西武池袋線で池袋駅から約40分、入間市駅から歩いた一角に、アメリカの郊外のような街があるという。なぜ、突然、アメリカンな街が出現したのか。実際に訪れて街の成立ちや、どんな人が暮らしているのか、インタビューしてきた。
入間市駅からけやき並木の道を歩いて15分ほどの場所に、突然現れる白い平屋建ての住宅街。アメリカのような街並みから、「ジョンソンタウン」と呼ばれているこちら、平日でもカフェや雑貨店などを訪れる人でにぎわいをみせている。周辺には狭山茶の茶畑もあるようなのどかな街なのに、どうしてこの一角だけ異国の香りがするのか。
「一般には、かつて米軍住宅があったから、といわれることが多いのですが、実はそれだけではありません」と話すのは、ジョンソンタウンを管理する磯野商会の磯野達雄社長。
そもそものはじまりは、磯野社長の父親が、昭和初期に広大な農園を取得したことにあるという。というのも、当時の入間は製糸会社の工場があり、女性従業員(いわゆる女工さん)用の食料を調達する農場が広がっていたのだ。しかし、おりからの不景気で製糸会社は土地を手放し、磯野社長の父親が農園経営をすることに。
「ちょうどそのころ、近くにできた日本陸軍の航空士官学校の要請で、将校とその家族が住むための団地を建設することになりました。当時は磯野住宅といって高級住宅街だったそうです」(磯野社長)。
太平洋戦争が終わると、農地解放政策のため農地はすべて小作農家の手に渡り、磯野家に残されたのは、「磯野住宅」のあったわずかな土地に。また、旧航空士官学校の飛行場は米軍基地となった。この米軍基地が、その名も「ジョンソン基地」という。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、この米軍のジョンソン基地は最前線基地となり、アメリカ本土から多くの将校や軍人、家族がやってくることになったが、住宅が足りない。そのため、基地周辺の地主は米軍に協力して、アメリカ仕様のハウスを建設したのだという。これが現在の「ジョンソンタウン」のもとになる「米軍ハウス」だ。
しかし、朝鮮戦争が休戦をむかえると入間基地も縮小・返還され、次第に米軍ハウスに日本人が暮らすようになるが、老朽化。高度経済成長期の住宅建築ラッシュもあり、入間にたくさんあった米軍ハウスは次々と取り壊され、アパートなどになっていく。気がつけば米軍ハウスが残っているのは磯野住宅があった場所のみだったが、「放置され、本当に荒れ果てていた」(磯野社長)住宅街になってしまったのだとか。
荒れた住宅街を見て心を痛めた磯野社長は、「小さいころ憧れた米軍ハウスを壊すまい!」と決意、残された住宅を全面的に改修して、新たな街をつくろうと決めた。これが1996年のことだ。
【図1】テラスで車を手入れする住民の姿も。ショップ以外は個人宅のため、写真撮影は基本的にはNG
しかし、ボロボロになっていた米軍ハウスの再建は難題ばかり。「更地にして新築するほうが圧倒的に安いし、早い」(磯野社長)という状態。試行錯誤のすえ、都市計画に造詣の深い建築家の渡辺治氏の協力を得て、米軍ハウスはすべてリノベーションし、老朽化した日本家屋は解体して米軍ハウスのコンセプトにそった住宅を建てる方針を決めた。この建物は平成建築のため「平成ハウス」という。その第1号が完成したのは、2004年のことだ。
「第1号住宅の家賃設定は、周辺相場の1.5倍。周囲からはバカとまでいわれました」(磯野社長)。しかしフタをあけてみれば、その心配も杞憂に終わり、「ここに住みたい!」と移住してくる人が続出。首都圏だけでなく、関西や遠くは英国からも問い合わせが来たこともあったという。
そして、街はいつしか「ジョンソンタウン」と呼ばれるようになり、現在は米軍ハウス24棟、新築した平成ハウス35棟、古民家7棟などに約130世帯が暮らす、美しい住宅街がつくられている。
では、住んでいる人はどのような人なのだろうか。
「まず、クリエイターが多いですね、デザイナーに写真家、文筆業に音楽家もいます。ダンススタジオやアトリエなどもありますよ。もちろん、都心への通勤圏なので会社員もいますね」(磯野商会・磯野章雄所長)。
また、リノベーションが進むとともに、カフェやショップ、スタジオが増えてきたため、商業施設としても注目されるようになり、周辺住民や遠方から訪れる人も多くなったのだとか。
住宅は賃貸のみだが、相談すれば自由に改装できるし、ペットとともに暮らせるので、住人の多くが「自分らしい暮らし」を満喫しているという。広い庭には緑が濃く、家と家との間に塀がないので住人の交流も盛んで安心感もあるとあって、「子育て環境として最高だといわれます」(磯野章雄所長)。ちなみに2013年4月現在でも平成ハウスで住人を募集している。
「街路樹やパブリックスペースのメンテナンス、街並みを維持するには手間ひまもかかりますし、タウンの美観維持には住人の協力も重要とあって、苦労や悩みはつきません。それでも古いものを残して、ジョンソンタウンならではの価値をアピールできれば」と磯野社長。”埼玉にあるアメリカの街”は、実は入間の歴史を凝縮した一角でもあったのだ。
【画像2】街角におかれたドラム缶も、どこかアメリカ映画の小道具のよう