『コシャマイン記|ベロニカ物語 鶴田知也作品集』(講談社文芸文庫)"Koshamain Chronicles" | "The Story of Veronica" : A Collection of Works of TSURUTA TOMOYA. (Kodansha Bungei Bunko) 読了

https://cv.bkmkn.kodansha.co.jp/9784062900447/9784062900447_w.jpg講談社文芸文庫の現代アイヌ文学を借りた時、いっしょに借りた本。

解説は同じ川村湊

年譜作成は小正路淑泰。

デザイン=菊地信義

コシャマイン記 - Wikipedia

鶴田知也 - Wikipedia

看護師さんに「何の本ですか」と聞かれたので、「戦前に直木賞をとった人の小説で、ほぼほぼこれ一冊の人」と言いましたが、あとでよく見たら直木賞でなく芥川賞でした。しったかしちゃった、てへぺろしても独り。第三回なので、これ以後どんどん芥川賞もハードル上がったと思いますが、鶴田サンは後生大事にこれで一生食っていった。

鶴田サンは別にどさんこというわけでなく、筑豊の人で、戦前なので別に閉山とか関係なく北海道に行ってみて、アイヌや苛酷な北の農業を知り、その後半島にも行ったようで、解説の川村サンはアイヌと朝鮮の二重写しについても書いてますが、本書にそういう作品は収録されてなく(そもそも半島を書いたのかどうか私は知りません)その後もときどき北海道には行っていたようですが、別に定住したわけでなく、下高井戸シネマのある世田谷の赤堤、疎開で秋田、戦後帰郷して東京ジャーミィのある代々木上原の西原なんかに住んだみたいです。帰京後に何回も何回も秋田で選挙に出てことごとく落選してます。秋田から選挙に出るんなら秋田に住めばよかったのに。晩年は江古田に移住して、1988年、86歳肝不全で逝去。大往生ですね。

bookclub.kodansha.co.jp

なので、こういう文学は「北方文学」というジャンルになるんだとか。うまいこと言うなと思いました。幸田露伴『雪粉々』*1には川村サンも触れてるんですが、北方文学かどうかまで書かず、しかし宮本百合子『風に乗って来るコロボックル』は、たぶん同ジャンルとして意識して解説に書いてるのかなと思いました。立風書房の北海道文学シリーズでも、バチェラー八重子サンや違星北斗サン、鳩沢佐美夫サンらのアイヌ文学とコシャマイン記、風に乗って来るコロボックルは同じ巻に収まってます。

コシャマイン昭和11年(1936年)2月「小説」発表 "Koshamain Chronicles"

Batalla de Koshamain - Wikipedia, la enciclopedia libre

コシャマインの戦いのコシャマインの名を付けられ、英雄となることを宿命づけられた男が、もうそういう時代でなく終わってしまう話。邱永漢サンが邦人の中国ビジネスの本を書いたとき、在華邦人の詠んだ川柳「騙されてまた騙される日本人」があんまりウマいのでそのまま本の題名にしたことがありますが、その日本人に「騙されてまた騙されるアイヌウタリ」(アイヌ ウタリ パカリ カンナ アイヌ ウタリ パカリ ランラン)とうことになるのかなあ。

頁39

俺達がオロッコ族よりも強いように、日本族は俺達よりも強いのだ。(略)最早や同族の運命は、オロッコ族よりも惨めであろうよ。

「~族」表記はやめてほしかったと思う箇所。日本族ってのはおもしろかったですけど。オロッコってのは、ウィルタアイヌ語だとか。

ウィルタ - Wikipedia

頁31に「満州錦衣」と書いて「マンチュコソント」とルビが振られていて、環日本海貿易キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! と思いました。でもこれを検索しても本書しか出ません。

ペンケル物語昭和8年(1933年)9月「レフト」発表 "The Penkel Story"

大和民族アイヌの戦いの話はやりきれないのでもう書くのをやめたのか、凶暴な熊とアイヌの戦いの話にシフトしてます。とにかく村を襲って人を殺しまくる熊。でも発表はこっちが先。リミッターがかかって熊の話にしてまず世に出し、次にセオリー「人間がいちばん怖い」を出したのか。

リピカベツの駅逓昭和13年(1938年)10月「中央公論」発表 "The Bureau of Communications in PIRKA PET"

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/Japan_prov_map_Iburi.GIF/450px-Japan_prov_map_Iburi.GIF

後志(しりべし・小樽や積丹半島など日本海に面した北海道西部)と胆振(いぶり・イーヴリン・ウォーとは無関係。室蘭や白老など、太平洋に面した北海道西部)のあいだを抜ける道路の国境にある辺鄙な宿場の老夫婦の物語。

後志国 - Wikipedia

胆振国 - Wikipedia

彼等は尾張士族で、何故か西南戦争で南洲公勝利の暁にはともに上洛して政権奪取を夢見ていたが、そういうこともなかったので蝦夷地開拓を組織的に敢行し、銀山経営を試みたりしましたが山師に騙されて武士の商法で一刀両断に切り棄てて刑務所に入ったりしたのでうまくいかず、最後はひっそりと裏街道の交通の要衝でドライブインを営むようになったということです。

なので、お爺さんは我流の漢詩を作るのが趣味で、例えば下記です。

頁102

生葬蝦州東又東 sheng1    zang4    xia1    zhou1    dong1    you4    dong1

劉犂一柄遠相従 liu2    li2    yi1    bing3    yuan3    xiang1    cong2

清痩残骨宜埋処 qing1    shou4    can2    gu3    yi2    mai2    chu4

氷雪数尋山万重 bing1    xue3    shu4    xun2    shan1    wan4    chong2

「重い」でなく「重ねる」なので平仄が合ってるってことなのかなあ。「処」も軽声かもしれないし。

頁102

老楓古柏昼不晴 lao3    feng1    gu3    bai3    zhou4    bu4    qing2

怪禽礫々入雷鳴 guai4    qin2    li4    li4    ru4    lei2    ming2

血痕与雪消無跡 xue4    hen2    yu3    xue3    xiao1    wu2    ji1

猶聴狂風折木声 you2    ting1    kuang2    feng1    zhe2    mu4    sheng1

「鳴」を"mi"だと思ってましたが、ちがった。

近体詩 - Wikipedia

ポプラの墓標昭和14年(1939年)7月「若草」掲載 "The Grave Marker of Poplar"

開拓民一世が死期を察して集落の各戸を尋ね、そのまま亡くなる話。次世代の農業である酪農や、そのための資金を連帯で組合から借り入れることなど、自分の頭で咀嚼出来ないことへの不安はあれど、もう次代の子や孫に任せるしかないという心境を描く。

頁105

 昔話に限らず、若い頃から彼は無口な男だった。それでいて、人の話を聞くのが何よりの楽しみで、誰かが話している間は、その緑色の眼(こんな目を北海道ではよく見かける)を細くし、口を箪笥の抽手みたいな格好にまげて、絶えず微笑しているのであった。

緑色の眼だったら髪も黒くないだろうと思うんですが、どうでしょう。トコタンという地名で、トコタンは沼のほとりのコタンというくらいの意味らしく、あっちこっちにあるみたいです。

常滑市キャラクター「トコタン」プロフィール|常滑市

ナンマッカの大男昭和16年(1941年)10月「公論」発表 "The Enormous Man of Yam-wakka-nay"

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Bertall_-_Peter_Munk_und_der_Hollaender-Michel.jpg/440px-Bertall_-_Peter_Munk_und_der_Hollaender-Michel.jpg川村湊サンによると、鶴田サンの小説は、フォークナーの小説が米国ミシシッピー州にありげなヨクナパトーファ郡*2を作品世界とし、莫言が中国山東省高密県を舞台とし、大江健三郎サンが日本の四国の愛媛、中上健次サンが日本の近畿の紀の川を舞台にしたように、北海道道南の八雲町周辺を舞台にした“八雲サーガ”と呼べなくもない作品群であるとしています。

八雲の町並と太平洋 -アイヌモシリとふたつのうみ - 八雲町

確かにそう見ると、『コシャマイン記』『ペンケル物語』は江戸時代の当地、『ポプラの墓標』のトコタン、『ナンマッカの大男』のナンマッカ(南満河)、『ベロニカ物語』のユーラ(游楽部)は八雲なので、八雲サーガなのかなあと思わなくもないですが、『ニシタッパの農夫』のニシタッパがさっぱり分からず(オッテナ川の上流左岸の台地というが、オッテナ川じたい分からへんだ)『ピリカベツの駅逓』のピリカベツは八雲じゃないですし、『摩周湖』は道東、『和蘭豆百害之事』はエトロフ島なので、ほかにもっと八雲の話がないと、ワインズバーグ・オハイオ*3とか、海炭市叙景*4みたいな感じにはならないんじゃんとも思いました。海炭市も北海道ですよね、函館デルモで。

で、この話ですが、ナンマッカに巨人が住んでいて、山に入った人間相手に取引をする、という寓話ではないです。ぜんぜんない。ないんですが、ハウフ『冷たい心臓』*5のおそろしいオランダ人の大男、ミヒェルを思い出したので、巨人をジャイアントとかビッグマンにしないで、"enormous"で形容しました。

頁121

『一、御当家農場内山手、官有地トノ境地付近ニ工藤清右衛門ト申先住者一戸有之候。主人ハ和人ナレドモ妻まつハ口辺ニ入墨アリ、あゐの人カト見受ラレ候。(当地海浜ノあゐの人ノ身内ニテハ無之由)一男三女アリ。農業一途ニテ永年生計ヲ営ミタレバ、風害寒威堆雪ニ妨ゲラルヽ事ナキヲ推知ス可、作物ハじやがたら芋、唐黍、粟、稗、豆其他蔬菜類ニ有之、見事ナル作柄ニテ虫害等モ不見受申候。

こういう大男が住んでいて、上では奥サンはアイヌ人ということになってますが、臨終に際して死に顔を見た人が入墨なんてなかったと言ったり、情報は錯綜しています。近隣のアイヌ集落とはつながりのない女性だったとか。で、ここで、「あゐの族」でなく「あゐの人」になってることは是非特筆しておきたく。これが日本語です。トライブの意味の「~族」なんて、そんな簡単に使わない。

本書ではナンマッカとなってますが、八雲町のホームページでは正しくはヤカナイとしているので、"The enormous man"の後ろのアルファベットの地名はヤカナイにしました。後ろがカ行なので、ヤカナイでも発音同じなんですけどね。ハングルでビールの意味のメチュ「맥주」の発音を学習する時、「サウジアラビアのメッカ」と発音してみて、後ろがカ行の時の促音は自然に「」になっていることを実戦で学ぶんですが、それと同じことで。

ニシタッパの農夫』昭和16年(1941年)10月「週刊朝日」掲載 "The Farmer in NI-US-TAP"

頁153「オッテナ川上流の、最初の滝のやや下手に当る左岸」の台地が「ニシタッパ」らしいのですが、まず「オッテナ川」が分からなかった。

八雲町のホームページを見ると、ちゃんと「オッテナ川」というのがあって、漢字名が「乙名川」とあるので、これだ、楽勝、と思ったのですが、そこから先がサッパリで。

オトナ川の伝説 -アイヌモシリとふたつのうみ - 八雲町

鶴田知也記念碑の場所もグーグルマップで出ないという。

www.jalan.net

で、乙名川でなく「音名川」だとグーグルマップ等に出てくるので、それかっ、と思うことにしました。

遊楽部川水系音名川 | 流域の自然を考えるネットワーク

でももう護岸工事とかいろいろやってるので、どこが最初の滝かとか分からんちん。当然、その流域の「ニシタッパ」も分からないです。だいたい、「ニシタッパ」という単語を探そうとしても、「ニシパ」ばっかり出るので、探しにくいことおびただしい。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/hgs1951/1954/22/1954_101/_pdf/-char/ja#page=3

錦岡(にしきおか): 旧錦多峰(にしたっぷ)「ニシ・タッパ」 木がいたむ。風が強いからである。上1字に岡をつけた。

ところが何故か、北海道地理学会会報 No.22 1954年4月のガリ版刷りのpdfが出て来て、そこの森寿美衛サン「北海道の地名」なる小論に「ニシ・タッパ」なる地名についての考察がありました。錦岡とか錦多峰という漢字が充てられているとか。ヤッタ!!

錦多峰公園[種別:近隣公園]|北海道苫小牧市

錦多峰浄水場について|北海道苫小牧市

国土交通省北海道開発局室蘭開発建設部 錦多峰川

https://www.hkd.mlit.go.jp/mr/tomakomai_kasen_keikaku/tn6s9g0000001ci7.html

で、出るのは苫小牧とか室蘭ばっかでしたが、それでも同じニシタッパだべとしつこく探しました。

錦岡駅 - Wikipedia

その原義について、アイヌ語研究者の永田方正は「樹木収縮する処」としたが[9]、これについて山田秀三は「例の少ない地名でよく分からない[10]」として、「ニウㇱタㇷ゚(ni-us-tap」(木・多い・山)からという解釈を試案として示している[9]。

そして室蘭本線ウィキペディアで、森寿美衛サンと同じ解釈を永田方正サンという方がしているのを、山田秀三サンという方がさらに別案を出しているところまで見て、もうこれ以上無理だと検索を打ち切りました。要するに英題のアルファベット表記が知りたかっただけなので、"ni-us-tap" でいいやと割り切りました。

頁155「柾葺屋根」(まさぶきやね)茅葺屋根でなくまさぶき屋根が北海道のデフォルトなんだなと思いました。

ameblo.jp

北海道では昭和35年頃までは殆どの家が柾屋根でしたが


それ以降、板金屋根に変わっていきました。 
    
 全国でも柿葺きの職人が少なくなっています。


北海道には残念ながらいません。

八雲サーガは、北海道農業の転換点に立ち会った鶴田サンの知見が徐々に徐々に読者に浸透する構成になっていて、それは、酪農併用農業に取り組むことによって、牛糞を肥料として活用し、北の大地を肥沃化しようというもの。この話は、かなりそれが感動的に語られます。鶴田サンは北海道常駐者でないのですが、この話では、あたかも一帯の無医村の中でひとりだけ住んでいる医者であるかのように書いてます。往診で長距離移動をものともしなくても、時間がかかるので、たどり着いたら患者は冷たくなっていたとか、そういうことの繰り返し。

頁156

 僕の驚いたのは、そんなことよりも、その小男の答えがいかにも的確で、応急の処置などもまず手際よくやっていることだった。

 腰が痛んでも、脚がはれても、そこに『ガッチャキがついた』というその地方の農夫達の間では、全く珍しいことだった。

ガッチャキといえば違星北斗サンの歌集ではアイヌ語で「痔」を意味することばということになっていたのですが、大和民族社会が現地土俗化するに従って、どんどんことばも変容していったようです。「チャランケ」なんて本当にそうだ。口先三寸から転じて挑発の意味になっているとは、全く想像出来ませんでした。

標津町役場 / 標津町百科事典 / 標津の方言

チャランケ

2.意味, 言いがかり、文句、「チャンつけられた」とも言う。

 3.用例, 夕べ飲み屋で「ちゃらんけ」つけられた。

ベロニカ物語昭和14年(1939年)7月「月刊文章」発表 "The Story of Veronica"

Yu-rap川、ユーラ川、游楽部川流域の物語。八雲サーガの集大成でしょうか。

頁169「霽れる」と書いて「はれる」と読ませてます。「晴れる」と書かない理由は分かりません。この話ではルビが振られてないのですが、『摩周湖』では振られている。

頁172

『酪農業は、農民を否応なしにインテリゲンチャにし、インテリゲンチャを容易に農民にする』

これが鶴田サンの到達した近代農業の極北と思います。それから半世紀経って、荒川弘は『百姓貴族』を描きましたと。酪農も、この頃とは異なって機械化され、さらには生き物相手なので1年365日休みなしの重労働なので、牛糞が有償になるのは悔しいけれど、高齢化等で酪農続けられなくなって廃業する話は、職場の北海道出身者の人から、聞く話です。これが21世紀。

この話に出てくる農民の眼の色は、金色です。まあ、鳶色かな。『ポプラの墓標』の緑色の眼は「うそくせえ」と思ってしまいましたが、金色の眼なら、分かる。

en.wikipedia.org

外来種だけれども、ひっそりと北の大地に満ちてゆく、小さな花。

摩周湖昭和12年(1937年)「若草」掲載 "Lake Mashū"

コタンの若者に慕われる教師は、アカの嫌疑を受け、赤紙も来そうなので、逃げ回っているという話。自動車で摩周湖を観光するので、最初戦後のはなしかと思ってしまいましたが、そういう展開で、やっと時代を理解。鶴田サンは1988年に86歳で逝去したわけなので、戦後もそれなりに作品を発表したはずですが、本書収録の作品はすべて戦前のもの。一生第三回芥川賞受賞の威光で生きたわけでもないでしょうから、戦後に見るべき小説を書いていたかどうかも、ちょっとこの構成(戦前戦中オンリーの収録)だと気になってしまいます。

和蘭豆百害之事 ー安政丁巳四年エトロフ島シャナ番所詰『神垣四郎太覚書』より

昭和13年(1938年)9月「文筆」掲載

"The Hundred Harms of Dutch Beans - From "Kamigaki Shirōta's Memorandum" by the Shana Guard Post on Etorofu Island in the 4th year of the Ansei (1857)Fire and Snake. "

他の作品は1970年12月刊『鶴田知也作品集』新時代社が底本なのですが、これだけ學藝社『自然と愛』1942年1月が底本です。南蛮渡りの珈琲豆服用で眠れなくなった藩士古賀源之丞が夜な夜なアイヌ集落に夜這いに訪れ、度が過ぎるのでアイヌ青年が袋叩きにしようとすると抜刀切りつけ、後をつけた神垣四郎太が抜刀詰問するに及んで「忽ち潔く屠腹」し、神垣四郎太はこれを介錯、首を刎ねたのであった。

おそらく『コシャマイン記』のオチと対をなす構成になるのでこの話を入れたのでしょうが、なんとなく唐突だなあとも思いました。八雲サーガの松前藩から択捉島まで、思えば遠くへ来たもんだ。

ここまで来ると、宮本百合子『風に乗って来るコロボックル』なんかも読んでみた方がいいんでしょうね。以上