ウェブ1丁目図書館

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東国武士団にとって源頼朝は利用価値があった

源頼朝が、平家討伐のために挙兵したのは、父義朝が平清盛に討たれたことの敵討ちや後白河法皇が権勢を振るう平家が邪魔になって源氏に討伐させようとしたことに味方したためと考えられがちです。

しかし、そういう面はあったかもしれませんが、それが、頼朝の挙兵の大きな理由ではありません。頼朝は、東国の武士たちの利益代表者として挙兵したのです。いや、東国の武士たちに担がれて挙兵したと言った方が実態に合っているかもしれません。

鎌倉武士は早まらない

作家の永井路子さんの著書『相模のもののふたち』は、頼朝と挙兵した武士たちを相模に焦点を当てて紀行風に書いた作品です。当時の武士たちが暮らしていた地域に足を運んで、ゆかりのお寺などを訪れ、仏像や供養塔を実際に見て、当時の鎌倉武士に思いを馳せ、その中で彼らがどう生きてきたのかを独自の視点とともに説明しています。

永井さんは、治承4年(1180年)の頼朝の旗揚げを東国武士団のクーデターだったと捉えています。そして、クーデターの中心となって活躍したのが、三浦半島の三浦一族だったのだと。

頼朝は挙兵して間もなく、石橋山の戦いであっけなく敗れます。頼朝に従っていた武士たちは、全員自害して果てたかというと、そんなことはなく、敗走し再起を図ります。

三浦義明もまた、戦いに敗れたからといって直ちに一族全員で自害の道を選びませんでした。彼は、すでに90歳近い年齢だったので、これ以上は戦えないと覚悟を決めますが、一族にはここで死ぬことを許しませんでした。急いで死ぬのは犬死でしかない。敗走した頼朝を見つけ出し、全力で戦うために生き延びるのだと。

戦うだけ戦ってパッと散るものだとする玉砕精神は、当時の東国武士団にはなく、一度の負けで全てを失うような考え方は持っていなかったようです。

既成の権威からの脱出

当時の東国武士団が、玉砕精神を持っていなかったのは、頼朝の挙兵に参加したのが、彼らの権利を守ることにあったからです。

自分の所領を守るためには、中央の権力者に頼り、そのお墨付きを振りかざして少しでも有利に事を解決しようと図っていましたが、頼朝が挙兵する頃になると、それは、結局、中央の高官のいうなりになることだと気づき始めます。自分たちの権利を守ろうとするなら、新たな秩序を作り出さなければならない。そのために頼朝を担ぎ、東国に一大勢力を築き上げ、中央に対抗するのだと東国武士団は考え始めたのです。

当然、担がれた頼朝も父の敵討ちだなんて言えたものではありません。彼の存在意義は、東国武士団の利益のためにあったと言っても過言ではなかったでしょう。既成の権威からの脱出。これこそが、東国武士団が見つけ出した頼朝の利用価値だったと言えそうです。

権利を守るために源平双方に賭ける

頼朝の挙兵に参加した武士もいましたが、反対に平家に味方した武士もいました。既成の権威のもとで利益を守ろうとする者たちは、平家に味方します。

源平どちらが勝つかわからない状況でも、家が残るように知恵を絞った武士もいました。それが、大庭景義と影親の兄弟です。源平盛衰記では、平家に義理がある影親は平家に味方し、景義は源頼朝に味方したことが描かれています。景義は、どちらが勝つかわからないが、もし、平家が勝った時には影親を頼るから良いようにしてくれと言い、また、源氏が勝った時には自分を頼るようにと言います。

これなら、源平どちらが勝っても大庭の家は残ります。同じことは、関ケ原の戦いの前に真田家でも話し合われたとされています。父の昌幸は西軍に味方し、子の信之は東軍に味方したことで、最終的に東軍が勝った後も真田家は生き残りました。真田家の話の方が有名ですが、頼朝の挙兵の時には、すでにこのような考え方が存在していたことが源平盛衰記からうかがわれます。


東国武士団は、やがて平家を滅ぼし、頼朝を将軍として鎌倉幕府を開きます。それは、武士の世を築き上げたというより、東国武士団が自分たちの土地を誰にも文句を言わせず所有する権利を手に入れる仕組みを作り出したと言った方が実態に即しているでしょう。しかし、その東国武士団も、幕府内の権力争いに敗れて散っていき、北条氏が権力を手にすることになるのですが。

東国武士団にとっては、担ぐ人物は誰でも良かったのでしょう。ただそこに流人の頼朝がいたから担いだだけで、他に適当な人物がいたら、そちらを担いで中央の権威と張り合っていたのかもしれません。