ヤマナカ先生が家に帰らない話
ヤマナカ先生。
娘②の執刀医。
外科医界隈最高峰位・小児心臓外科医。
この系統の医師はナースはじめコメディカルの皆さんから言わせると
『優秀すぎて色々狂ってる界隈の人』
だそうだ。
勿論、本名ではない。
本名でこんな事を書いて本人にもしそれを知られる日があったら
IC(インフォームドコンセント)が相当気まずい上に
私は恥ずかしくて恥ずかしくて自らの腹を召す。
そこの貴方に介錯を頼む。
この件は皆んな黙っていてほしい
まじで。
だから此処では彼をヤマナカ先生と呼ぶ
先生の面差しがノーベル賞医学賞受賞者、IPS細胞でお馴染みの山中伸弥博士にとても似ているからだ。
何かを突き詰めた人は顔が似てくるのだろうか。
あの世界のドクター・シンヤ ヤマナカの禅僧のように悟り切ったご尊顔と
『教授』『小児心臓外科部長』
その重々しい肩書きに反して柔和で柔らかい物腰。
尊大や傲慢とは3万光年位遠い腰の低さ
尚、先生は部長ではあるが『小児心臓外科医』は、娘②の通院先の大学病院にはヤマナカ先生一人しかいない
私はこれを
リーダー俺
サブリーダー俺
メンバー俺システムと呼ぶ。
教授先生なのに。
外科チームお揃いの大学名入り濃紺のドクタースクラブに白衣を引っ掛け、手術室とICUと病棟とたまに大学構内を駆ける。
それが私が信頼して、尊敬して止まない娘の執刀医、ヤマナカ先生。
娘②の命を預けられるもう一人の医師
人呼んで
家に帰らない男。
◆
ヤマナカ先生との初対面は、娘②の最初の心臓手術の直前
2018年の春の事
この3月、娘②の入院する小児病棟は今思えば多分、異常事態を迎えて混乱していた。
そもそも循環器医療専門病院ではない娘②の大学病院に
重症・最重症クラスの心臓疾患児が二人同時入院していたのだ
一人は娘②
もう一人はMちゃん
娘②とMちゃんは誕生日が2日違い、NICUで隣同士にコット(新生児用のベッド)を並べた同期の桜。
重症度が高いMちゃんが、先にNICUを卒業し小児病棟で手術治療を受けた後、彼女の退院か退院直前を待って
次の娘②が転棟、手術の筈が
Mちゃんの経過が思わしくなく、諸々がずれ込み、娘②を足止めして預かってくれていたNICUも当時満床・飽和状態。
この6キロもある乳児はNICUではデカすぎですそろそろそっちで預かってと娘②を放出したのだ。
実際娘②はもう新生児用コットに収まらず、別誂のベビーベッドに寝かされて、その大きさはNICUで異彩を放っていた。
それはさて置き
兎に角なにかと手の掛かる重症心臓疾患児二人を抱え、更に春休みの学童組も加わって小児病棟の現場は混乱していた。
何しろそんな患児を担当できる医師が内科は一人。外科は一人しか居ないのだ
その内の一人、内科担当の小児循環医こそ
説明は雑だが治療は的確、担当患児の数は数えるだけでもこっちが心不全を起こしかねない繁忙さが売りの、スティング先生。(参照:私の苦手な娘の主治医のはなし)
勿論あだ名だ
私が個人的につけた。
イギリスのロックシンガーのスティング似のグッドルッキング老年医師。
普段、その忙しさの中、とんでもない数の外来、入院患児の担当をこなす脊髄反射の循環器医も流石にこの時は
「俺に〜今〜話し〜かけるな〜」
というオーラに包まれていて、私ごときが
「せせ先生、しゅ手術日はいつになりそうですか?」
などと聞ける状況と雰囲気では全くなかった。
実際、NICUから小児病棟に引き移って1ヶ月近く、手術の予定は未定だった。
手術室自体が動かせても、その後の回復期用の施設であるICUやPICUが術後の心臓疾患児一人を預かるだけでも
とんでもない数の機材と人材と医師の労力を要するのだ。
そこが空かなければ、娘②のオペは出来ない。
そう、申し訳なさそうな病棟の担当ナースに説明を受け、12月に母子周産期医療病棟で産んだ娘②がNICUで育ち、そのまま転棟した小児病棟で3ヶ月後半を迎える頃
スティング先生は言った
「お母さん、手術日、今月26日」
まじすか。
日程は直近だった。
「明日、執刀医の先生から術前の説明あるから、お父さんいつ来られる?」
アイツならいつでも来させます。
何なら今からでも。
私は速攻で夫に電話を入れ
『明日来い、すぐ来い、何なら今すぐ来い。執刀医がお呼びだ。』
そう伝えた。
手術を受ければ、娘②は家に連れて帰る事ができる。
この1ヶ月、小児病棟で待ちくたびれていた私はただただ、嬉しかった。
◆
術前説明、当日。
「K先生(ヤマナカ先生)の説明長いですから」
とナースステーションに娘②を預かって貰って向かった面談室。
生まれて初めて対面する
『小児心臓外科医』
娘②の心臓を何とかできる小児循環器医スティング院内先生唯一の相棒。
初めて会うそのドクターは、その姿勢が至極丁寧で穏やかで、言葉尻と物腰は柔らかく、失礼を承知で言うとスティング先生の対極だった。
緊張する私達夫婦に優しく微笑みながら
「はじめまして、娘②ちゃんの執刀医のKです。」
「色々とご心配でしょうが、疑問に思う事は何でも聞いて下さい」
「さ、お母さんおかけになって」
挨拶をして、まず私に着席を促した。
私はこの時、生まれて初めてレディをファーストされた。
そんなジェントルマンな心臓外科医、ヤマナカ先生に私はまず聞きたいことが一つだけあった。
「どうして娘②ちゃんの心臓は、こんなことになったんでしょう」
ヤマナカ先生に促されて着席した私がその質問を先生にぶつける前
先生はまず口を開いた。
「お母さん、娘②ちゃんの心臓疾患は重度で大変なものですが」
「それは妊娠初期の偶発的な要因によるもので」
「決して、決して、お母さんのせいではないんですよ」
私を真っ直ぐに見つめて、噛んで含めるようにそう言った。
妊娠して娘②の心臓疾患が発覚した22週目から
ずっとずっと考えていたし、今も偶に考える事だが
なんでこんなことになったんだろう娘②の心臓は
私の生活態度が?
私の年齢が?
あと私、何かしたか?
先天疾患、障害、後天性の疾患それぞれを得た子の母親が皆一度は絶対考える事
『私のせいでこうなったんじゃないの?』
それだけに、この日のヤマナカ先生の言葉はとてもとても嬉しかった。
今でも、余裕で脳内再生できる。
勿論それで全てを納得出来た訳ではないが、
しかしこの外科最高峰位・小児心臓外科医がそう仰ったのだ。
私はIC開始1分で泣きたくなった。
が、
泣けなかった。
ヤマナカ先生が
「では、此方で娘②ちゃんの心臓疾患の状態と、手術と、術後の予定について説明していきますね!」
和かにファイルから出してきたA4サイズ縦とじの資料が大体30枚くらいあったからだ。
しかも一人、一部。
ヤマナカ先生の術前ICは凄いとは聞いていたが
どちらかと言うと、これはくどい。
そして生物の知識が遥か太古昔の記憶になっている頭の錆びた主婦の私には
つらい。
しかし、ヤマナカ先生は私の顔色など一切意に介さず
『さあお父さんお母さん、生物はセンター入試レベルの知識位はありますよね』
を大前提として説明をし出した。そうは言わなかったが絶対そう思っていた、あの顔は。
何しろ相手は受験も最高峰を上り詰めた男、医師だ。
エベレスト級と言っていい。
そんな前提条件は一切満たしていない私だが、ヤマナカ先生が「それもう要らないからパパにあげる」とか言ってお子さんから貰ったっぽい
『サクラ色鉛筆12色入り』
の赤と青を使って動脈血と静脈血を表しつつ話してくれる娘②の血行動態を上の空で聞くわけにはいかなかった。
先生は今回の手術で娘②の右肺動脈と大動脈を繋ぐバイパスとなる人工血管について
「僕は4mm..う〜ん、4mmでいいと思うんです!3.5mmではいずれ持たなくなると思いますから」
「まあ、はじめのうちは若干ハイフローになりますが..」
「そこはY先生(スティング先生)と僕の意見が分かれるところです」
そう、小児循環器医(内科)のスティング先生と小児心臓外科医のヤマナカ先生は、ペアでニコイチでだが
大体意見がいつも別れるらしい。
この後に及んで
まとめろ、今、ジャストナウだ。
ヤマナカ先生は、今回の手術の術式、起こりうる合併症、そして術後の経過予定、更には次のグレン手術、さらに次のフォンタン手術の『フォンタン』の意味まで私達に講義してくれた
イタリアの医学博士の名前らしい
それは、もういいです。
お腹いっぱいです。
その日のICは、ヤマナカ先生の熱心さと患児への愛と情熱が溢れていた
そして、親は疲れた。
この日の最後にヤマナカ先生は
「ご説明させて頂いた通り、心臓の手術には大変多くのリスクが伴います」
「手術自体が命の危険ではありますが」
「誠心誠意努めますので、どうぞ宜しくお願いします。」
最敬礼で私達に頭を下げてくれたので
私達も慌てて頭を深く下げた。
◆
ところで実は私の姉は看護師だ
三次救急、高度救急救命センター付き総合病院の手術部看護師
略してオペ看
とはいえ実家の寒村の病院なので姉曰く
「来るのも切るのもじいさんとばあさんばかり」
らしいがその姉が
「娘②ちゃんの執刀医は教授先生なんやろ?」
「それなら初めから手術室に来る事はまず無いよ」
「大体切開して良いとこまできたら『ハイハイお待たせ〜』って入ってくる筈だから」
と言っていた。
入院手術が未知との遭遇の私は、そうかそういうものなのかと思っていたのだが。
手術日当日。
朝イチの手術を待つ手術室の前室には、子供というか乳児は娘②一人だけであとはお年寄りばかりで
私に抱き抱えられた娘②は割と目立った。
お隣のおばあちゃんは
「まあ、こんなに小さいのに..可哀想ねぇ」
と言って涙目になっていたが、おばあちゃんも手術ですやんか、今日。
など思っていた矢先
「おはよう!娘②ちゃん、今日先生と頑張ろうな」
モスグリーンの術衣を来た男性が声をかけてきた
ヤマナカ先生だ。
お る が な
き と る が な
「おはようございますお母さん、人工血管ですが、やっぱり今朝4mm になりましたから!」
今朝決めたんかい。
私は、驚くやら呆れるやら、しかし先生が見知らぬスタッフだらけの手術部に颯爽と現れた事に安堵して
「おはようございます。今日は娘②をよろしくお願いします」
人生最高角度の最敬礼を返した。
この教授先生
麻酔科医の入室から同席して前胸部正中切開も自ら行う気なのだ。
そして
娘②は手術部のナースの手に渡された。
手術室の扉が閉まる時、娘②は隙間から不思議そうにこちらを見ていた。
がんばれ
がんばるんだよ娘②。
◆
この時、時間は午前9時。
娘②の手術は開始された
手術中、家族は手術室前の待合に必ず誰かが待機する。
私達夫婦は手術室の扉一つと広い廊下を挟んだ大きな壁掛けのテレビと椅子が整然と並ぶこの部屋で二人、娘②の生還を待つ事になった。
今回の手術は、一言に『心臓手術』と言っても
右ブラロック短絡
左肺動脈形成
心房中隔欠損形成
主肺動離...
長いからもう
以下略。
兎に角、術式項目が多い上に今回は人工心肺を使い心臓の中を開ける、開心術。
「手術時間は6、7時間をみています」
という説明を受けていた
ザ・心臓・大改造ビフォーアフター。
こういう時、テレビドラマや映画などで私は
「...神様..」
と言って待合室の椅子に腰掛け神仏を伏し拝む両親の画をよく見てきたが
実際、手術室前の待合で子供の生還を待った私は遠くの天の父なる神に祈るような事はしなかった
私達の神は今、眼前の手術室にいた。
ヤマナカ先生お願いします
娘②を、助けて下さい。
◆
そうして始まった手術だが、時間は流れまくって夕方5時。
手術室の扉が閉まって早、8時間。
予定時間を既に1時間超過しても、まだ私達には何の連絡も無かった。
私達夫婦はいい加減待つ事に疲れ果てていた、人間、座りっぱなしでただ待つのも疲れる。
加えてその精神状態。
緊張と心配が過ぎてもう逆にハイになっていて、
「ほんまに手術してんのかな」
「実は『ウソでした〜』とか言われたりしてな」
という実のない会話を延々と夫婦で、繰り広げ『腹が減ったから何か買ってくるわ』と下界に降りた夫は何故か
『食パンを二斤』
買ってきた。
これがわが家で今もこの入院中最大の珍事として語り継がれる
『手術中食パン事件』
である。
何でそんな事したんや夫。
そんな「扉の向こうに心臓を人工心肺にチェンジして前胸部正中切開」の乳児の娘②という異常事態に連動して脳内がバグを起こす両親に、やっと手術部看護師から手術無事続行中の伝令が飛んだのが17時半。
ヤマナカ先生の伝言を携えたナース二人が
「時間は超過していますが、手術は予定通り行われています。」
「もう少しお待ち下さい」
少々申し訳なさそうに伝えてくれた。
が、
もう少しっていつ?
何時何分何秒?
地球が何回回った日?
私達夫婦は肩を落とした。
まだ待つのか...
ここでまたオペ看の姉の豆知識を引用すると
「手術時間が長時間に及んだとして、私が知る限り執刀医は飲み食いなどしない。故にトイレにも行かない」
という事だ。
この時
神が手術室で術式最難関と評される小児の心臓手術に挑んでいるというのに、私達はパンをむしゃむしゃ食べた
もうやけくそ気味だった
長すぎやろ実際。
人間は8時間も継続して心配したり祈ったり泣いたり出来ないものなんだと私はこの時知った。
娘②は、娘②の心臓は今どうなっているんだろう。
疲れと心配と緊張とで
私達はかなりおかしかった。
◆
長い長い長い一日に終わりが見えたのは夜8時半。
もう手術開始から11時間半が経過していた。
もう待合室には私と夫しかいなかった。しかも廊下の電気は消灯され、あそこに双子の姉妹が現れたりしたら相当怖かったと思う。
そんな中
「お父さんお母さん、大変お待たせしました。手術終了です!」
ヤマナカ先生自ら手術の無事終了を伝えに来てくれたのだ。
手術終了を告げに駆けて来る
この時この瞬間の外科医とは、世界で一番男前だと私は思っている
世界で一番男前だ
大事な事だから二回言う。
もう一回言ってもいい。
もう、佐々木蔵之介と綾野剛と、山下智久が束になったってあの時のヤマナカ先生には敵わない。
兎に角輝いて見えた。
例え、返り血が飛んでヨレヨレになった術衣を着て
あのお風呂やさんでおばあちゃんが被ってそうな透明ビニールの帽子を頭に被っていようと。
後光すらさして見える。
ありがたや。
「取り敢えず、予定の手術は全て終えました」
「今からICUに娘②ちゃんを運んで諸々点滴や呼吸器を繋ぎますので、ご案内しますね」
「胸の傷も、僕が埋没法でかなり細かく縫いました、まあ今日は痛々しく映るでしょうが」
また看護師の姉からの知識だが
「身体の中の術式諸々が終わってしまえば執刀医は最後の縫合なんかは大抵若手に任せる」
事も多いらしいが
今、
「僕が縫いました」
って言いましたか?
言いましたね?
ヤマナカ先生は何と
この11時間半の
マラソンなら『サロマ湖ウルトラマラソン』級の手術を執刀医として全時間中抜けなしで走り切ったのだ。
娘②と私達夫婦と一緒に。
因みにウルトラマラソンの走行距離は100Kmだ。
ありがとうございます
ありがとうございます
私達は二人して低頭平身、ヤマナカ先生にお礼を言い、娘②が待つICUに急いだ。
娘②は機械だらけの個室で、人工呼吸器に繋がれて眠っていた。
胸にかけられただけの病衣から覗く新しい傷口は痛々しかったが、あまり苦しそうではなかったのには安心した。
頑張ったね娘②。
偉かったね娘②。
◆
「御宅はお近くですし、何かあれば直ぐに連絡しますので今日はお帰りになって下さい。」
「明日、また面会時間にいらして下さい。術後の説明をさせていただきます。」
そうヤマナカ先生に言われ、帰宅した夜11時過ぎ。
私も夫も疲労困憊だったがヤナマカ先生はもう、その比ではないだろう。
流石の先生も帰宅するだろうし、明日はICUのどなたかが術後経過について説明してくれる筈。
外科の若手の先生かな。
私は約1ヶ月ぶりに自分の布団で眠りについた。
入院中は娘②の高い柵のあるベッドの隅で寝ていた私は、病院に術後直ぐで予断を許さない娘②を残してはいたが
正直、凄くよく寝た。
そして私が娘②の面会のためICUの扉を潜った、翌日。
「おはようございます!娘②ちゃん、今のところ順調ですよ!」
お る が な
き と る が な
ヤマナカ先生が。
貴方、帰りませんでしたね?
そうですね?
ヤマナカ先生は11時間半のロングオペを、走り切ってその後
術後24時間が勝負と言われる心臓疾患児の娘②にずっとついていたらしい。
患児の父と母が自宅で寝ていた間に。
勿論仮眠位は取っただろうが
私はもうここの床に穴を掘って、そこに頭を突っ込んで土下座しなくてはならない。
ヤマナカ先生はいつもの清潔な濃紺のドクタースクラブに白衣を羽織って爽やかに
「色々繋がれていて、見た感じはご心配かと思いますが、順調に回復していけば一つ一つ外れていきますから」
そう言った、その娘②は
私が目視で記憶しているだけでも
26台の輸液用シリンジポンプ
2台の人工呼吸器
3台の吸引器
バイタルモニター
導尿パック
に繋がれていた。
もう、機械だらけだ。
娘②の顔は昨日よりなんだか浮腫んで顔色も悪く
「なんか顔が四角くないですか...?浮腫み..?」
と私が聞くと
「術後は皆んな浮腫みます、尿が出てきてくれるとだいぶ違いますよ。」
「まずは尿!尿が出ると、第1ポイント通過です」
「尿ですか!」
「尿です!」
「尿ですね!」
二人して尿尿言い合った。
今考えると何なんやこの会話。
しかし、当時の私は真剣だった。
術後回復が思わしくなく、再手術になった子も知っていた。
なんとかこの24時間を無事脱して欲しかった。
そして先生は
「僕は一旦奥に下がりますが、基本待機していますので、何かあれば即対処します。」
「お母さんは、今日はまだ一日目ですから時間は気にせず娘②ちゃんについていてあげてください」
「心配な事があったらいつでも呼んで下さい。来ますから!」
代わりにと、ICUの担当ナースがやって来て私が娘②の為に持ち込んだオムツやら、タオルやらを確認してくれた。
私はヤマナカ先生と入れ替えで娘②の部屋に来てくれたこのナースに
「ヤマナカ先生、昨日11時間半執刀されて、今朝またいらっしゃるんですけど...」
「しかも、いつでも来ますって今」
恐る恐る聞いてみた
ら
「ええ、先生は帰ってませんよ!」
なんやて工藤。
「先生は術後、患者さんの状態が安定するまで基本帰らないんですよね〜」
せやかて工藤。
「でもでもでも、11時間半もオペして、それから帰らないんですか?」
「そーなんですよう、家にいたら心配で余計に疲れるとかで」
「先生の住所はもう、オペ室か、ICUです」
住んでんのかいここに。
それは冗談でも何でもなく
その日から、毎日私は娘②の面会に訪れたがヤマナカ先生は
「あ、どうも!お母さん!」
毎度颯爽と現れ、ある日なんか娘②と
『おかあさんといっしょ』のDVDを見ていた。
本当にもう帰って寝てほしい。
いくらこのICU滞在中は、ヤマナカ先生が名実ともに娘②の主治医だからと言っても
50歳オーバーでこんな生活をしていたら娘②の最終手術の執刀より先に早晩死んでしまう。
心配していたICU1週間目。
小児病棟PICUへの転棟が決まった。
よかった、これは順調に回復しているという事だし何より
ヤマナカ先生はこれでおうちに帰る。
実際奥様やお子さんは
「パパなんか呼んでも来ない」
位に思っているに違いない。
このままでは先生の老後が危ない。
やれやれ良かった。
そう思い、荷物を纏め、ありがとうございました。次は多分1年後位にまた来ます。
そう言って4階ICUを後にした。
◆
翌日からは、ただいま。勝手知ったる小児病棟。
PICUはまだ通いで面会だが、ここまで来たら一般病室での付き添いまできっとあと一息だ。
そう思って面会の為にPICUの扉を開けたその時
医療廃棄物用のゴミ箱にの裏に張り付いている白衣のドクター
それは
ヤマナカ先生
何やってんですかアナタ。
思わずそのまま口に出た
「先生何やってるんですか!?」
「しーっ!お母さん。娘②ちゃん、意識がはっきりしてきて、僕の顔見ると泣くんです」
「術後はあまり泣くとしんどいですから」
「隠れてバイタルチェックと傷口の確認を」
しています。と皆まで言わせず娘②は先生に気づいて泣き出した。
「あーごめんごめん。でも、傷口は綺麗だし、あ、糸も出てないな」
じゃあ、僕またガーゼ替えにきますから。
と言ってヤマナカ先生は巣に
じゃなくて
4階ICUに戻っていった。
今日は面会中現れないな。流石にもう帰って寝たかと思った日も
ナースが来て
「ヤマナカ先生、明け方ガーゼ交換に来ましたよ〜」
そう暴露した。
PICUのナースにしてみれば先生は
『心臓疾患児術後の風物詩』
のようなものらしい。
何という神出鬼没。
ガーゼ交換くらい若手にやらせたらどうなんですか教授。
流石に心配になって一度だけ
「先生、もうお家にちゃんと帰って下さいね」
といった事がある。
ヤマナカ先生は
「うん、娘②ちゃんがお家に帰ったら僕も帰りますよ」
と言ったが、それは嘘だ。
次の患児がまた直ぐに先生の元にやって来るのだから。
◆
ヤマナカ先生は今日も
執刀医俺!術後担当医俺!全部俺!
で病院中を走り回っているだろう。
『この患児を生きて家に帰す』
その執念と情動で先生は今日も手術室とICUと病棟とを駆け回る。
そして患児の術後安定まで家に帰らない。
それが良いかどうかは
良くない。
その病児に対して真摯過ぎる態度と技術は私達家族をも救ってくれている。
が
いい加減家に帰って寝てほしい。
私はヤマナカ先生を信頼して尊敬して止まない
が、
ちょっと呆れている
色々過剰すぎるのだ。
ヤマナカ先生
娘②の執刀医
人呼んで
家に帰らない男。
いい加減家に帰って寝てほしい。