たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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最近ニコニコ静画の通知で流れてきた漫画、当初はよくある異世界物かぁ~と思ってあまり食指が動かなかったんだけど、なんとなく読んでみた。そしたら謎の感動を覚えて、それどころか泣きたいような気持ちになってしまって、既刊の電子書籍も全部ぽちって、さらにその気持ちが強まるという体験をした。べつに「泣ける話」ではないはずなんだけど、泣けてくる。何故なのか。
その漫画のタイトルは「ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~」(作:瀬野反人)。現代人で言語学者のハカバ君(劇中ではもっぱら「センセイ」と呼ばれる)が、師事する教授の代理として「魔界」に赴いて現地でフィールドワークをする中で遭遇する、様々な出来事を描く作品だ。内容やテーマが似た作品としては、
などが該当するだろうか。
うっわーこれほんと他人事と思えないんですけど!!! 僕が2期生として入り卒業した後で学科自体がなくなってしまった大阪電気通信大学メディア情報文化学科の出身としては、こう、なんというか、胸に詰まる物がある。
ただ、僕自身そこまで大学に期待はしてなかったというか、それまでWeb標準がらみのやりとりで、高校生の自分よりその技術の事を知らない大人というのが世の中にいるのか!という事にある意味でショックを受けて、大人に訊けば何でも分かるとか、大学に行きさえすれば何でも教えてもらえるとか、そういう期待はもうできなくなっていたと思うのですよね。
とはいうものの、まだ何を自分が生きていく上での道に選べばいいのかは漠然としていたので、文字通りの人生勉強というか、何かしらの雑学知識が身に着けばいいなというか、自分の知らない世界に触れるきっかけだけでも得られたらいいなというか、そういう事には期待して大学に行ってはいたと思う。会社で毎日PCに向かって仕事してる今では、自分からどんどん動いていかないと新しい物なんて全然目に入ってこないなあ、いざ興味を持って知ろうとしてもどこから取りかかればいいのかさっぱり分からないなあ、という事を時々感じる。それを思えば、いろんなトピックが取り揃えられてて、選んで履修すれば最初の方から順番に教えてもらえる(どこから取りかかればいいのか教えてもらえる)という環境はとても恵まれていたのだなあと、改めて思う。
何度か同じ事を語ってる気がするけど、大学って「めちゃめちゃレベルの高い所に行ってそこでしか教われない事を学ぶ」か「そんなにレベル高くない所に行ってサクッと卒業に必要な単位を取ってあとは無駄に教養を深めたり学外で実践して経験を積んだりする」かのどっちかのスタイルで接するのがいいんじゃないかと思うのですよ。どちらにせよ自分からアグレッシブに動く必要があって、ただイスにボーッと座って話聞いて試験受けてっていうサイクルに乗っかってるだけでは、その時間は果てしなく無駄だろう、と。そんなにレベルの高くない大学で、学内で教われる範囲だけで閉じてるっていうのが、一番駄目なパターンだと思う。
竹熊健太郎氏はこうおっしゃっている。 <style type='text/css'>.bbpBox38837663356289020 {background:url(http://a2.twimg.com/a/1297446951/images/themes/theme8/bg.gif) #8B542B;padding:20px;} p.bbpTweet{background:#fff;padding:10px 12px 10px 12px;margin:0;min-height:48px;color:#000;font-size:18px !important;line-height:22px;-moz-border-radius:5px;-webkit-border-radius:5px} p.bbpTweet span.metadata{display:block;width:100%;clear:both;margin-top:8px;padding-top:12px;height:40px;border-top:1px solid #fff;border-top:1px solid #e6e6e6} p.bbpTweet span.metadata span.author{line-height:19px} p.bbpTweet span.metadata span.author img{float:left;margin:0 7px 0 0px;width:38px;height:38px} p.bbpTweet a:hover{text-decoration:underline}p.bbpTweet span.timestamp{font-size:12px;display:block}</style>
美大系大学に教える立場でいると痛感するのだが、教育者として作家 志願者に教えられるものは「知識」と「技術(方法論)」の2つしかないということだ。それ以前に「どんな作品を創るか」までは教えようがない。最初に創りたい作品のビジョンがない人は、そういう学校に行くべきではない。
美大でなくてもどこの大学だってそうなんじゃないかと僕は思うんだけど、ビジョンまで持った状態で大学に入ってこれるのが(というかそういう目的意識を持ったから大学に入ろうと思って入るというシナリオが)理想なんだろう。でも僕も含めてほとんどの人は、18歳時点でそんなはっきり人生の目標なんて持ててないんじゃないのかなーって思う。漠然と「高卒じゃ仕事なんてないんじゃないの……?」みたいな不安を持ってて、それでとりあえず大卒っていう資格を取っておきたくて大学に行くんじゃないのかなあ。
ビジョンなんて後から見つければいいじゃん、やってるうちに「これ面白いなあ、これを突き詰めたいなあ」って思ったらそれがその人の道になるんじゃないのかな。というのが僕の考えなので、別にビジョン持ってないからって大学に行ったらあかんとか会社に入ったらあかんとかまでは思わないんですよね。まあ美大だと「おまえそんなヌルい事言っとんちゃうぞコラ!!! 才能ない奴は死んでまえ!!!」くらいのノリになっちゃうのが当たり前なのかもなんですけど。美大の入学式で「この中の99%の人は芽が出ずに消えていきます。ここは、その残り1%の人を見つけて磨き上げるための場所です。」という感じの、お前らのほとんどは捨て駒だ的な演説があったとか無かったとかいう話も、どっかで聞いたか読んだかした気がします。
ともかく、危険なのは「大学に行けば何でもある」って思っちゃう事なんだと思う。大学には何があるのか、っていう事だけじゃなくて、大学には何が無いのか、っていう事も、これから大学に進学しようかという年の子には教えてあげて欲しいものです。……まあ、本当にその事を理解しなければいけない、視野が狭い状態になってる人(過去の僕のような人)ほど、言われてもその言葉の意味などきっと理解できないのでしょうけれどもね。
実に綺麗に終わった……最後、泣いた。ぼろぼろ泣いた。僕は、泣いた作品は捨てるに捨てられなくなってしまうので、また本棚のスペースが足りなくなってしまう。
主人公の葉村ヒカリは、根暗で絵ばっかり描いてる高校生。あまりに絵ばっかり描いてるから、あだ名は「ピカソ」。そんなピカソはある日唐突に、大きな事故に巻き込まれてしまう。一緒に事故に巻き込まれた友人・山本千晶は死に、ピカソは生き残った。でも彼が生還したのは、千晶が死の間際に彼の生還を願い、ある事と引き替えにかりそめの命を神から与えられたからだった。ピカソの前に幽霊として急に現れた千晶は、ピカソに言う。「人助けをしなさい、それがピカソが生き続けるための代償」。かくしてピカソは唯一の特技である「絵」を使ってクラスメイト達の心の闇を描き出し、千晶と共に彼らの深層心理に飛び込んで難問を解決していく事になるのだった……
僕が古屋兎丸を知ったのはライチ光クラブだったんだけど、全然違う作風で驚いた。耽美な絵柄で悲劇や残酷劇を描くのがメインの人なのかと思ってたけど、この作品では悩み多い年頃の少年少女の青春をさわやかに描いてる。
登場するキャラクター達は皆悩みを抱えているのだけれども、悩みがこんがらがってて何が「本当の問題」なのか分からないし、どこからこの状況を打破していけばいいのか糸口すらも分からないしで、前に進めず足踏みを強いられている。ピカソと千晶がするのは、こんがらがった悩みをひとつひとつ解きほぐして、糸口を見つける事。そこから先の事、見つけた糸を手放さないでちょっとずつでも問題を解決していくのは、あくまで悩んでいた彼ら自身の仕事だ。
多くのクラスメイト達の手助けをしてきたピカソは、最後にピカソ自身の心の闇と対面させられる。彼自身意識していなかった心の闇に、いよいよ立ち向かわないといけなくなる。彼が抱える闇の正体は何なのか? その闇を取り除くとはどういう事なのか?
後味はほろ苦いけど、そこには希望がある。全3巻、見かけたら読んでみて下さい。
甘詰留太の短編集? 恋は三十路をすぎてから (ヤングキングコミックス) こうた。
ヤバいわ。たまんない。
以上。「年上ノ<ruby><rb>彼女</rb><rp>(</rp><rt class="読み">ヒト</rt><rp>)</rp></ruby>」が好きな人には超お勧めだと思った。ほんま「ごちそうさま」いう感じですわ。
うおおおおおお!
キモイ!! これはキモイ!!! この主人公のキモさは僕のキモさだ!!!!!
この手の男に心底ウンザリしてるんであろう女の人が書いたレビューを先に読んだので、そういう目でしか見れませんでした。
この作品読んで「久保せんせえは女性なのにモテない男性の気持ちがよくわかっててすごいな!」と喜ぶ男子が多そうですけど、久保せんせえ以外も、女性はみんな、お前らのふがいなさをよっく分かって日々いらいらしてんだよ、という事実にまで気付いたらいいのに、と思います。
ああもうほんとに。他人の目から見たらお前はこう見えてんだよ、こんなんだから恋愛関係やめて友達になりたいって言われるんだよ、ってのがよく分かった。嫌な意味で。
これ系の漫画では最近だとルサンチマンとかボーイズ・オン・ザ・ランが有名だと思うけど、花沢健吾の描く物語の主人公は、容姿的には不細工だったりパッとしなかったりドジだったり弱虫だったりする割に、どこか一生懸命である意味かっこよかったりする。それに対してモテキの主人公は、真逆の描かれ方だ。容姿はそんなに悪い風ではなさそうな描かれ方なのに、性格ブスっていうかなんていうか、内面のかっこ悪さがハンパ無い。「見た目はかっこよくないけど中身はかっこいいんだぜ!」というモテナイ男の自己陶酔を真っ向から否定する嫌なリアルさ、「見た目もだけどそれ以前に中身が駄目じゃん」という現実が、ここにはある。
しかしなんでここまで僕はこの主人公を否定してしまうのだろう。言い換えると、彼一人を悪者にして、他の登場キャラの醜さに目を向けないのだろう。多分だけど今も僕は、女性というものを強者と認識しているんだと思う。一般的な意味で強い強者か、「弱者」という免罪符を持っているという意味での強者か、どっちにしても。争っても周囲から自分(男)の側が一方的に責められる、だからアンタッチャブルにならざるを得ない、そんな感じの。
既刊分に追いついてしまった。
5巻では鈴木先生の過去の過ち、6巻では鈴木先生を被告人にしたクラス討議が描かれていた。
相変わらずめちゃめちゃ面白いんだけど、この「面白さ」の正体が何なのかがずっと分からなかった。でも、ふと思った。これってWeb上で「論争」を見てる時のような感覚に近いかもしれない、と。それぞれの「登場人物」が、色々な思惑があって、プライドをかけて発言したり、空気を読めないまま発言したり、気付きを述べたり、ファビョったりする、そういうやりとりの精緻なシミュレーションだと僕には思えた。
どこだかで、作者の武富健治氏の発言として「自分が描きたい物を読者のことを考えず描き散らしているのではなく、自分が読みたい物を描いているのだ」という趣旨の言葉があったというのを見かけた。その言葉は確かに真実なのかもしれない。ブログ上の「論争」を見たり何かコメントしたりするのが好きな人間の一人である僕にとっては、このクラス討議はウォッチしててとても面白い。
ところで、作者の武富健治氏のオフィシャルサイトには過去の作品のことが色々書かれていて、いくつか公開されてる物もある。その中には、5巻の中でリメイクされた掃除当番もあった。これが昇華されてああなるのか……
コンスタントに読み進めてます。
とりあえず4巻まで来たけど、竹地の幼稚さと卑怯さってホント自分ソックリだなあ! ここまで精緻に描かれちゃあ言い訳のしようもないぜ! という感じです(ついでに言うと見た目も似てる)。今すぐ首吊って死にたくなるね。でももう手遅れだ……このマンガはすでにベストセラーになってるみたいだから、日本中のマンガ読みが僕の醜態を見てるわけだ。ホント死にたい。
何で死にたいかって、自分ごときの人間性はこのマンガ1作品を読めばもうほとんど完全に網羅されちゃってるんじゃないかって思うからですよ。可逆圧縮された僕=竹地 みたいな。いや、むしろ、僕は竹地君のように中学生で脱童貞はできなかった訳だから、包含関係にあるのかもしれん……竹地⊃自分 みたいな。マンガに描かれたキャラクターより薄っぺらい人生経験って何なわけ? みたいな。
あーレビューでしたそうそうレビュー。いやもうなんつうか感想なんか書けないよ。自分のちんこ見ながら自分に「こいつをどう思う?」なんて、聞いてどうすると。そんなわけで、自分のちんこを切り落とせないのと同じように、やっぱりこの作品は処分できない永久所持組入りです。
ふと思い立って鈴木先生の1巻を買ってみたのだけれども、処女非処女云々の話題の事でモヤモヤしている今のタイミングにこの話(「@教育的指導」前・後編)が来たというのは何か運命じみた物を感じてしまうよ……!
なんか……不思議なマンガだなあ。妙におどろおどろしい絵柄で、読んでると全然気が抜けない、読んでるこっちが緊張するような…… 架空の小中学校を舞台にしたマンガなんて他にもいくらでもあるのに、何が違うんだろう。
もしかしたら、本気度合いみたいなのの違いなんだろうか? キャラクター達がストーリーを繰り広げるための舞台、大道具としての学校、というのではなく、シミュレータとして用意された学校の中で各人が汗水鼻汁たらして半べそかきながら死ぬ気で生きてる、みたいな。
また処分しづらい漫画シリーズが部屋に増えていく……
Perlの入門書でだいぶ昔にお世話になりました結城浩氏と、もえじら組で参加した何度目かのコミケ会場でたまたま手に取って以来地味に毎回買い続けさせていただいている日坂水柯氏が、コラボレーションとな?! と、第一報を聞いてから気になっていた漫画版数学ガールの単行本が出たということで買ってきた。
うん。じぇんじぇん分かりまへん
教育コンテンツとしてかろうじて僕の役に立った(?)のは、「1は素数に含めない、のは何故なのか」という話くらいでしょうか……
数式部分がプログラムの(特にJavaScriptの)コードだったら、まだ僕にも理解できたんですかね。それとも、モノ扱いというか、対等な人間関係として見ていない
と評されるような人間である所の僕には、仮に「JSガール」だったとしてもやっぱり理解できないんですかね。
「今日からヒットマン」のことを悪く書いた直後にこういう事書いちゃうのってアレだなーと思うけど、「尊い物を片っ端から失ってボロボロに疲弊していった最後にやっと何かちょっとだけの見返りを得られる」というのは詰まる所この作品のことを指していたわけで。
そのボーイズ・オン・ザ・ランがついに10巻で完結した。最終話とエピローグは泣いた……社会的地位も何もかも失って、自分の事を蔑んでいた連中を見返してやる事も結局全然できなくて、でも「笑いたいやつは笑えばいいさ」みたいな強さに田西は辿り着けたんじゃないだろうか。そうであって欲しい。
本棚整理の時も売ったり処分したりしない、私的殿堂入りの10冊になったと思う。