「細川晴元」細川京兆家内乱の最中に生まれ、生涯を権力争いに費やす
- 2020/01/24
室町幕府の管領は当初、斯波・細川・畠山の三家(三管領家)が持ち回りで務めましたが、応仁・文明の乱以降、細川以外の二氏は急速に勢力を失い、細川家が独占するようになりました。12代目の当主・細川政元の時代はまさに細川京兆家(宗家)が将軍をしのぐ最高権力者として君臨した時代です。その猶子であり、政元に後継者として認められていたのが、細川澄元です。その嫡子である細川晴元も順当にいけば細川京兆家の当主として権力を握ることができたのでしょうが……。
今回は将軍家と細川家がそれぞれ複雑に絡み合う内乱の真っただ中に誕生し、生涯の大半を権力争いに費やすことになった細川晴元(ほそかわ はるもと)についてみていきます。
今回は将軍家と細川家がそれぞれ複雑に絡み合う内乱の真っただ中に誕生し、生涯の大半を権力争いに費やすことになった細川晴元(ほそかわ はるもと)についてみていきます。
両細川の乱の最中に誕生
細川京兆家の内乱
晴元がまだ生まれる前、当時の中央政権の権力者だった細川政元は独身を貫いたために実子がいませんでした。そこで澄之(摂関の九条家出身)、晴元の父である澄元(阿波細川家出身)、高国(細川野州家出身)の3人を養子に迎えます。政元は澄之を廃嫡し、一応澄元を後継者と定めていましたが、結果的にこの状況は争いの火種に…。永正4年(1507)に政元が暗殺されたことをきっかけに、養子間で家督相続争いが勃発するのです。
一時は当主の座にあった澄元。永正の錯乱と呼ばれたこの後継者争いは約1年の間にめまぐるしく変化しました。「澄元 ⇒ 澄之 ⇒ 澄元 ⇒ 高国」というように、最終的に京を押さえたのは周防の大内義興や前将軍の足利義稙と手を結んだ高国でした。
以後、「両細川の乱」と呼ばれる細川家の長期の権力争いがはじまり、澄元は京都の奪還に向けて高国派に挑む展開となります。
ちなみに両者の対立構造は将軍職をめぐる足利氏の争いなども絡んでいて、とても複雑なものとなっています。詳細は省略しますが、以下、「両細川の乱」がはじまったころの対立構図を整理してみましたので参考までに。
◆ 高国派
- 細川高国
- 足利義稙(前将軍)
- 大内義興
VS
◆ 澄元派
- 細川澄元
- 足利義澄(11代将軍)
- 三好之長
父が没し、7歳で家督相続
こうした細川宗家の争いが真っただ中だった永正11年(1514)、晴元(通称・六郎)は誕生しました。父澄元と高国との権力争いは長い間続き、澄元は永正17年(1520)に一時的に政権を手にするも、まもなくして敗れ、同年中失意のうちに阿波で死去。父の死にともない、晴元はわずか7歳で家督を相続するのです。高国を破ったのち、堺公方政権誕生
高国は将軍・足利義稙を追放して義晴を擁立し、管領となって全盛期を謳歌していましたが、父の代から散々やられまくった晴元は阿波で虎視眈々と反撃のチャンスをねらっていました。好機は、大永6年(1526)に訪れます。高国の重臣・香西(こうざい)元盛と細川尹賢(ただかた/高国の従兄弟)が争い、高国が尹賢の讒言を信じて元盛を殺したのです。この出来事がきっかけで、元盛の兄弟の波多野稙通(たねみち)と柳本賢治(かたはる)は高国に叛いて挙兵。
晴元はこの高国方の混乱をチャンスと見て、阿波で三好元長らとともに挙兵しました。
桂川原の戦い
晴元と高国の対立は、細川京兆家の家督をめぐる内乱ではあるものの、戦いはそう単純ではありません。高国は管領として義晴を担いで官軍の立場を利用しています。ならば、と晴元ら阿波勢は、大永7年(1527)に11代将軍・義澄の子・義維(よしつな)を時期将軍として担ぎ、堺へ上陸。そのままの勢いで京へ入りました。
以下、このときの対立構図です。
◆ 高国派
- 細川高国
- 足利義晴(12代将軍)
- 武田元光
VS
◆ 晴元派
- 細川晴元
- 足利義維(のちの堺公方)
- 三好政長
- 三好元長
2月12日の夜、両軍は京都桂川原でぶつかりました。高国は自軍と、応援の若狭守護武田元光の軍で迎え撃ちましたが、晴元方の阿波・丹波勢はこれを撃ち破って高国と将軍・義晴を近江へ追いやります。
堺公方政権の誕生と仲間割れ
晴元は義維を奉じて3月21日に堺へ入りました。これがいわゆる「堺公方政権」の始まりです。しかし、このまま義維を将軍にして安泰か、と思いきや、また内部で争いが起こります。三好元長は、このまま義維を将軍として、晴元と高国を和睦させたうえで細川京兆家の統一をめざそうと考えた一方、柳本賢治は高国を排除し、将軍・義晴のもとで晴元を細川京兆家のトップにしてやっていこう、という考えだったのです。
従来はこの対立は単なる内輪もめと考えられてきましたが、「義維・晴元 VS 義晴・高国」という単純な二項対立ではなく、将軍と細川京兆家をどう統一させるか、という意見の対立が第一にあったわけです。
元長は高国との和睦を調整しますが、柳本賢治と三好政長は反対。晴元も反対派でした。管領の座さえ手に入れば、将軍は別に義晴でもよかったのです。
賢治は義晴と義維・晴元の和睦に動きますが、うまくいかず……。享禄3年(1530)、そうこうしている間に賢治は高国の刺客に殺されてしまいます。翌享禄4年(1531)、再起をねらって挙兵した高国は、摂津方面を制圧し、河内守護代の木沢長政(畠山から晴元に鞍替えして被官していた)は防ぎきれずに京を脱出します。
困った晴元が助けを求めたのが、賢治の讒言で遠ざけていた元長でした。彼は晴元と不仲になって阿波に戻っていましたが、求めに応じて天王寺の戦いで高国を破り、広徳寺へ逃れた高国を自害に追い込むという大きな武功をたてたのです。
功労者の元長を排除するも……
長年の宿敵・高国を葬り去った元長は再び政権の中枢に戻ってきました。しかし、元長を喜ばない摂津の国衆らも多くいて、再び内部で対立が起こります。反元長派の中心となった元長と同族の三好政長、そして木沢長政らが晴元に讒言したのです。そうでなくとも、山城国守護代・河内国十七箇所の代官職など、強大な力を持っていた元長の存在に、晴元は危機感を抱いていました。なお、この時期の内部対立の構図ですが、主に摂津の国衆と阿波の国衆に色分けできるようです。
◆ 元長派
- 足利義維(堺公方)
- 細川持隆
- 三好元長
- 三好一秀
VS
◆ 晴元派
- 細川晴元
- 木沢長政
- 三好政長
- 茨木長隆
一向一揆を利用して元長を死に追いやる
こうした中、元長が柳本賢治の子で晴元家臣の一人、「柳本甚次郎」を自害に追い込みます。この後、元長は晴元の怒りを恐れて出家しますが、結局両者は決裂。元長は晴元との戦いを見据え、高屋城の畠山義堯、丹波八上城の波多野稙通、大和の国衆と手を結んでいます。
強大な元長軍を敵に回して困っていた晴元ですが、茨木長隆の妙案により、思わぬところから強力な援軍を手に入れます。それは一向一揆でした。
享禄5年(1532)、飯盛山城の木沢長政は畠山・三好連合軍に攻囲されて窮地に陥っていたところ、晴元は浄土真宗本願寺第10世法主・証如(光教)に依頼し、本願寺門徒を援軍として出兵させたのです。
元長は一向宗と対立する法華宗の大檀那であったのと、細川氏とは曾祖父以来の侵攻であったため、証如は「いいよ」と快諾。一向一揆の勢いはすさまじく、晴元は自らが動くことなく元長を敗死させることに成功しました。
一向一揆は鎮まらず
晴元は「うまくいった」と思ったでしょう。このときまでは。ところが、一向一揆は晴元、そして本願寺すら思いもよらない動きを見せます。一度走り出した一揆は止まることなく、勢いを拡大して奈良でも蜂起。本願寺のあずかり知らないところで、在地の門徒たちが次々と蜂起し、収拾がつかなくなったのです。
元長を殺害したのはいいものの、今度は一向一揆の鎮圧に奔走することに。鎮圧のため、一向宗の対立宗派・法華宗と連携して山科本願寺を攻めますが、これは事態を悪化させただけでした。
結局晴元だけではどうにもならず、本願寺との和睦を仲介して騒動を鎮めたのは、自身が死に追いやった元長の子・三好長慶でした。
短かった晴元政権時代
長慶を家臣にし、引き続き本願寺や、高国派の残党(高国の弟・晴国や養子の氏綱)との戦いは続くものの、晴元は天文3年(1534)にはじめて入洛し、将軍義晴も京へ。天文6年(1537)に右京大夫に任命され、管領としてやっと政権を手にします。晴元は最後の管領?
晴元は最後の管領とされていますが、管領になったという記録はありません。このころには、管領とは名ばかりの地位で、すでに形骸化していたとも言われます。実際、天文15年(1546)の義輝元服の際、烏帽子親を務めるはずの管領・晴元は加冠の役をしておらず、六角定頼が管領代として烏帽子親を務めました。三好長慶の反乱で近江へ逃亡
三好とはうまくいかない運命なのか……。晴元は元長の子・長慶との関係も徐々に悪化しました。大きなきっかけは、河内十七箇所の代官職です。もともと長慶の父・元長のものであったのを、死後は父の仇である三好政長が得ていたのです。
長慶は自分に与えるよう頼み、幕府も長慶の主張は正当だと認めますが、晴元は拒否しました。長慶はこのあともつかず離れず、晴元の家臣として働き続けますが、「政長を討伐してほしい」という声に晴元が耳を貸さなかったため、天文17年(1548)に高国系の細川氏綱と組み、離反。
江口の戦いで重臣の政長は討たれ、晴元と将軍・義輝は近江へ逃れる羽目に。ここに晴元政権は崩壊し、以後は三好長慶政権となります。
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往生際の悪い晩年
将軍も管領もいない京で、長慶は氏綱を擁して実権を握ります。それでも晴元はなお、反・三好の姿勢を貫き、ことあるごとに挑みますが、とうとう長慶を下すことはかないませんでした。天文21年(1552)、義輝が長慶と和睦すると、細川京兆家当主は氏綱に、そして晴元嫡男の聡明丸は長慶の人質として養育されることになります。
晴元は出家して心月一清と号しますが、翌年に再び義輝と長慶に亀裂が入ると、義輝とともに京都奪還をねらいますが、義輝・晴元の拠点である霊山城が落とされると、再び近江の朽木谷へ。
その後も諦めが悪く、ことあるごとにちょっかいを出しますが当主に立てた次男の晴之が敗死すると諦め、永禄4年(1558)にようやく長慶と和睦しました。以後は摂津の普門寺で隠棲し、2年後の永禄6年(1560)、長慶よりも先に生涯を閉じました。
晴元の評価
晴元は、丸っきり無能とはいえず、かといってすごい能力があった切れ者とはいいにくい、評価の難しい人物です。そもそも、幼くして当主に立った晴元は当初から自分の考えで動いていたわけではありません。天文2年(1533)に側近の可竹軒周聡が亡くなるまでは、周聡が実権を握っていたといわれるからです。
また、晴元の生涯を見ると、人を見る目がない、人の使い方が下手だ、と思えなくもないのですが、これは外的要因によるところが大きいかもしれません。
生まれたときから内乱状態で、細川京兆家はすでにそれまで築かれた秩序は崩壊していました。混乱の中で家督を継いだ晴元の側近は、京兆家の古参ではなく、新参の、本来は近習であるところの三好元長・長慶や、木沢長政らでした。
従来の家格秩序が欠落したことが、三好権力を培養する土壌になったのだ、と馬部隆弘氏は著書『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)の中で述べています。
晴元の周辺の三好長慶や、六角定頼の評価が高いぶん、相対的に晴元が低く見えてしまうのかもしれませんが……。
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【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)
- 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
- 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
- 今谷明『戦国三好一族 ― 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
- 長江正一著 日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)
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