その日、同僚で親友のピエールが理不尽な理由で銃殺されたフィリップは、自由を求めて大胆な行動に移していく…。

映画『フィリップ』オフィシャルサイト


最初はあらすじをちらっと読んでさては復讐譚か、ピカレスクっぽいやつか、あるいは『愛の嵐』みたいな退廃的な方向性か……と思いながら観に行ったのだが、結論から言うとどちらでもなかった。あの時代のナチス統制下で"異分子"(外国人というだけでそれなりの目で見られるような空気感である)として生きることがどれほど辛く、過酷なものかを描いていた。
フィリップはたしかに復讐をしているが、そこにピカレスク的な爽快感はない。たぶんそれをしたところでフィリップの心の何かが晴れるわけでもない。ただ鬱屈としたものが濃くなるばかりである。何が悪いんだ? 時代か? 社会か? 両方ですね……。

ちなみに冒頭とラストは反復構造かもしれない、と思った。

冒頭:恋人のサラとゲットーの舞台に出る。フィリップはサラに求婚する。彼らはダンスを披露するが、その最中で銃撃に遭い、サラは死んでしまう。フィリップはちょっとしたアクシデントで舞台袖におり、難を逃れる。

ラスト:ナチス将校の結婚披露宴。参列客はダンスを踊っている。フィリップは客を銃撃する(あらすじの"大胆な行動"はこれを指すと思う)。彼はひとり、パリ行きの列車に乗るべく駅へ向かう。

『結婚(求婚)』『ダンス』『銃撃』あたりのシチュエーションがモロに同じである。観た日の寝入りばな、これに気づいて思わず飛び起きた。

ちなみにラストの方では、それに至る前に、
①新たな想い人リザとパリへの駆け落ちを計画(一度実行するも空襲で頓挫)
②友人ピエールがホテルのワインを盗んだことで射殺される
③ピエールの死を受け、フィリップはリザに対してこの街に残るよう伝える
という流れがある(情緒のへったくれもない箇条書き)。
もしかしてリザとそのまま共に駆け落ちする流れになった場合、サラ≒リザという構造になり、リザが死んでしまっていたのではないか……と思った。

上記はメタ的な考察ではあるが、フィリップ自身も、家族も恋人も死に、目の前で友人が死に……となるとリザもそうなるように思えてしまったのかもしれない。リザに駆け落ちを諦めさせようと「愛していない」「君が落ちるか賭けをしていたんだ」と心にもない言葉を口にするフィリップ。リザは聡いので、それが嘘だとわかっているのもまた観ていて辛い。
ようやく愛を得られたというのに別離なんて……と思うが、逆にここで別離を選べるのが愛なのかもしれない、とも思う。(わたしは『オペラ座の怪人』が好きすぎるので、想いを残しながらも別離を選べる人を本当に偉いと思っている)

結婚式の参列客を銃撃したあと、フィリップは駅へ向かう。パリ行きと前線行きを振り分ける駅員の姿。避難しようとする市民たち、戦場へと向かう兵士たちが駅へ続く階段へと吸い込まれていく。フィリップもまた階段を降りていく……ここで終わるのか~~~~!!!!!!!!


以下、雑多な感想。
フィリップ、ゲットーではポーランド語(たぶん、おそらく。ちょっとドイツ語に似た響き)。仕事中などはドイツ語、ピエールと話すときはフランス語(たぶん)……だったと思う! ドイツ語しか自信がない。公式サイトを確認するとイディッシュ語もあったようなのだがいかんせん素養がなくわからなかった。ともあれ、俳優の言語を操る才能に脱帽した。やっぱり大陸国家だと多言語に触れて育つんだろうか……。

またドイツの国歌について、改めて当時歌われていた1番はすんごい歌詞だなと思った*1。Deutschland über Alles, über Alles in der Welt……つまりは「ドイツよ、世界のすべてのものの上にあれ」である。これが平然と公の場で歌われていたことに異様さを感じる。異様だと思える時代に生まれてきたことを感謝すべきかもしれない。



さて、余談として、この映画でありえないくらい個人的な理由で印象に残った場面について。

映画の序盤、ホテルで働くフィリップの朝の様子が描かれる。慌ただしい厨房。総支配人に出す朝食とコーヒーはまだかと急かされる
コーヒーが用意できたところで給仕たちが集まり、何をするかというと、寄ってたかってコーヒーに唾を吐くのだ。ぎょえー。そしてn人分(n>5くらいだと思う)の唾が入ったコーヒーは、朝食と共に運ばれ、総支配人に提供される。総支配人がコーヒーを飲むところまでしっかり描写される。

ここからは私の話になるのだが、少し前、私が職場でいちばん新人とされる年代だったころ、当番制で幹部に毎朝コーヒーを出す業務があった。フィリップたちとある意味で一緒である。いつも私はコーヒーを用意しながら「新参者に何か口に入れるものを任せるなんて江戸時代とかじゃあ考えられないだろうなあ」と物騒なことを考えていた。
幸いコーヒーを出す相手は全く嫌な人ではなかったし、何かしようなんて思ったことはないけれど、出す相手が温度がどうのとか味がどうのとかうるさいタイプだったら練りわさび投入くらい検討したかもしれないな……(想像するだけで実行まではもちろんしない、これ大事)と思っていた。
そこにこのシーンである。「さすがに唾は思いつかなかった」という謎の方向での衝撃と「人間って突き抜ければどこまでだって行けるんだな」という謎の方向の気づきを得た。もちろん飲み物に唾はNGだが。


〆にはものすごく微妙な話になってしまった。フィリップ、各地の映画館で上映されたり、これから上映するようなのでぜひ。

*1:少し前に『プリンセス・シシー』を観ており、そこでもフランツ・ヨーゼフが嫁入りするシシーを出迎えるシーンでドイツ国歌と同じ旋律が流れていた。もちろん元はそっち(皇帝万歳、的な方)なのだが、同じ曲にも関わらず全く違う文脈で使われることに時代の目まぐるしさを感じた

アラン・ドロン追悼特集で観た作品たち①

アラン・ドロン追悼特集で観た作品について書いていく。ネタバレは当然のごとくあります。

今回書くのは『さらば友よ』『生きる歓び』『ビッグ・ガン』。

 

さらば友よ

アルジェリアから帰還した軍医のバランは広告会社の女から、横領した債券を会社の金庫に戻してほしいと依頼される。バランは金に匂いを嗅ぎつけたアメリカ人傭兵のプロップと共に、債券を戻すと同時に金を奪おうとして金庫を開くが、そこには何もなく…。

さらば友よ - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

アラン・ドロンチャールズ・ブロンソンの共演はだいぶ前に午後のロードショーで『レッドサン』で観たな~と思った(けっこう前なので記憶はおぼろげ)。

てっきりドロンとブロンソンがうっかり閉じ込められた部屋から脱出! で話が終わるのかと思っていたらそんなことはなかった。
何よりびっくりしたのは"ワーテルロー"こと医学生のドミニク・アウステルリッツが『禁じられた遊び』のポーレットだったこと*1
さらに言うとドロンとブロンソンの男の友情がメインだと思って観始めたし、もちろんそれはそうなのだろうが(ラストの煙草のシーンと「Yeah!」が良すぎる)、ドミニクと広告会社の女イザベルの関係性が個人的に気になった。車の中での「またお父さんとも一緒に暮らせる?」といった会話、旧知の仲なんだろうか。あっちはあっちでシスターフッドだとしたらめちゃくちゃいいと思います。

ちなみに『ブラックジャック』でチャールズ・ブロンソンを元ネタにしたらしきキャラクターが出てくる……と聞いたので確認したところ、たしかに「白い正義」回のギャングのボスがブロンソンっぽい見た目をしていた。ちなみに彼は「さらば友よ……」(元セリフはなぜかローマ字表記)という呟きを残して退場する。

 

生きる歓び

榊原郁恵の『アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた』という曲の「アラン・ドロンのふりなんかして甘い言葉ささやくけど」という歌詞を聴いて、「ドロンが甘い言葉を囁いているイメージ、個人的にはあんまり無いかもしれない」ということを考え*2、その翌日観たのがこの作品だった。
良い分量のあらすじが見つけられなかったので、私なりに要約するとこうなる。

除隊になったユリス(アラン・ドロン)は行く宛もなく、友人とともに黒シャツ党に入る。反体制分子の活動拠点を探る最中、立ち寄った印刷所で出会った娘に一目惚れをする。ユリスはそのまま印刷所に住み込みで手伝いをすることになる。印刷所を経営する一家は全員アナーキストであり、娘の気を引きたい彼はアナーキストになりすますが……。

ルネ・クレマン監督の作品というと『太陽がいっぱい』『禁じられた遊び』『居酒屋』『パリは燃えているか』など、個人的にはシリアス系・重め系のイメージが強かった。なので『生きる歓び』を観てラブコメの波動にひっくり返った。温度差で心の中のグッピーが死んだ。甘い言葉囁いてるな!? と思った。
屋根裏住みのおじいちゃん、仲悪そうな近所の床屋さん、黒シャツ党の怖そうな尋問官、異様に綺麗好きの印刷所の奥さん……とみんなキャラが立っていて楽しい。思いっきりシリアスに振れることもできそうな状況設定なのに、警察とのやり取りもやけに牧歌的である。
アラン・ドロンといえば悲劇的な役が多いし、そっちのイメージのほうが強いが、味変的な感じで楽しかったと思う。凱旋門の爆破とかはあんまり笑えないけど。

 

ビッグ・ガン

暗黒街から足を洗おうとした矢先、愛する妻子を殺された殺し屋の復讐を描く。監督は「続荒野の1ドル銀貨」のドゥッチョ・テッサリ、脚本はウーゴ・リベラトーレ、フランコ・ヴェルッチ、ロベルト・ガンドゥス、撮影はシルヴァーノ・イッポリティ、音楽はジャンニ・フェリオが各々担当。出演はアラン・ドロンリチャード・コンテ、カルラ・グラヴィーナ、ニコレッタ・マキャヴェッリ、マルク・ポレル、ロジェ・アナン、リノ・トロイージ、アントン・ディフリング、ウンベルト・オルシーニ、グイド・アルベルティなど。

ビッグ・ガン : 作品情報 - 映画.com

ゴッドファーザー』のバルジーニとドン・トマシーノにすごくそっくりな人がいるなと思ったら同じ俳優だった(リチャード・コンテコラード・ガイパ)。
敵が主人公を始末しようとして車に爆弾を仕掛けるものの妻(と子)を巻き添えにしてしまう……という展開もあいまって「『ゴッドファーザー』みたいな風味だな」という気持ちで観ていた。コルレオーネファミリーの三男坊であるアル・パチーノシチリア出身の凄腕殺し屋のアラン・ドロン……? と存在しないクロスオーバーが頭で構成されるがもちろんそんなものはない。

ちなみに帰宅後、「アラン・ドロンってマフィアというよりギャングのイメージ」「『ファミリーの掟が』『あいつは同郷だから』どうこう、みたいなのより、一匹狼や根無し草、彼の名前以外は誰も何も知らない……みたいな方がしっくり来る」と熱弁すると父親にほんそれ~(意訳)と言われた。父親いわく「その点アル・パチーノはそういうの(マフィア的なサムシング)似合うよな」。たぶん親子で『サムライ』と『ゴッドファーザー』が好きすぎる。

 

たぶんアラン・ドロン追悼特集で観た作品の話、③くらいまで行くような気がする。行かないかもしれないしもっと行くかもしれない。

 

*1:禁じられた遊び』のあの終わり方、ポーレットは雑踏に紛れてあのあとどうなってしまうのだろう……と暗い気持ちになりながら観終えたので、もちろん俳優と役はイコールではないけど成長した姿を見て安心した

*2:今考えると映画の役柄よりも『甘い囁き』からのイメージなのかもしれない

アラン・ドロンと僕を比べて陽気に笑う君が好き

わたしがアラン・ドロンという俳優の存在を知ったのは高校生の頃だった。

ある年の元日、特にどこに出かけるわけでもなく、かといってお正月編成のテレビ番組を見る気にもならず、わたしと父親は近所のレンタルビデオ屋に行った。わたしは特に観たい作品はなかったが、父親は1枚のDVDをカウンターに持っていった。旧作の名作再発掘、のようなキャンペーンシールが貼られていたと思う。「アラン・ドロンの映画なんて久々だなあ」と父親は言っていた。かくしてわたしは父親の隣で『ボルサリーノ』を観ることとなった。
わたしの頭に残る『ボルサリーノ』初見の感想は朧げなものである。ボルサリーノって帽子の名前ではなかったか。映画もあるんだ。確かにこの人たちは小洒落た格好をしている。アラン・ドロンは黒髪を撫でつけて眼光の鋭い、いわゆる二枚目俳優という印象だった、と思う。
高校生のころといえば映画を意識して観始めたくらいのころで、わたしは新たに覚えた「アラン・ドロン」という俳優の名前を手がかりに、次に観たい映画のピックアップをした。それが『太陽がいっぱい』『サムライ』『パリは燃えているか』と年々少しずつ積み重なっていくうちに、いつしか彼は「名前と顔が一致する俳優」から「好きな俳優」のカテゴリに入っていた。あれだけ造形の完璧な顔を何度も観て好きにならないほうが無理がある、かもしれない。人それぞれだと思う。ニュースでも日常でもなんでも、彼の話が出るとうれしかった。大学の講義で、『太陽がいっぱい』を流しながら、教授が「アラン・ドロン、本当にかっこいいですね~」しか言わなくなった回には共感しつつも笑ってしまった。就職してからは、てっきり世の壮年男性は自分の父親みたいに映画が好きなものと思っていたわたしはアラン・ドロン? 知らない。落語家があらーん、どろーん、って言ってるのは知ってるよ」と笑いながら上司に言われて、思わずハァ?という顔をした思い出もある。

わたしの知る彼の姿はほとんどが60年代か70年代の姿だし、自分の生きているリアルタイムで彼の姿を見かけることもほとんどなかった(強いていうなら、某バラエティ番組で英語がハチャメチャな芸人が勢いのまま映画祭でスターたちをパパラッチする企画で近影を見た。若い女性タレントが「アラン・ドロン、名前は知っているけど、それ以上は…」「『太陽がいっぱい』? 太陽は1つしかないですよ?」のようなことを言って、芸人がいたく驚いていた。私も衝撃を受けた)。でも、たまに彼と同年代に活躍した映画スターの話を聞いては、「そういえばアラン・ドロンってまだ元気だよな、いま何してるんだろう」と思う瞬間が嫌いじゃなかった。
ちなみに自分のいちばん古いアカウントのツイートを遡ったら、2020年の8月に「クリストファー・プラマーもアラン・ドロンもなかなか高齢だなあ」ということを書いていた。あれから4年たち、2人とも鬼籍に入ったので、時の流れは容赦ないと思う。

彼が亡くなったと知ったとき、ふと思い出したのは、就職活動の最終面接で「アラン・ドロンが好きな若い子は珍しいね」と言われたときのこと。「太田裕美の歌にも出てくるよね」と言われ、ああ、『木綿のハンカチーフ』のひとか、と思った。アラン・ドロンが出てくる歌はついぞ聴いたことがなかった。太田裕美アラン・ドロン、と調べて出てきた曲名をミュージックで再生した。
"アラン・ドロンと僕を比べて陽気に笑う君が好きだよ"と歌う彼女の声。フランスが生んだ世紀の美男子と一般男性を比べる"そばかすお嬢さん"の無邪気さにふふふと笑みがこぼれた。アラン・ドロンの追悼上映に足を運ぶわたしの頭には、太田裕美のこの明るくてどこか悲しい歌声がリフレインし続けている。

さて、8月にアラン・ドロンの訃報を聞いてからゆっくり書いていたのが上記の文章である。ぼちぼち各所で彼の追悼上映が行われ、足を運んできたのでまとめて感想を書けたらいいなと思っている。ちなみに彼の出演作でいちばん好きなのは『ゾロ』です。おわり。

 

私は如何にして100年前の日本人ハリウッドスターを愛するようになったか

今日は6月10日である。さて、何の日だろう。
大半の日本国民はこう答えるでありましょう。ハリウッドスター・早川雪洲の誕生日であると……。
彼の命日である11月23日は祝日であることから、6月10日も祝日にすべきだと私は思う。6月には祝日も無いことだしちょうどいいと思う。

それはさておき。早川雪洲は活躍していた当時の知名度に比して、現在の知名度はかなり控えめであると思う。以前、大学同期たちに早川雪洲のことを知っていたか?」というアンケートをしてみたところ、「お前のせいで知った」に全票が集中した。つまり日常を生きていて(たとえ映画や小説などのコンテンツへの感度が世間一般より高いであろう文学部生であっても)、早川雪洲という存在に出くわすことはそうそうないのである。

そんな中で、そもそもなぜ私が早川雪洲を知ったか、なぜ卒業論文のテーマを彼にするほど熱中したのかについて書き記しておこうと思う


早い話、彼はとんでもなく美しかったのだ。

私は大学1年生の初夏のとある日、ネットサーフィンをしていた。調べていたことは他愛も無いもので、「ハリウッド 歴代 美男」だとかそんなことである。レオナルド・ディカプリオ、ロバート・レッドフォード、クラーク・ゲーブル……とどんどん年代を遡っていく中に、早川雪洲はいた。

私が早川雪洲を初めて認識したのはこの写真だったと思う

日本人でハリウッドスターなんていたんだ、というのが最初思ったことだった。
渡辺謙がハリウッド映画に出ているのは知っているし、その昔は三船敏郎なのも知っている。でもさらにその前に?
しかも紹介文には無声映画の時代と書いてある。無声映画についてとんとイメージが湧かない。あれでしょう、『雨に唄えばに出てきた変な声のスター(リナ)が活躍できたころ。何年前だろう? チャップリンの名前は知っているが、この人の名前は一度も聞いたことがない。

そして検索エンジンに「イケメン」だか「美男」だか「ハンサム」だかを打ち込んで出てきた彼である。美男なのか。画像を見る限り、ただならぬオーラと眼光の鋭さは確かに感じるけれど、全米の女性を虜にするほど美しいかどうかは正直よくわからない。
私は早川雪洲についての諸々の判断を保留して、次のページへ移った。

しかし不思議なもので、どうしてだか知らないが早川雪洲のことが忘れられなかった。数日後、ちゃんと調べてみるかと思い立った私がたどり着いたのは彼の最大の出世作『チート』である。観てないそこのあなたはぜひ観ていってください。

www.youtube.com

ちなみにこの作品について私なりにまとめると、以下のような筋書きになる。結末を含むので注意。*1

ある浪費がちなアメリ社交界の貴婦人は、投資話を持ち掛けられ、預かっていた赤十字基金の1万ドルを横領しそこに注ぎ込む。しかし、その投資は失敗。1万ドルを明日基金で送金するということで途方に暮れた彼女に、偶然にも事情を知った日本人富豪(早川雪洲)が援助を申し出る。この貴婦人と日本人富豪はかねてから懇意にしていたのである。援助の内容は「1万ドルを日本人富豪が出す代わりに彼の愛人になる」というもので、貴婦人はそれを承諾する。だが翌日、彼女の夫が投資で大儲け。日本人富豪の屋敷に呼ばれた彼女は彼の家に赴き、「金を返すので昨日の契約は無しにしてほしい」と懇願する。しかし彼はそれを許さず、彼女の肩に彼の所有印である焼き印を押し当てる。彼女は日本人富豪を拳銃で撃ってしまい、罪を被った夫は後日裁判にかけられる。法廷で彼女はその肩に刻まれた焼き印を晒し、日本人富豪の所業が明らかになったところで、拍手する聴衆に見守られながら彼女は夫と共に法廷を後にする。

さて『チート』を観た私は、ものの見事に早川雪洲の美しさにやられてしまった。ギャグ漫画みたいにあまりにもあっさりだった。

計算されたライティング、画面に浮かぶ陰影。その中で早川雪洲の顔は謎めいた美しさをたたえていた。黒々として端正で凛々しい眉。その間からまっすぐに伸びる鼻。アイシャドウに彩られた瞼の下で色っぽく、そして冷たく光るその切れ長の瞳。平素は一文字に結ばれていて、愉悦に、時として残忍に歪むその唇。それらの美術品のようなパーツが、この早川雪洲という男の顔に礼儀正しく並んでいるのである。そんな東洋の美の象徴のような顔が嗜虐に染まる瞬間を考えてみろ。そら全米の女性が魅了されるに決まっている。

そして彼の演技である。サイレント映画はその名の通り、無声映画だ。セリフも時折字幕で挿入されるが、基本的には視覚的な演技で全てを語らなければならない。そのため、身振り手振りを大げさなくらいに強調する俳優が多い。この作品の出演者も例外ではない。貴婦人を演じたファニー・ウォード、その夫を演じたジャック・ディーン、共にかなり大仰な演技をしている。
しかし、早川雪洲は違う。物言わぬ口の端で話し、目で訴え、眉で語った。彼は誰よりも静かで、誰よりも雄弁だった。「閉じ込めておくというのなら私、自殺するわ」と言う貴婦人に、ならばやってみろと銃を差し出し、躊躇する彼女を見て片眉を上げ嘲笑う雪洲の表情なんかぞっとするくらいに美しかった*2

そんなわけで、早川雪洲の美しさにあてられてしまった私は、すぐさま彼の他の出演作を探し、大学の図書館に足を運んで彼の評伝を読み漁り、そこからは転げ落ちるようにのめりこんでいった。かくして私の大学4年間は彼のものとなったのである。


さて、私はさきほど冒頭に「早川雪洲現代日本であまり知名度が高くない」と書いた。
ただ、最近なんだかNHK早川雪洲を取り扱うことがちょこちょこある。

www.nhk.jp

www.nhk.jp

知恵泉のほうは前後編で2週にわたって放送があった。きっちり全部視聴した。地上波で『チート』の映像が流れる日が来ようとは思っていなかったのでびっくりした。NHK、いったいどうしたのだろう。青木鶴子と二人三脚で激動のハリウッドと世界を生き抜く感じの朝ドラにでもなるのだろうか。田中路子やルース・ノーブルはどうするつもりなんだ(気が早い)。
どういう風の吹き回しかは知らないが、早川雪洲知名度が上がったらよいことだなと思う。

そんなわけで〆ようと思う。彼は1886年に生まれたので、今年で生誕138年となる。12年後の生誕150年にいろいろ催しがあったら素敵だなあ。

 

*1:ちなみにリバイバル上映された際に日本人富豪の設定はビルマ象牙王に変更されている

*2:映像の34:30あたり