◆大山寺の由緒◆
755年、東大寺別当良弁の開山、聖武天皇の勅願寺、
また弘法大師 空海が第3世住持を勤めた古刹です。
中世には修験道が盛んになり、戦国時代には後北条氏
に与し、大山寺の山伏は僧兵として活躍しました。
江戸時代以降は、高野山を頂点とする真言宗の学問の山
として再整備され、現在も真言宗を宗旨とします。
明治維新に至るまでは朝廷・幕府より寺領を安堵され、
江戸時代には寺領100石に加えて碩学料57石を賜り、
大山寺の住職である別当 八大坊は大名相当の待遇でした。
大山寺は創建以来、現在の大山阿夫利神社下社の位置に
大伽藍を構え、別当 八大坊は石尊宮(現 大山阿夫利神社)
を含む一山を掌握、<大山詣り>により大いに栄えました。
しかし、幕末の大火と廃仏毀釈により廃寺の危機に陥ります。
神道による祭政一致の王政復古を目指す明治新政府にとって、
江戸幕府が厚く保護した仏教寺院は悪しき旧体制の象徴です。
戊辰戦争中、東征大総督府の有栖川宮総督より別当 八大坊に
召喚があり、石尊宮および諸社の支配差し止めが命じられ、
翌日には総督府の役人より「(不動尊之儀については)何れの
国なりとも持参いたすべし。神山(大山)に備え置く事は無用
である」(『明王太郎日記』)と通達され、趨勢は決しました。
堂塔は解体、跡地に大山阿夫利神社下社が建設されました。
廃仏毀釈により数多くの寺宝が失われ、堂塔が破壊される中、
ご本尊の鐵不動明王だけは地元住民の篤い信仰に守られ、
山外退去を免れて現在地に本堂が再建の後、遷座しました。
2024年、再建の本堂が国登録有形文化財に指定されました。
◆ご本尊 鐵不動明王(重要文化財)◆
1264年、願行上人憲静による鉄仏の不動明王座像です。
武士の世を偲ばせる荒々しく堂々としたお姿でありながらも、
光り輝く玉眼は慈悲心を感じさせるお優しい眼差しです。
春日局も再三参拝し、『大山不動霊験記』(1777)
には、この不動尊の霊験あらたかなることが記されています。
◆最新情報<Instagram><Facebook>◆
【お接待】
五壇護摩修行のお下がりお接待そのニ!!
先週末に、【五壇護摩修行】(毎年2月28日)のお供えをお下がりとしてお分けしました🍏
有田みかんに続き、津軽の王林です!
今回は許可をいただき、参詣者さまのショットを!
パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)
皆さまに御本尊 鐵不動明王様の加護があらんことをご祈念申し上げます。
合 掌
#日本遺産#納め太刀#伊勢原#大山#大山寺#寺#真言宗#不動明王#護摩#祈祷#厄払い#🔥#お接待#🍏#王林
6日 ago
【東京大空襲戦災犠牲者供養】
去る3月10日、大山ケーブルカー大山寺駅から大山寺に向かう参道沿いの〈東京空襲被災者供養碑〉において、東京大空襲による戦災犠牲者の供養を行いました。
この供養碑は、江東区に本社を構える〈吉野工業所〉の創業、故 吉野彌太郎氏の尽力により建立されました。
1945年3月10日未明の空襲は、木造家屋と工場が密集した江東区を含む東京の下町をまたたく間に猛火で包み、一帯を阿鼻叫喚の地獄と変えました。
彌太郎氏は、ご親族や友人知人をこの空襲で亡くしながらも、自身は奇跡的な生還を遂げられ、戦後は生涯に渡り犠牲者の供養に心血を注がれました。
この供養碑の周囲の赤い欄干は、彌太郎氏が江東区の〈菊川橋〉改修の際に一部を貰い受けて移設されたものです。
空襲の直後の〈菊川橋〉は、焼け焦げたご遺体が山と積まれ、死屍累々の有様であったと伝わります。
現在の〈菊川橋〉は桜並木とスカイツリーを同時に望むビュースポットとなりましたが、橋の袂には慰霊のため地蔵尊が建立され、現地でも犠牲者の供養が続けられています。
大山寺駅から大山寺にご参拝の際は、何とぞこの供養碑の前で一度お立ち止まりいただき、哀悼の誠を捧げていただきたく伏してお願い申し上げます。
合 掌
2週間 ago
【大山登山マラソン】開催中🏃♂🏃♀
道中安全!無魔完走!がんばれ〜!
大山のお不動さんが見守ってますよ🔥
#日本遺産#納め太刀#伊勢原#大山#大山寺#寺#真言宗#不動明王#大山登山マラソン#登山#マラソン #🏔
2週間 ago
◆動画コンテンツ<YouTube>◆