pico_usagi’s blog

つれづれ鑑賞記を引っ越し作業中です!

舞台でみる「ジゼル」ーウクライナ・バレエ

カーテンコール

さて。

 

円高の折、また大劇場改修ラッシュが始まるとのことで、今年はあまり舞台をみる機会がなさそう・・・と悲観する年明け。

 

12月に東京へ行きたいなー、と思いつつ、天候とモチベーションに二の足をふみふみ、バレエ公演でもあれば…、と思って検索したら、地元のホールでウクライナ・バレエの上演があることを知りました。

 

ウクライナ・バレエはキエフ・バレエの表記だった2000年、やはり地元で一度だけ見たことはありますが、当時はソヴィエト崩壊後衰退?の立ち直りの遅さ、旧ソ3大バレエとの呼び文句にしてはこぢんまり感が拭えないカンパニーという印象があり、あまりこれといった個性を感じなかった記憶があります。

 

とはいえ、近くで観れるし、何よりチケットが安くてびっくり。

これは生オケなしだったせいもあるけど、地方公演ならではかなーと。

ただ、1月の年明け早々というのは雪が降る可能性があり、かなり迷いましたが…、その予感的中、大寒波到来の初日に当たる。

通常であれば車で30分ほどの距離とはいえ、平日公演なので夜帰宅必須となることから、最後の1時間まで本当に行くかどうか迷いましたが、頑張って行くことに。

 

結果、行ってよかった。

 

これといったスターがいない、というのが迷ったポイントの一つ。

また、「ジゼル」かあ…という気分が2つ目。

 

実情はよく知りませんが、2000年当時もスター不在、資金不足というのはあまり変わらないようが気がするけど、そんなところがなんだか中弛みしたカンパニー、という印象になった2000年とは違い、コロナ禍の行動制限期のダンサーたちと同じように、やはり、「今日を逃せば、踊れないかもしれない」という切迫感が、全体に舞台の雰囲気を凛としたものにしていたような気がします。

 

いわゆるワガノワメソッド、というのが、このカンパニーの血脈にあるのかなぁ、と観ていて思い、キャストは数に限りがあるのかもしれないけれど、登場人物が一人一人丁寧に踊っているのがわかるような気がしました。

 

1幕目の衣装が特にもっさり気味ではあったけど(ロイスがちょっとイケメンに見えず…)、ダンサーたちの動きはすっきりとしていて、しっかり「ジゼル」を観ているという気分になったわけです。

 

思えば、私が初めて見たバレエ公演も「ジゼル」だった(ボリショイ公演)、ということが急に懐かしく思い出され、一人しみじみ。

いろんな意味で、原点を見たような気持ちになりました。

 

さて、第2幕。

やっぱり暗闇のウィリーたちの霊的な踊りはジゼルの醍醐味ですね。

戯画的な背景画はアップデートしてほしいな…、と最初は思ったけど、ダンサーを見ていくとやがてそれも気にならず。

王子になったアルブレヒトは、ちゃんと王子でした。やはり、最初の登場の音楽は悲しい。

そしてジゼルはやはり守護霊寄り。これも旧ソ系の伝統なのかしら…?と思う。

 

ただ、最後がとても衝撃的でした。

白鳥ではなくて、アルブレヒトが死ぬバージョンは初めてみる!と思ったら、後で知ったことですが、これは新バージョンだそうです。

冷静に考えてみれば、ウィリたちからアル君を守ろうとしたジゼルの努力を無駄にしてない?と、若干の矛盾を感じますがね。

でも見た時はあまりに衝撃的で、しばらくは何も考えられなかった。

 

2000年当時はソリストだった(でも出演はなかったので実見していない)寺田氏が、戦うウクライナとしての舞台を真剣に考えている、その意気を直に、感じました。

 

SNS全盛の今日らしく、カーテンコールは撮影可ということでしたが、途中すっかり忘れていて、前列の誰かがかざしたスマホのモニターが、劇場の中で一つ、またひとつ広がっていくのが、なんというか、戦火に負けず灯火が灯る連鎖のようにも見えて、なんだかとても幻想的な一幕に。

 

『花よりも花のごとく』という漫画の1シーンで、戦後間も無くの電力不足による停電がよく起こったという能舞台公演中、客席で誰かが灯したマッチの火が次々に広がっていく、そうした劇場の思い出を隆生先生が憲人に語る回想がありますが、不思議なことに、その感動とリンクするような瞬間でありました。

 

 

 

 

 

 

サアカスは楽し。

ニッティング・ピース



11月は気管支炎(推定)にかかり、医者を変えたせいか薬疹にもかかり、乾燥性アレルギーかもしれないけど、その後1週間ほどはアレルギー症状に苦しみ、なかなかに大変でした。

 

…とまあ、年齢とともに、回復力の低下をしみじみ感じる月になったわけです。

 

そんな将来もしらで、9月にステージのチケットをとっていたのが二つあって、1件目は先日のシュツットガルト公演。

こちらは遠征で健康上のかなりの賭けとなりましたが、地元のステージでも、「なんかわからんけど、おしゃれで楽しそう」というくらいの気持ちでとっていたのが、サーカス・シルクールの公演でした。

 

なんかよくわからんけど、とにかくビジュアルで決め、公演日まで自分が何を観にいくかよくわかっていなかったステージ。

ホールへ行って初めて、ニッティングのメッセージを知る(笑)。

なんとなくゴシックぽいビジュアルだったので、そんな感じだと思っていたら、ヨーロッパの現代らしく、ウクライナへの言及があり、ピースがpieceではなくpeaceだったことに当日ようやく気づくという始末。

 

そして、ダンスパフォーマンスだと何故かずっと思っていた節があったのですが、途中で、サーカスだった、と気づく鈍感ぶり(笑)。

現代サーカスといえば、シルク・ド・ソレイユ(観たことないけど)がかつて有名で、その影響にあったチームなのか…?

パフォーミングアーツは割と好きなのに、これまであまり意識しなかったジャンル。

 

コンテンポラリー・アーツやコンセプチュアル・アーツの要素が濃厚に感じましたが、舞台装置のニッティングが原初的でありながら非常に構築的な装置になっており、また比喩的な身体性もあることに気づく。

 

…と、非常にアート寄りなステージであると同時に、なぜか、子どもの頃に見たまさに昭和的、まだサーカスがフリークス的好奇心を満たす出し物であった時代のサーカスを見るドキドキ感を、おしゃれな構成になってあるにもかかわらず、ふっと思い出せるような、そんな不思議なステージでした。

 

つまるところ、サーカスの魅力は昔もいまも、人間の肉体的極限への挑戦、ということが共通しているのだなー、と思ったわけです。

 

昭和の子どもであった私にとって、なんとなくサーカスはオワコン的なもの、という思いがあったけど、現代サーカスにおいてはかくもエッセンシャルなステージとしての命脈を繋いでいるんだなー、と、驚きを新たにした次第。

 

少人数の公演でしたが、ナマ歌あり、ナマ演奏あり。

多分シンセサイザー?とチェロの音楽パフォーマンスも、身体パフォーマンスと相乗的によく、意外にもゴージャスで楽しい2時間となりました。

 

昔も今も、サアカスは楽し。

 

シュツットガルト・バレエ『椿姫』

アフターコロナの今日この頃、全幕モノがみたいなあ、と思い、今年の海外招聘カンパニーを探していたら当たったのがシュツットガルト・バレエ。

 

クランコの文学的なバレエを得意とし、若い頃からなんとなく見てきた芋っ子(ファンの人にはごめんなさい)フリーデマン・フォーゲル以外、現在はあまり目立ったスターがいないという感じですが、カンパニー全体が安定してカンパニー色を保持できている、好きなバレエ団。

 

前回来日の際は、それまでレンスキー役だったフォーゲル君の、オネーギンへの変貌ぶりに魂を抜かれてしまいましたが、今回の公演「オネーギン」も結構見てきたし、でもそろそろフォーゲル氏も引退かも…と迷っているうちに、自分が行けるフォーゲル=オネーギンの回は早々に完売に。

演目的にこれまであまり好きではなかった『椿姫』の、自分が上京できる日の公演、という消極的選択で、特にテンションも上がらず、最終日のチケットをとってしばらく放置気味になっていました。

 

ところが、11/2は全国的な荒天となり(そもそも電車網ストップ)、東京はそこまでひどくなかったようですが上演されたのかしら…、と久々にNBSのページを見たら……

急転直下。

チケット購入当初のキャスティングが大幅に変わっており、なんと、フォーゲル氏出演に代わっていた!

…なんという棚ボタ。

 

しかし、この後自分がひどい風邪をひいて上京が危ぶまれたり、それ以外にもバレエ団内の急病人続出でフォーゲル氏がほとんどの公演に代理出演することになり、御歳45歳の彼の最終日のコンディションが心配になったり…と、最後まで見に行くか迷う羽目に…

 

当日、コロナ禍で得た私の教訓、後悔しないように今を楽しむ、を久しぶりに思い出し、エイヤーで上京、見にいって参りました…

 

…結果…

観に行ってよかった。

 

前置きが長くなりましたが。

ノイマイヤー版『椿姫』自体は映像で見たことがあり、流れはだいたい把握していたので、あまり感動がないかなー、と多寡を括っていたのですが、とんでもない。

生ステージで見る、もともとシュツットガルトのスター マリシア・ハイデの為に振り付けられた『椿姫』は別格でした。

今年の春、ハンブルグを見た時には、ノイマイヤー・メッソッドに自分がもう飽きたのかも…、と思っていましたが、原点を見た感じで素晴らしかった。

ちなみに、当初投げやり気味でチケットを買ったのでS席でなくA席で、しかも斜め座席をとったことを後悔。

ノイマイヤーの舞台ではよくある手法ですが、舞台両脇にモノローグ的な主要人物の独演が舞台中央の展開と同時に進む演出が何回かあり、右斜め席だったので、右側がすごく見づらかった……

 

『椿姫』は、カンパニーの中でもペアを組んだカップル同士の組でしかできない、という、素人目に謎ルールがあるそうで、アルマン役のフリーデマン氏のペア(というか、こっちが主役)はエリザ・バルデス

バルデス嬢はBDにも登場する実力派ですが、そのせいか、最初どうしてもジュリエット感が拭えず、年下のウブなアルマンをからかう手練・マルグリット感がなく、ステージ上でのカリスマ性が乏しかった。

どうしても、マルグリットにはルテステュのような大女優をはれるカリスマダンサーこそ相応しい、と思ってしまいます。

でもまあ、それも最初だけで、アルマンとの関係が深まりパーソナルな感情を示すようになる流れを時系列で見ていくと、だんだんマルグリットの繊細な感情表出がすごくよく踊られていると思うようになりました。

 

一方のフリーデマン氏は、逆にアルマンを演じるにはひねすぎなのでは…と危ぶんでおりました。ベテランだもんね。そして脚がとても美しい。

こちらも当初、初々しさに欠けるなー、と思っていましたが、やはり感情表現が素晴らしく、後からはだんだん気にならなくなりました。

 

とにかく、流れるピアノに沿って交錯する、現在と過去の回想の連続性が文字通り流れるように続き、全く息をつく暇のないステージで、全ての配役が抜かりなく一体感を生んでいるようなステージでした。

ちなみに、父親役のジェイソン・レイリーは、フリーデマン君と並ぶベテラン・スターですが(本人タイトルロールの舞台は観たことがないけど)、20年来このカンパニーを見てきた私にとっては、なんとなく野生味の強いキャラクターが合うような気がしていたんだけど、アルマンの父としての存在感十分で、マルグリットとの会話のくだりもよいし、舞台中、左端にただ座っているだけの時間がやたら長いにも関わらず、物語の画角を締める役を存分に発揮していて、すごかったです。

 

また、マノンとマルグリットのダブルイメージが、映像ではあまり心に残らなかったのですが、この連動性は生でみるとすごく良かった。マノン役のアグネス・スーも表現が繊細で、やはりカンパニー一人一人にクランコメソッドが息づいていて、もはや感動的。

 

まさに堪能する、というステージになり、満足度高し。

しつこいですが、やはり正面で観たかった……

 

 

 

 

真夏日にバウシュ版「春の祭典」を観る。

今年は夏はなんとかなった、と思ったら、残暑が異常に長い。

コロナ禍を経て、家族が遠出するのが億劫な高齢になり、夏のドライブ旅行も無くなったため、8月はレジャーのない月に。

 

うっかり、11月のシュツットガルト公演をウジウジしていたら、フリーデマン・フォーゲル回のチケットがソルドになってしまい、これまたウジウジしていたベジャール(ちょっとうちわ揉めてる?)バレエを再検討…中に検索があたったバウシュ版「春の祭典」。

 

あまり深く考えずポチったら、ヴッパダールではなくて、アフロ・ダンサーによるオーディションチームが踊る「春の祭典」でした。

 

「18年ぶり、ピナの「春の祭典」」との売り文句ですが、前のヴッパダール公演が18年…?と思ったら、なんと自分が観てからすでに18年経っていた…。

あまり、覚えてないなー……と思いつつ、ステージを観る。

よくわかっていない人が「アフリカの大地」とか書いていたけど、そもそもピナ版自体が舞台に土を設営することになっているのです。

幕間の設営時、なんとなく思い出しました。

 

振り返って、ピナは2009年には亡くなっており、自分的にはどうやら2010年代にはだいぶ遠ざかっていたようですが、ステージを観ていて、「こんなんだったっけ?」という木が最後まで拭えず。

 

男子対女子の構図は同じなんだけど、なんだか、今回のステージは「健康」感があり、よくよく思い出せば、ヴッパダールの過去のダンサーたちは、男性の暴力性はそれはそれは恐ろしく、女子の悲壮さはとても言い表せないほど、だったような気がし、全く、別物でした。

 

どちらが良い/悪いというのではないのですが、「犠牲」の描写としての「春の祭典」ではないな、と思ったのが今回のステージ。

最近観ていないけど、ヴッパダールのダンサーに染みついていた悲壮な「震え」「硬直」みたいなものは、やはりピナ直伝のメソッドだったのかしら。

映像がないのでぼんやりとした記憶からの感想ですが、ピナ、久々に観たいな…。

このところの美術鑑賞日記

 

このところの印象、とくにアフターコロナの傾向か、1990年代頃に美術の世界に関わるようになった私にとって懐かしい(?)「20世紀の(戦前から生きている)巨匠」たちと「1990年代現代美術のスター」回顧展ラッシュ、という感じ。

 

行く前は「なんで、この人?」と思って、やや渋々にいくと案外面白かった、ということが多いような気がします。

 

その一つが、「デ・キリコ展」。

デ・キリコは美術の教科書に出てくる《通りの神秘と憂愁》の、ナナメ中高生にブッ刺さる絵が、よくも悪くもこの画家の評価を安定的にしていますが・・・、そのせいか、なかなか公正にみることが困難な画家です。

「形而上絵画の創始者」という、おそらく後付けのタイトルと、キョーレツな人格を窺わせる風貌が、全てを妨げているのですかね。

 

10年ぶり?(30年ぶり?)という回顧展だそうですが、前回は観てるのかなー、という朧げな感じで、チケットがあったから行った、というテンション。文化村で見たような気がするけど・…・。

事前の印象としては、いわゆるデ・キリコ芸術の純正とみられる1910年代の初期の「形而上絵画」と、その後の驚くべきバロックへの反動、自身の過去の名声にしがみつく1960年代の「形而上絵画」への逆行、というダメ画家像があって、ダリは奥さんのイメージ・コントロールがある点違うけど、ダリ同様、キャラクターとしてキョーレツ感が勝ります。。

 

結果ですが、楽しめました。今回はキュレーションの勝利、という印象を受けました。

 

始まりこそ初期作品にハイライトが当たりますが、年代順におう回顧展でなかった、というのが「デ・キリコ展」のデ・キリコたる所以。時間軸に縛られる美術史観をずらし、「気づき」を促します。それから、美術史における刷り込まれた「中央集権」観も。

あらためて、東ヨーロッパにおける文化中心地・ミュンヘンへの言及の至らなさに気づきます。

 

デ・キリコギリシア生まれのイタリア人であり、イタリアは20世紀にようやく統一国家になったためにデ・キリコを「イタリア人」と括るのは後世他国民の偏見であり、地中海育ちであり、20世紀戦争期を生きた「イタリア人」である、というのがよくわかりました。

だから、フランス・パリを中心に据えた一般的な「20世紀西洋美術史」の文脈では位置付けがしにくく、その見方からすると、「ネオ・バロック」「ネオ形而上絵画」が先祖返り的悪にしか見えない、というのがしみじみ感じられた次第です。

 

デ・キリコは一貫してギリシア人生まれのイタリア系地中海画家であり、ローマで没した画家である、というのがよくわかります。

 

なので、今回の自分が一番いいな、と思ったのは、なんとネオ・バロック絵画です。

初期の形而上絵画好きには退屈と思われそうな静物画ですが、イタリアならではの文化土壌への気負いが溢れるほど(背景に自画像を描いてしまうほど)感じられる(笑)、駄作中の非凡作だと思います。

個人的には、セザンヌに対する冷笑(剥き出しの対抗心)を感じました(笑)。

 

マシュー・ボーンはセンセーショナルなのか?を「ロミオとジュリエット」で再び考える。

さて。

円安&没落の日本の影響(あと、ロシアの戦争)が、ついに海外バレエ団招聘にも影を落とすのか…と思う今シーズン。

今のところめぼしい?バレエ公演がありません。

 

…という根拠不明の理由により、渋々?マシュー・ボーンの「ロミオとジュリエット」の公演に出かけてみました。

 

ボーンは「シンデレラ」以来6年ぶり。

もはや誰がスターとかあまり関係ないので、とにかくボーンの舞台としてみる。

…とはいえ、チケット買う前にキャスト表は出してほしいなぁ…

 

みる前に、だいたい設定を確認しておく。

慌ただしく日曜の渋谷に行くことになったので、時間が全然なくて(12時開演というのは、地方在住者にとってとても中途半端)、プログラムは買わず。

だけどまあ、ロミ&ジュリは吐くほどみているので、だいたい音楽でキャラクターやシチュエーションはわかる。

たとえ、全員が白衣装でも…

 

舞台設定が現代(聞くところ近未来)というのは、ボーンにはじまっている振り付けではなく、これまでもマッツ・エクやベジャール(但し音楽が違う)、ナチョ・デュアトなんかでみたこともあり、今更目新しくもなし。

また、エクの「ジゼル」のように、クラシックバレエの非現実空間が矯正施設に再設定されるパターンも、また取り立てて飛躍があるわけでもない。

 

ただ、前回の「シンデレラ」からの流れで、ボーン自身がプロコフィエフの音楽の魔法に取り憑かれたのか、プロ氏の音楽と舞台の一体感を高演出しようとしているのがとてもよくわかりました。

生オケではないけれど、プロ氏のバレエ音楽の面白さを、つくづく感じました。

 

ダンサーは、クラシック・バレエのメソッドに慣れているとそれほど洗練がないというか鈍重なんですけれども、舞台と思えばあまり気になず。

 

なので、先鋭的な「ロミオとジュリエット」のバレエ公演、というよりは、ロンドンの下町の劇場でステージを堪能する、といった感覚がつよい。

若者役のダンサーたちも、細身・洗練されたクラシックバレエダンサーのフェアリー感はなく、ロンドンっぽい多様性というか。

実際にロンドンにいたときに感じた、ロンドンらしいイモっ子感満載で、オフィサーがまさにそう。

顔がちっちゃく、制服を着ていると上半身が太くもっさりしてるなー、と思うんだけど、腰の位置が高くて、脱ぐとなんだかセクシー♡なところなんかが…

 

ロミオが最初全然出て来ないんですが、権力者の出来損ないの息子として登場した際の存在感というか流れる?ような動きを見て、あー!と思ったのが、「ロミオ」という名詞が「果報者」という意味を持っているということ。

ある意味、正しい「ロミオ」の翻案。

 

ただ、説明にあるような「近未来」感はいうほどでなく、むしろ、ボーン自身の世代の「若者」感、近過去といったような感じが、むしろする。

 

ストーリーの肝が、「抑圧する世界」と「争う若者」といった構図、これがまあ、なんというか今の時代のリアルではない、と私には思えたのです。

 

「若者」ではなくなった私からすると、若者が革新を目指し戦う意欲を燃やしていた時代は終わり、世の中はそう簡単な構造ではないことを多くの人が気づいているわけであって、また1990年代以降お生まれの方(特に日本か?)にはそのような意欲さえないのでは…?と思うわけです。

 

そんな気がしたので、まあ楽しんでみることはできるんだけど、ストーリーに切実に迫るものはなくて、「先鋭」をみるのとは違うなあ、という気分になりました。

そういう意味ではボーンを有名にした「白鳥」以来の「イギリス社会の典型を垣間見る楽しさ」以外は特に見どころのない、凡庸なボーン劇場、というところか…

 

と、決して貶しているわけではなくて、ボーンを「センセーショナルの旗手」とみるのは誤り、という点だけは指摘しておきたい、といったところ。

 

 

パリ・オペラ座バレエ「マノン」2024

前回はコロナ禍幕開けだったオペラ座来日公演。

4年ぶりで観てきました。

 

「マノン」は10年ほど前にABTで実見したことがあり、また映像としてはデュポン様のDVDがあります。

なので、ヌレエフ版の「白鳥」と迷ったのですが、この数年の間にエトワールが全く知らない顔ぶれになっていたこともあり、これまた「白鳥」もソフト化されているホセ・マルティネズ&カール・パケットを超えることも期待できず、結局マノンを選びました。

 

ユーゴ・マルシャン&ドロテで観たかったところですが、休みの関係で、ミリアム&マチューペアに。

ミリアムは、全然知らない人ですが、今年アデュー公演があるベテランだった。

し、個人的には前回のマチューの件もあり、マチューはスターではあるけど、私にとってはある種賭け。

 

それにしても、円安・物価高直撃、チケットは3万弱だし、プログラムはあの内容の薄さで2500円もする…

ロシアのバレエ団もしばらく観られないでしょうから、海外ものはこの先…難ですね。

 

さて。

「マノン」を選んだのは、どちらかというとこちらの方がゴージャスだから‥と思ったからなのですが…、うーん、どうなんだろう。

前回ABTはびわこホールだったのですが、東京文化会館は狭いのか?

1幕の馬車待合のシーン、なんだか狭苦しくて、ダンスがよく見えなかった。

し、デグリューがいつからいたのか、全然わかりませんでした。

マノンとの出会い(ぶつかる)が全然運命的に見えず。

 

この幕のマチューは、ちょっと足がガクガクしてて、やっぱりあまり上手くないのでは…と思いましたが、その後はブレがあまり気にならず、それなりに(何様?)キャラクターがわかるようになりました。

やはり、私との相性があまり良くないのか…?

 

ミリアムはどちらかというと可憐なタイプで、ジュリエットとかがあいそう。

16歳の、世間知らずで天真爛漫なマノンには合っているように思いますが、2幕は愛人としての変貌、ゴージャス感が今ひとつ。

たくさんの男たちに囲まれる、ファム・ファタル的な、ダイブっぽいリフトが見せ場だと思いますが、今ひとつ凄みが感じられず。

これも初見ジュリー・ケント(パートナーはボッレ)、デュポン様が圧巻すぎなので…。

 

マダムに好みの女の子を所望する紳士陣の描写について、高齢(杖をついている)男性が「ボン・キュッ・ボン」を所望するという描写が戯画的なのが定番と思っていたのですが、この男性の身体不具性を強調する振りがなかったのは、時代なのか。

 

それにしても、背景の人々がやや平面的で(やはり舞台が狭いのか?)、オペラ座の将来がやや不安。

マノンの酔っ払いダンスもABTでは超絶技巧を感じたものですが、今回は踊りの合間のマイムでかろうじて酔っ払ってるのがわかる、という具合で、感動はなく、愛人も、ドレスの色が違うだけで他の踊り子との見分けがつかないくらい。蓮っ葉のリーダー感がやや乏しい。

 

「マノン」を見るといつも(原作を読んでも同様)、マノンという人物像がわからなくなるのですが、今回もどちらかというとそんな感じ。

ミリアムは可憐な少女性があるマノン、ではあるけれど、未熟ゆえの浅はかさよりのマノンでもなく、終始いい子にみえました…。

 

今回はどちらかというと、「デグリューの物語」にみえる(というかいつもか)『マノン』だと思いました。

1幕では不安に思ったマチューも、2幕以降はキャラがわかるように。

童貞(ではないかもしれないけど笑)らしく、独占欲強い、でもマノンが窮地だと愛情深く見えうる、リアルな「恋する男性」像。現代のモラハラ男みたいけど(笑)、そこがリアル所以かしら。

マチューの感情表現は、ちょっと直情的傾向があって怖いタイプだなーと、前回のオネーギン同様に感じました。

 

前回来日はデュポン様が芸術監督就任直後、今回はマルティネズ氏就任直後。

(客席にご本人がいました。すっかりイケオジに)

私的黄金期のエトワールが運営陣にいるという時代になったように思いますが、20世紀の偉大なるコレオグラファーたちが相次いで逝去した今、オペラ座も(元々かもしれませんが)保守化している感があります。

伝統を継ぎつつ、伝統を刷新して欲しいと思う今日この頃です。