昭和62年2月13日1版1刷
①父への抵抗
②会社創立
③GMと離縁
④父の勘当宣告
⑤自動車メーカー創成期
⑥青春謳歌
⑦かけ出し社員
⑧天然ガス車開発
⑨社長に就任
⑩戦後の出直し
⑪英文タイプ輸入
⑫GM車販売再開
⑬失意の日々
⑭初の渡米
⑮VW・ベンツを扱う
⑯父の最期
⑰父をしのぶ
⑱ハワイにビルを計画
⑲アニメ・プロを設立
㉑娘の結婚
㉒航空機、温室を販売
㉓母逝く
㉔VW・日産提携の余波
㉕後継者へ
・明治12年12月15日群馬県生まれ。慶応大学本科を卒業後、梁瀬の芝浦工場に勤務し、庶務係を命じられた。終戦直前、父から会社の閉鎖も考えているが、跡を継ぐ気持ちがあるなら社長を譲ると言われ、売り言葉に買い言葉で会社経営を引き受けることになり、昭和20年5月30日梁瀬自動車工業の株主総会で社長に選任された。就任翌日、代表取締役会長から社長兼営業部長兼芝浦工場長の命を受けた。終戦後、タイプライターを輸入すれば売れると踏んで梁瀬貿易を設立したが、こちらの社長は解任されてしまい、呆然自失となった。事件の経過と共に貴重な勉強をさせてくれたと思うようになる。井上治一氏を顧問に招き、9年間傍で私を見守ってくれた。日本橋から駐車場スペースが確保できる芝浦に本社を移し、昭和25年からヤナセストアに衣替えし、アメリカ本社に渡りGM本社に通い、日本のGM事情を理解してもらった。今日のヤナセはベンツ、VW、GM車が三本柱となっているが、VW、ベンツと手を結ぶまで様々な障害があった。父の反対を押し切り、GMの担当重役から、生き残るためにはVWとベンツの取り扱いを認めて欲しいと交渉して承認を獲得した。父が食道がんで亡くなる直前、父から会社を潰しても構わない位の気持ちで前進せよと言われた。日興証券の遠山直道君(元副社長)、牛尾次朗君(ウシオ電機会長)、瀬木庸介君(元博報堂社長)の4人で大きな海外プロジェクトを目指すことにし、更に7名の参加を募り、㈱パシフィックイレブンを設立した。後にプロジェクトは中止になったが、目論見通りオフィスビルはすぐに満室になった。遠山君から株式公開を進められ、準備を進めたが、遠山君が不慮の事故で亡くなり、上場を断念した。42年に西独アウディ全車種の日本総代理店となり、44年には現在の㈱ヤナセに社名を変更。昭和55年日産自動車と西独VWが提携すると発表。前もって何の話も聞いてなかったので以後サンタナを売ることは拒み続けた。59年にサンタナをヤナセの販売網で販売することに方針転換し3年余の確執に終止符を打った。経営者が一番身につけるべきは徳である。(昭和60年12月よりヤナセ会長)