カスハラ条例、制定続々だそうだ。どんどん制定してカスハラ野郎をどんどん処罰して欲しいもんだ。

今日の日経記事で、東京に続いて北海道でも制定されたそうで、他にもカスハラを防ぐための条例を制定する自治体が増えているそうだ。

 カスハラって、大体からして自分よりいろんな意味で「弱そうな」人とか、絶対手荒な反撃が来ないって分かってる人にしかしないから、そもそもが卑劣というか人品卑しいというか、まあハラスメントと言われる行為自体がそういう特徴を持っているのだけれど、情状を酌むに値しない筆頭のような行為だと思っている。

 特に役所とか学校とか、これらの方々は絶対に「うるせえこの野郎、オモテえ出やがれ」なんて反応はありえないと安心感満点だから、文句付ける方は言いたい放題言える代表格みたいなもんだろう。

 お店に文句言うのだって、対象は大体がレジの店員とかせいぜい雇われ店長とかが相手であって、下手な対応したら首になるかもとか、店の評判を落としたら責任なんて取りようもないという立場の人達だ。

 これが、例えば県知事だとか教育委員会のトップだとか会社の社長とかにクレームを入れるような人はカスハラの域は超えて、立派な闘争意識の表れと言って良いのだろうから、どこまでやれるか、まあ気が済むまで頑張ってみれば良い。

 さらに相手が解体屋とか土建屋(多くのその業界の方にはごめんなさい)だったりした日には、クレームを入れるにしても相当気を使って、少なくとも喧嘩にならないギリを気にしながらものを言うはずで、さらに異常に高額な料金を請求をする飲食店?に高圧的な態度をとったりするのは、よほどのチャレンジャーである。

だから、カスハラは自分の安全が保障されている所でしか起こらないと考えて良い訳で、最も効果的な対策は、相手に危険を感じさせることなんだろうとは思う。

 実際にJRの方から聞いた話だが、駅勤務の時に事故だか何だかで電車が止まってホームが人でごった返している時に、人品卑しからぬ、管理職風の方がつかつかと寄って来てまあ吠えるの何の、自分なんかに言ったって電車が動くはずもないのに烈火のごとく怒りまくられて、周りに人も集まってしまってどうしようもなくなったことがあったそうだ。

 ところがその時にいかにも「その筋」風の方が、人だかりの後ろの方から「ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねえぞ。駅員に文句言ったってしょうがねえだろう、クソ野郎が!」と一括してくれた途端その場が収まったという。

 要は駅員に対しては絶対的な安全を暗黙の了解事項と信じていたのが、思わぬ伏兵の出現で一気に自分の身の安全が不安定になった。その瞬間カスハラは止んだということだ。

 そのJRの方が言っていたが、大体何かあって文句付けて来る人はきちんとスーツを着たそれなりの立場にありそうな人なんだそうで、その時もいかにもそれっぽい人が近づいてきたので「あー、来た来た。やだなあ。」と、これから何が起こるか分かっていたそうだ。

 これなんか典型的に上下意識が最悪な方向に表れた結果だと思うし、一方で理屈抜きの弱肉強食の世界に生きている人は、身に迫った必要もない時にわざわざ弱い者いじめなんてしないという事なのかなと思う。

 役所でもお店でも、言論や腕力で、リミットを外して実際に戦わせたらとても強い人もいるだろうが、先に書いたように自分の判断で対応したら組織に迷惑が掛かったり、雇用が危うくなったり、あるいは警察沙汰になったりするのを恐れるがために不条理にじっと耐えているのだろう。

 そんな相手の自縄自縛に付け込んで、相手の人格を否定するようなハラスメント行為を行うのは二重三重に卑劣なのであって、これがもし「頭にきた。決闘だ」と言うようなら、まだしもすがすがしい分だけ許せるのかも知れない。

 そんなこんなを思うにつけ、ハラスメントを受けた側が適切に「反撃」できるようにしてあげるのはとても重要だと思う。是非自治体や企業等はその体制や環境整備を進めて、被ハラスメント側を守る対策を進めて欲しいものだと心から思う。

教員の「残業代」を上げるんだそうだ。でも、残業が前提の政策で初等教育が変わるとも思えないのだが。

新聞によれば、公立教員の残業見合い分ともいえる「教職調整額」を、今は給料の4%なんだそうだけど、30年度に10%まで上げる案がまとまったとのこと。

 これって、政府も突っ込みどころ満載は承知で、とにかく対症療法でもなんでも、なんとかしないと教員の成り手がいなくなる、ってことなんだとは思うけど、こんなことしても教員の成り手は減る一方だろうと思えてならない。

 心を病んで休職する教員が7000人を超えたとか、3年連続で増加したとかいう報道もあったくらい、根本的に教員という職業そのものの在り様が疲弊しているんじゃないだろうか。

 単に長時間労働の問題だけじゃなくて、明らかにカスハラ的な保護者からのクレームやら、英語だITだと対応すべき教育スキルの広範さとか、今どきの社会の目が要求する生徒対応の難しさやら、私は教育現場を知らないから単なる想像に過ぎないのだけれど、一昔前の教員とは明らかにその負荷の程度が違っているように思えてならない。

だからそのためにやるべきことは給料の増額ではないと思う。政府は方向を間違えていないか。

 それじゃあ何をすべきなのか、素人考えで言いたいことを言わしてもらえば、一つは教育や教師の聖性とでもいうべき観念を社会全体で考え直す必要があると思っている。

 例えば最近は学校の部活をやめて地域に任せる方策が市民権を得ている。部活は旧来「青少年の人格陶冶」の重要な活動として学校教育の要素だったと思うが、それを、言ってみれば「もう無理」という理由であっさり手放した訳で、社会も「まあそうだよな、色々問題はありそうだけど」と一定の理解を示している。

としてみれば、まずやるべきは「これは教育上重要」と思われているけれど「ホントにそうか?」と一度疑ってみるべきじゃないか。

 思いつくままに挙げてみるが、まず「学校行事の数々」。極論だが、卒業式は意味もあろうが公立の小中学校の入学は自然にできるんだから本当に必要か、文化祭、運動会、遠足、修学旅行などなど、コロナの時は全部飛んだぞ。

 二つ目。「生徒の成績等の情報管理」。テスト問題の作成は教員がすべきだろうが、その実施や選択肢の機械的な採点やその記録、あるいは一覧化等のデータ整理等々は教員がやらねばならないのか。進んで内申書とか通知表の数字部分等々、IT化どころかAI化されつつある現代で教員がやらなければならない事はどこまでなのか。

 三つ目。保護者と教員の面談や保護者会。これも狭義の教育上必要なもの、クレームに近い物、その他(どんなものがあるか良く知らないが)等を峻別して、それぞれ誰が初段の対応をするとか、どこで会うとか、どの程度時間を割くとか、対応しないとか、きちんと行政上の方針として毅然と対応、管理すべきだろう。

 その他、事務的な仕事は教育を狭義に捉えるか広義に捉えるかで、雑務にもなるし教育の一環にもなるという事項は多々あるのではないか。そのうえで直接の教育以外の事務は事務員が行うことを、要は家庭や生徒が許容すれば教員の仕事から外せるはずだ。

 大学の話ではあるが、日本では入試は「教員がやらねばならない神聖、厳正なもの」という意識が一般的にあるようだ。自分が教える学生は自分が選抜する義務があり、また権利がある、という意識らしい。

 でもアメリカでは、選抜は専門部署が大学の方針に従って実施するのが一般的で、教員はその結果として集められた学生を一人前に育てるのが仕事と考えている。明確な分業制だ。メジャーリーグも選手の獲得はフロントの仕事で、与えられた選手を使って勝つのが監督の仕事、と明確だ。

 そんな例からも「これは誰がやるべし」などというのは相対的なことが分かるし、聖性か合理性かなどと、尺度が替われば見えてくるものも違って来ると思う。教員の給料を上げるより、その分で事務員を増やして教員の仕事を減らすという政策だってあるだろう。その方が雇用政策としても有効だ。

 そんなところからしっかり考え始めないと、日本の初等教育は終わってしまうぞ、と一人危惧している。

やっぱりマズいと思うんだが。103万円の壁を一気に178万円にするってのは。

この件に関して、日経新聞に2日連続で学者先生の意見が掲載されている。観点は違えど、要は考え直した方が良いぞ、ってことのようだ。

 今日の掲載記事は京産大の八塩教授。そもそも論として「減税の仕方」が問題じゃないかという指摘。

 103万円の壁を75万円増額して178万円にすると、75万円分基礎控除が増えて減税効果があるけれど、これは逆に考えれば減税分だけ給付を行うのと同じことだから、年収2000万の人は32万円強、「毎年」国から給付を受けるのと同じこと、と考えられるのだそうだ。

 同様に年収に応じて、年収が多ければ多くの給付、だんだん少なくなって行くのだけれど、ナント! 当たり前だが税金を払っていなかった低所得者は一銭ももらえない、って仕組みとも考えられる。

 もっとも、今までは無税で働けるのが103万円までだったから、それが178万円まで広がれば75万円!も丸々収入が増えるじゃないか、とも言える。低所得者ほど効果は大きいんじゃね、とも見える。

 だけれどちょっと待て。それは自分で汗水垂らして働いた結果収入が増えたんであって、上の年収2000万円の人は今までと全く同じ働きでも「自動的に」年に32万円も手取りが増えるんじゃわい。これはイリュージョン!!

モノは言いようというか考えようというのか、そう言われたら、この政策に賛成する人なんているんだろうか。(先生もそう言ってる!)

 もう一つの記事はアジア成長研究所の八田理事長。

 こちらは大学生等の親の扶養控除に関して書いているんだが、今の制度では学生のアルバイトなどの収入が103万円を1万でも超えると、親の扶養控除から外れて、親の年収から65万円分の特定扶養控除が無くなる。

 そうすると親の税率に応じて、例えば20%の人ならば12.6万円、税金がたくさん取られる事になる。つまり世帯で考えれば1万円増えて12.6万円減る。都合11.6万円の損になる勘定だ。税率が高い人ほどこの損は大きい。

 これを逆に考えれば1点目と同じ事情が見えて来る。103万円の非課税枠が広がれば扶養控除から外れるケースはどんどん減って、親が高収入者なほど現状では掛かる税金が掛からなくなる。つまり高収入の人ほど得をする構図だ。

そこで「消費控除」なる考え方を取り入れるべき、っていうのが八田先生の意見。

 それは、例えば上記であれば、子供が104万円分働いて1万円分の収入が増えた場合、親の扶養控除から1万円だけ減額する。そうすると上記は税率20%の人だったから、親は2千円税金が増えるけれど、世帯で考えれば8千円のプラス。

 同様に子供がたくさん働いたらそれと同じ額だけ親の控除を減らして行って、世帯で考えれば差し引き常にプラス、という方式だそうだ。これならプラスはプラスでも高収入の人の方が引かれる税額は大きい。もっとも社保の件があるからそちらの対応も必要だが、と先生は言っている。

いずれにしろ、いきなり178万円まで単純に非課税枠を広げることを良しとする識者なんて、ほとんどいないんじゃないかと思えてくる。

 私は大いに疑っているんだが、国民民主党にしたって選挙前には政権のキャスティングボードを握ることになるなんて想像もしなかったんじゃないか。だから公約に「言ったもん勝ち」的な政策を高々とかがげてしまって、今になって引っ込みがつかなくなってるんじゃなかろうか(笑)。

 与野党問わず政治家にはその道のプロもいる訳で、上記の先生方が言っている事も当然知識として持ってるんだろう。だからもし自分が政権与党ならここまで極端な政策なんか掲げなかったに違いない、と私は思っている。

 野党の最大の武器は内閣不信任だろうが、今の野党ではうっかり総退陣でもされた日には大騒ぎなんだろうから、結局自民党からはとっくに足元を見られているんだろう。まあ喧嘩は相手の腹を見切った方が勝ちと古来決まっている。

 色々強気なコメントを重ねてとうとう席を蹴ったりしてるけど、もう少し庶民、特に低所得者に実のある働きをして欲しいと思うのだが。

 

 

まとめて疑問符。国会ヤジ風に言えば「エエ~~~?!」。紀州のドンファン妻無罪、斎藤知事パワハラ調査。

昨日今日のネット記事で2件。どっちも言ってはいけないのだろうけれど、私的な感想としてはまさに、エエ~~~?!

まずは兵庫の斎藤知事パワハラ調査。

 この件では県庁の財務部が行う内部調査、議会の100条委員会、外部の弁護士等による第三者員会の三者が調査しているようで、今回はその内の県庁の内部調査の報告が出たという事。

 その中でパワハラについては「職員を強い口調で指導することがあったが、パワハラと認識した職員は確認できず、パワハラの確証までは得られなかった」という趣旨の報告をしたそうだ。

 ちょっと待ってくださいよ。「強い口調で指導する」ってどんな口調でしょうか。「君、ダメじゃないかっ(怒)」って感じなのか「お前何やってんだ(怒)」て感じなのか。いずれにしても「強い口調で指導」されて今どきパワハラって感じる人が一人もいないって信じられます?

 まあ、兵庫県庁の皆さんが一様に打たれ強くて、あんなの屁でもないさと感じたのかも知れないが、昨今の報道ぶりから考えると、むしろそんなことがパワハラか?って、昭和世代ジジイには信じ難い事例の方が多いし、そんなんで首が飛ぶ上司もたくさんいるように”認識”しているんですが・・・。

 それに、知事の辞任前に発表されていた100条委員会の職員アンケートでは、見聞きした、も含めて結構なパワハラ事例が報告されていたんじゃなかったか。

 違和感満載。結局公益通報の対応を間違えたとなると、知事一人の問題じゃなくて県庁全体の遵法意識とか人権保護の意識であるとか、意識にとどまらず体質・体制の問題となって、決定的にマズイ状況になるから、あれは公益通報じゃなかったとどうしてもそこへ持っていきたいんじゃないか、と思えてならないんだけど。

二つ目は紀州ドンファンの元妻に一審判決が出て、無罪だそうだ。

 まあそれ自体、裁判なんだから論理による闘争と思えば、このケースのように決定的な物証が無い場合に、どういう結果になるかは門外漢には分からない話だし、多分これからも控訴だ何だと続いていく話なんだろう。

 その中で「エエ~~~」というかまあ立証は不可能だわなと思うのが、覚せい剤過剰摂取の方法に関する、検察、弁護双方の言い分。

 致死量的にはカプセル30錠くらいが必要とのことで、検察は「30錠もの薬を誤って飲むなんて考えられない」という立場だそう。一方の弁護側は「30錠もの薬を意思に反して無理やり飲ませることなんか出来っこない」という立場。

 まあどっちも「なるほど、ならそうかあ」、ミルクボーイか、ってことになりそうなんだけれど、私的には「誤って飲む事はあり得ん」派かな。意思に反して飲ませるのはなんか方法がありそうに思えるが、確かに間違って薬30錠はありえんよなあ。その可能性があるとしたら自殺だろうな。

 まあ他にもいろんな「状況証拠」はあったみたいだけれど、弁護側が「灰色をいくら塗り重ねても黒にはならない」と言ったそうで、それもまた絵の具の世界なら「でも相当黒くはなりますよね」と言えなくもないけど、論理の世界ではその通りで、詰めて行けば無罪なんだろうなとは思うところ。

 

 そんなこんなで、正直そういう結論は予想していなかった、という個人の感想に過ぎない話なんだけれど、結構「エエ~」だったので書いてみました。

 

 

企業献金の問題って、要は「お前ばっかりもうけすぎだぞ!」ってことなんだろう?

企業献金の議論はもうまとまりようもないと思うんだが、本音はみんなが活動資金は欲しいんだろう。お金はいくらあっても困らないはず。落としどころは「こっちにも回せよっ」て一点しかないんじゃないか(笑)。

 日本の政権は、前にも書いたけれど、1955年来ほとんどずっと自民党が担って来た訳で、その間戦後復興も含めて政財官一体で国づくりに励んで来た歴史がある。

 その中でこのトライアングル間にものすごく太いパイプができている事は、これはもう否定できない現実。お互いに切っても切れない関係というか、その関係がなければ動かない国、社会になっているとも思う。

 そんな中で企業献金は悪だとか、政策をゆがめるだとか言っても自民党がハイそうですかなんて言うはずもない。

 まして共産、れいわを除けば、野党は労組系の政治団体からの寄付をたんまりもらっている現実があって、要はお前ら自民党だけ稼ぎすぎだ、不公平だってのが本音だろう。企業献金系の抜け穴が完全にふさがれたらお互い困るんじゃないかと、自民党から足元を見られている。

 さらに言えば、国民なんて色々言って「言う事聞かなきゃ補正予算成立しないよ」とか脅しくれて粋がってるけど、じゃあ行く所まで行って内閣不信任でも出すことになって、間違って自民が下野したら野党連立で政権運営できるなんて、今のところ自分達も思っていないし絶対に困るとさえ思っていて、二重に足元を見らている。

 なんてことを、こんなオヤジにまで見透かされている中で、やいのやいのと「自民党が腰が引けてるんです」的イメージ作りのために連日国会で騒いでいて全く生産的じゃない。こんなの何の意味があるんだ。

そもそも論として、石破総理も言ってるけど、民主政治のコストはだれが負担するべきなんだってところからしっかり議論すべきだろうな。

 民主政治に関して我が国の先生であるアメリカなんかを見れば、応援したい人がたくさんついて活動資金が潤沢な人が大きな仕事もできるっていう、自由主義経済の国における大原則に則っている様子がうかがえる。

 日本の場合には政党交付金やらなんじゃら文書交通費みたいな、税金で基本的な活動費は賄われている訳だけれど、自ら、例えば勉強会をやったり、個人的にいろんな専門の有識者と頻繁に会って意見交換したり、あるいは海外での個人的な関係づくりをしたり、動けば動くほど資金が必要だし、そういう議員の方が良い仕事をしてくれる可能性は高いだろう。

 また、経費の中では何より人件費が大きいと言うが、それも十分理解できる話。例えば大企業のめっちゃ忙しい社長なんて秘書団が常に動いているけれど、個人事業主なんて何から何まで自分でやっている。さらに議員立法なんてしようと思えば、政策ブレーンを自前で養えるくらいじゃなければ到底できないだろう。

 そう考えれば、仕事をやりたければ資金も稼がなければならない訳で、逆にあいつは仕事をしてくれそうだと思えば、ある種のロビー活動も込みで金も集まって来るのが自然じゃないか。

 ただそこで、金の奴隷になったんじゃダメなんで、入りも出も1円単位で、要は普通の企業会計原則に準じて帳簿を整えてデジタルで公表すれば、全有権者の監視の目を入れることができる。そのうえで「どうもあいつは金に転がされている」と思われれば(大事なことは「思われる」だけで)選挙の洗礼を受けることになるはずだ。

 それで不足なら会計検査院の目を入れても良いだろうし、単純に税務調査の対象にしたって良いのじゃないか。何も政治だから聖域扱いする必要なんて何もない。

 そんなこんな考えれば、自民党も腹を括って「悔しかったら自分も稼いでみれば?」って言ってみたらどうか。大紛糾で内閣不信任なんてのも、野次馬としてはちょっと見てみたい気もする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通勤手当と社保料。こんなことで思ってしまった自由と自己責任、なんてね。

今朝TVを見てたら、年収の壁問題に関係するんだろうか、ネットで「通勤手当にも社保料がかかるっておかしい」という論調が盛んだそうだ。

 確かに106万円までの収入であれば社保料を納める必要がないっていう根拠には、それくらいは仕事をするうえでの必要経費だったり、最低限の生活を営むのに必要な金額だという事があるんだろうから、通勤手当なんかも完璧な必要経費だろうし、なんで通勤手当を社保料計算の中に含めるんだ、って気持ちは分からんでもない話。

 TVで紹介されていたネットの投稿は「同じ給料の人と比べたら、遠くから通勤している自分の方が社保料が高くて手取りが少ない。こんなのおかしい。」とか「そもそも通勤手当が計算の対象に含まれてるなんて知らんぞ。」とか。

 まあこれも心情的には分からんでもない、というか確かにそう思うよな、とむしろ積極的に同意。

でも冷静に考えると通勤手当って、やっぱりこれはマゴウことなき収入だわなあと思う次第。

 自身の経験で考えても、通勤手当を満額払ってくれるバイトなんて記憶がない。払ってくれてもせいぜい500円までとか。要はバイト先まで交通費がいくらかかるか、承知で応募したんだろう?と言われればそれまでの話。嫌なら応募しなければいいんじゃね?となるだけ。

 とは言え人手不足で兎に角人を集めたいとなれば、時給が上がる上にその他条件も連れて上がっていくだろう。であれば交通費は「雇用条件の一部」であることは明白な話。決して会社が当然支払うべきものなどではない。

 聞いた話で直接知ってる訳じゃないけど、アメリカなんて正社員だってこの方式で、あなたのスキルや能力、アウトプットにギャラを払うんであって、会社へ来るのにいくらかかるか、それはあなたの問題ということだそうだ。

 だから自ずと、郊外の広い庭があって、静かな環境の良い所に住めるのは、通勤などにそれだけの時間や費用を負担できる高給取りに限られるんだそうだ。逆にオフィス街に近くてしかも環境の良い所に住めるのもまた高給取り限定。

 そう考えると、日本では通勤手当を会社が負担するのが当然のように思われているけれども、これって長い慣習の中で、他もみんなやってるし、そうしないと人を採用できないからそうなっているだけなんだろう。

 でも新幹線通勤でも月に7万までとか「税法の非課税限度額より少額の限度」を決めているところもあるし、小さい会社だと1万までとか3万までとか、あるいは「6か月定期券料金に限る」とかいろんな独自制限をかけているのも、これはあくまで雇用条件であって、決して義務的な経費補償ではない、と考えるのが正しいんじゃないだろうか。つまりは収入である。

日本では職業選択の自由や契約の自由(誰と、どういう内容の契約を、結ぶも結ばないも、自由)や移動の自由などなど、基本的には大概は自己決定できる。

 そこには裏側に「自己責任」が張り付いているはずなんだけれども、例えば通勤手当のような、世間の常識とか慣習とかになっている対象だとそんな意識は結構希薄になりがちだとは思うよね。

 でも、どこに就職するかもどこに住むかも自由が保障されている以上、無茶は承知で言えば、通勤費が高いと思えば会社を変えるも住居を替えるも、それは自分の自由である。誰もそれを咎める権利はない。だから、それに関して不利益だの不公平だの言うこと自体が、まあ間違いではあろう、ということになるんじゃないか。

 繰り返すけれど心情的には良く分かる。制度が不公平じゃないかって気持ち。でも制度は「収入段階に応じて社保料は払ってもらいます」って言ってるだけでそれは全然公平。論点は通勤手当が収入か否か。

 で、そこは「収入」だろうと考える、って事。であればこそ税法は非課税枠を設定した。けれど、社保は免除制度を設定していないってだけの話なんだろう。

 同じ国なのにおかしい!って声が聞こえてきそうなんで、まずはこれまで。

国立大学の値上げ、ドジャースの開幕戦チケット、日本の自由主義経済の夜明けだ!、って大袈裟だけど。

国立大学を含む大学が授業料を値上げした、あるいはするっていう日経の記事。一方でドジャースの日本での開幕戦チケットの予約もそろそろ始まるらしい。

 大学の値上げは東大でもせいぜい11万円くらいの話だから、絶対的な金額で言えば最近の諸物価高騰に比しても、まあ大したことではない気もする。

 ドジャースのチケットも、10人の特別なスイート席が180円万弱、一人当たりでは18万円弱ってことだし、バックネット裏でも6万円くらいとのことだから、この間のワールドシリーズが最安で12万円、ネット裏なんぞは500万円とか600万円とか、バッカじゃないかという金額だったことに比べればどうってことはない、といえばその通り。

ただこの事が示す意味は、自分としては果てしなく大きいと感じる次第。

 例えば大学の授業料は国立といえども2割の値幅は自由裁量があったのに、長い間ずっと”何ものか”に縛られていた。

 言い方は悪いが、世間の評価が高かろうが低かろうが、教員や設備が充実していようがいまいが、就職に強かろうが弱かろうが、駅近だろうがど田舎だろうが、全国一律で年間54万円弱だったのが、ここへ来て少なくとも自信のあるところは値上げに踏み切ったのだから、要は初めて国立大学間で「価格差」が付くという事。

 野球のチケットにしても日本では「いくら何でも相場ってもんがあるよね」という事なんだと思うが、アメリカ的には「今のドジャースカブスにいくらの価値があるか、いくらまで客は払うか」をきちんと分析評価して来る訳で、何となくの相場感なんて端から頭にはなさそうだ。

 日本でこの類の考え方が普通になっているのは、多分ホテルが先端を行ってるんじゃなかろうか。といっても結局は外資系ホテルが引っ張って日本のホテルも追従した形だろうけど、それでも一泊15万円程度は今どき驚かない。

 それでも、世界レベルでの富裕層に対応できるホテルが日本にはまだまだ足りなくて、その層の取り込みが十分には出来ていないという。

 本物のセレブは専属のコンシェルジェまで付いて、一泊最低でも30万円くらいはしないと選択の対象にもならないのだそうだ。

 そういう感覚と、銀座辺りの”中身はともかく高い店でなくては困る”といった、接待社用貴族が高額客の代表である日本とでは本質的に違うようで、日本では相場を離れて価値に値付けする習慣は、まず育ちようもなかったのだと思う。

 その意味で日本は民主主義国ではあっても経済体制は十分に社会主義的な国であったのだし、超高額所得者もいない、分配もうまく機能して格差が極めて小さい社会構造が保たれてきた。

 それならそれで、私としては、国立大学だけは大昔のように、学費が年額一桁万円と学生のアルバイト代で賄えるくらいのまま、お国のための研究機関、人材育成機関として割り切ってしまえば良かったのだろうが、そんなことは言っても後の祭り。

 今まさに我慢の限界を迎えて、国立大学は値上げしないと世界に伍していけませんとなったのだから、日本が完全に自由経済に転換しようとしているのだから、国立大学といえども国家が余計な介入はしないで、市場に任せてくれたら良いんじゃないだろうか。

 そうすれば、東大や京大の価値は学費300万でもおかしくないだろうし、個人的にはそうなるべきだと思う。国がなすべきは、学費が払えないから進学できないといった家庭の学生をいかに支援するかだけであって、大学を統制すべきではない。

 同じことがスポーツでも芸術でもエンタメでも、あらゆるところで「市場が決める」原則が働く事になるし、それが医療や福祉などにも影響を与えるだろうが、それでも各々が自分のレベルに合った選択ができる限りは健全な社会として機能すると思うんだが、どうだろうか。

 その時に、貧乏人もちゃんと生きていけるように、そこだけは国家がきちんとセーフティーネットを整えてカバーしてくれれば良いのではないだろうか。