選挙前に人権意識が問題になるなんて
いやね、例えば政策としての福祉の問題で、最低限の社会的幸福の最低限の部分が取りざたされるってのは今までだってあったと思うんですよ。でも、人権そのものが天与のものでないという、近現代の国家の概念に挑戦するような発言が出てくるとは思わなかった。悪辣なことに、ムスリムをその国家の基礎とした国と比較しちゃったり。
熱に浮かされたかのように右傾化しつつある我が国だけど、ここで示されているのは特権階級と、そのお恵みをありがたく頂戴する民衆という構図だということに、自分が賛同者側である人たちは気づかない、あるいは特権者側であることを疑いもしない。
なんとなくだけど、学生運動さかんなる頃のインテリ層(not富裕層)が抱いていた焦燥感みたいなものの空気感がわかった気がしている。もちろん、その時とはイデオロギーとしては大きく異なるけれども、国家、あるいは政治への不信MAXというものである。
国家は誰のものか。言うまでもなく国民のものだし、しかし言うまでもなく一部の人のものである。その一部のものでない身としては彼らが国家は国民のものであることを胸に刻んで運営してくれることを願うしかないのである。でも。
国民であることの資格を国家が人間に問うのはある程度仕方のない面はある。しかし、それは国民になった経緯でしかない。たまたまそこに生まれたこと以上(語弊がないように言っておくと、外国籍の親であることはこの単純化に対しては考慮すべき問題)に資格が必要なのか。人権を得るのに必要なものがあるのか。
人権が天与のものでないなんて言うのは今の日本においては典型的な差別意識であり、階級社会の肯定である。格差社会どころじゃないよ。そりゃあ人権が天与のものであることを否定できる理屈なんていくらでもあるさ。でも、天与のものであることは前提なんだよね。前提を変えるのは理屈の成せるのもではない。
すなわち、あの一連の発言は、今まさに人権を奪われようとしている人々に、闘争か、あるいは服従か、の選択を迫っている。むろん、立場の弱い人間には服従以外の選択はないかもしれない。あるいは尊厳を持った死か。
であるならば、これはインテリに対する挑戦とみなすべきだ。まずは選挙で、その結果によってなされることがこの考え方の延長にあるなら闘争で。国家の後退を許して良いものかね。
こんなことを続けていたら何もしなくても10年もしないうちにはっきりとした変容が見えてきて、数としては支持を失うだろうけど、その時にはもう民主主義そのものが変容しているかもしれない。そうなったら手遅れだ。
憲法改定案についても、ダメなところがあれ好意的な解釈ができるとは思う。しかし、それを提案している側が、このような意識の人間ばかりであるということがわかった以上、最大限の懸念を表明している向きに賛同せざるを得ない。
本来、今回の選挙はエネルギー政策も含めた経済の問題が焦点だったはずだ。どさくさに紛れて、国のあり方を階級意識の元に変えてしまおうとする勢力に対して投票していいものだろうか。