「こ、根拠は」「私が合衆国大統領だからだ!」自由の国から自由が消えた日~戦時下のアメリカ編~
あの男が帰ってきた
ようこそ、ホワイトハウスへ。
君がどの種類のアメリカ人かは知らないが、このダイエットコーラはサービスだから、まずは飲んで落ち着いて欲しい。そこの民主党員の方、お気持ちはわかりますが、銃は捨ててください。ホワイトハウスをファイトハウスにしないでください。撃ってもどうせ躱しますよ、彼は。
選挙という民主主義国家最大の儀式の後には、「我が国の民主主義は死んだ」という祝辞から始まる右派左派の合同結婚式が挙行され、膨大な罵詈雑言と若干の学識が入ったブーケの投げ合いが伴うのが常である。「分かれたる家」と化した現在のアメリカ合衆国の大統領選挙ともなれば、尚更であろう。
「汝の隣人を愛せよ」という言葉を日曜礼拝で聞きながら、月曜日に隣人を銃撃するアメリカ人が誰を大統領に選ぼうが、我々日本人が知った事では無いと言いたいのは山々であるが、我が日本国はアメリカの同盟国であり、その拡大抑止の恩恵を享受しているという不快な現実がある。もしもアメリカが弱ければ、家は焼け、西郷隆盛像はレーニン像になり、英語教科書のエレン先生は毛主席語録を抱えた唐可可あたりに変わってしまうのである。アメリカの興亡は我が国の興亡に直結する以上、日本国民はアメリカの民主主義が健全に機能するように、5円の事務手数料を賽銭箱に放り込んで八百万の神々に祈るしかない。そして、ただ祈るにしても、アメリカの民主主義がどのような試練、特に戦争という究極の緊急事態にどのように耐えてきたかを知る事は有益であると筆者は勝手に信じている。
毎度毎度前振りが長過ぎる気がするが、今回は自由の国アメリカが南北戦争、世界大戦の両方でどのように国民の権利と自由を売り払ったかをご紹介する。この記事に新たな「題材」が生まれるか否かについては、アメリカ国民が血と汗と涙で勝ち取った公民権の行使により選出された、卓越した指導者達の良心と理性に期待しましょう。今回の記事は特に娯楽としての賞味期限が短いのでお早めにご賞味ください。
まずは建前のお話です(本当に長いから飛ばしても良いよ)
奴隷所有者が起草した「すべての人間は生まれながらにして平等である」という独立宣言から始まるアメリカ合衆国の歴史は、本物の弁護士が1分のショート動画で要約できない程度には濃密である。国王陛下の植民地から英語(イングリッシュ)が少し上手い白人その他大勢の国にステップアップする独立戦争からスターウォーズの冒頭よろしく長々と解説しても良いが、ジョージ・ワシントンの入れ歯を熱く語る記事になりかねない。今回は合衆国憲法がどのように緊急事態を生き抜いてきたかに焦点を絞る事にしよう。
現行の成文憲法典で世界最古の歴史を誇る合衆国憲法の特徴の一つには、厳格な権力分立構造がある。立法権(連邦議会)、執行権(大統領)、司法権(裁判所)は、「どこ州だテメェ。オハイオ?何処の田舎だ。馬鹿にしてんのか(CV北野武)」とか言いながら自分のシマ(縄張り)を守ろうとするヤクザのように妥協し、対立し、報復し合っている。この仁義なき戦いの結果、合衆国には抑制と均衡の原理が働き、政府による専制が防止されている。
更に合衆国憲法は連邦主義を採用し、連邦政府には憲法に列記された限定的な権限のみを与え、州政府が有するような一般的な統治権を与えていない。例えば公衆衛生は州政府の規制権限(ポリスパワー)の縄張りであるため、大統領が致死的な感染症のまん延を理由に州の住民に外出禁止を直接命じるような真似は難しい。
こうした水平的・垂直的な権力分立の複雑さは、アメリカ合衆国という国の政治制度を学ぶ者に混乱と絶望と諦観を振りまくが、読者諸兄は「あーそういうことね。完全に理解した」「ぜんぜんわからない。俺たちは雰囲気で記事を理解してる」というスタンスでこのまま読んで頂きたい。筆者もわからない。
さて、このような権力分立構造もあってか、合衆国憲法は大統領が緊急事態下にどのような権限を有しているかを明示的に規定していない。野蛮で無節操な欧州大陸諸国の憲法では、議会を召集する時間が無い場合に備えて、行政権を担う大統領、国王又は内閣に議会が制定する法律と同等の効力を有する緊急命令権(イタリア、スペイン他多数)を与えている事も多い。そして、汚職政治家を無罪放免にしたり、安楽死を無理やり阻止する手段に用いるなど幅広く濫用されている。極端な例では、憲法上の全権限が配分される大統領緊急措置権(フランス)を与える場合もあり、まさに欧州は便利な「悪魔」のテーマパークである。独裁者志望の自称芸術家ならテンション上がるかもしれない。しかし、自由の国アメリカにはそんな「悪魔」は憲法上存在しないわけである。
それでは大統領はどのように緊急事態に対処すれば良いのだろうか。「非常時は権限を創設しない」というヒューズ最高裁判事の名言が示すように、大統領は緊急事態下においても憲法で平時から既に与えられている権限に頼るしか無い。すなわち憲法第2条の「執行権を有する合衆国大統領(同条第1節)は、陸海軍の最高司令官であり(同条第2節)、法律の誠実執行義務を負う(同条第3節)」という規定である。我らが日本国憲法が行政権を有する内閣の権限を具体的に丁寧に列挙してくれているのに対して、この憲法第2条はあまりにも簡潔で投げっぱなしジャーマンである。果たしてこの条文を根拠に大統領は何処までの行動が許されるのだろうか。代表的な判例である1952年の鉄鋼工場接収事件判決では、学習漫画で顔芸をしてる印象しか無いトルーマン大統領が労使紛争で混乱する全国の鉄鋼工場を連邦議会が制定する法律の授権に基づかない大統領行政命令により接収した事の是非が争われた。最高裁の法廷意見は、法律の授権に基づかない大統領による接収を「違憲」と断じた。ただ、この判決は主役であるはずの法廷意見よりも脇役である補足意見が頻繁に引用される事でも有名である。補足意見を書いたジャクソン判事は、連邦議会がどのような意思を示しているかで大統領の権限の強弱が次のように変化すると説明した。
問題となった大統領による鉄鋼工場の接収については、労使関係を調整する1947年タフト・ハートレー法の審議過程で大統領の接収権限を認める修正案が否決されていたため、③に該当するとされ、行政命令はボッシュートされてしまった。②のように法律の授権が無い場合でも大統領が権限を行使できる「黄昏の領域」が存在する事が示唆された点は注目されるが、大統領は、原則として連邦議会が制定した法律の授権無しには緊急権は行使できない事が再確認されたのである(※補足1)
それでは、連邦議会は大統領の「あったらいいな」をカタチにしてくれる小林製薬のような法律を制定してくれているのだろうか。実は大統領が緊急事態下に行使できる権限を列挙した基本法はアメリカには存在していない。1976年国家緊急事態法というそれっぽい法律があるが、あくまでも大統領が国家緊急事態を宣言する手続きを定めた法律であり、大統領が行使できる緊急権が具体的に定められているわけではない。そのため各分野毎に制定された法律が個別に大統領に授権しているのが現状である。上院特別委員会が調査を開始した1973年時点では「全ての分野にわたっていわば無秩序状態だった(浜谷英博)」と言われる程には諸法令の中に無数に点在しており、大統領がどのような緊急権を行使できるのかを誰も把握してなかった。空軍所有のコンピューター(LITEシステム)まで動員して合衆国法典を隅から隅まで探した結果、およそ470もの連邦法が「発見」されている。セルフネグレクトを決めた独身男性の居室のような適当さである。
2024年時点では、大統領又は連邦議会が国家緊急事態を宣言した場合に行使できる連邦法としては、ブレナン司法センターの調査報告によれば150以上が確認されている。流石に150もの連邦法を一つ一つ説明すると、PV数がナイアガラの滝のごとく暴落し、筆者の自尊心が世界貿易センタービルのごとく崩壊してしまう事が予想されるので、極一部をご紹介するのに止めるとしよう。あくまでも極一部であるが、全ての規定を総覧しても、やはり大統領を独裁者にするには物足りない「悪魔」達であると言える。
それでは、栄えある民主主義国家の頂点にして、西側諸国の領導者たるアメリカ合衆国の憲政制度の説明は如何でしたでしょうか。厳格な権力分立、抑制された大統領の権限、その大統領を牽制する裁判所……まさに我が国も模範とすべき姿そのものでしたね。お帰りはあちらです。またのお越しをお待ちしております。
さて……お気づきの読者もいるだろうが、上の最高裁判例や法律の殆どが第二次世界大戦「後」のものである。眠くなるような長い長い説明をしたのは、まずは合衆国憲法の平時における「建前」をご理解頂きたかったからである。数ある緊急事態の中でも「戦争」という緊急事態は、本来は抑制されていたはずの大統領の権限を無限に拡大していく事になり、まさに「悪魔」に相応しいものとなっていく。専制と圧制からの解放を唱えて成立した自由の国、アメリカ合衆国。かの国に生まれた悪魔達はどのような活躍を見せてくれるのだろうか。
①南北戦争編 「な、何を根拠に」「何故なら私は合衆国大統領だからだ!」
日本の都道府県知事が「俺は知事だぞ!」と凄んだところで、ニコニコ大百科の編集者が「私は町長です。」の記事に曖昧さ回避の誘導を付けるか悩む程度の効果しか無いが、戦時下の合衆国大統領が「私は合衆国大統領だぞ」と凄むとなると話は違ってくる。
先述したように、合衆国憲法は大統領が緊急事態下にどのような権限を有しているかを明示的に規定していない。それでは憲法に規定が無いからと言って、大統領は緊急事態下にリーグ優勝を目前にした阪神ファンのように謙虚で、浦和レッズサポーターのような自制心の強さを示したのだろうか。無論そんな事はあり得なかった。
1861年4月13日、合衆国からの分離独立を求める南部連合軍の攻撃によりサムター要塞が陥落。ここに合衆国史上最大の危機である内乱、南北戦争(American Civil War)が勃発する。エイブラハム・リンカーン合衆国大統領は、同年7月4日の臨時議会召集までの11週間までの間、古代ローマの独裁官もドン引きするような「民主主義的立憲独裁(クリントン・ロシター)」を展開した。
まずは合衆国から離脱した州の港湾を封鎖し、南部連合の商船を拿捕。総計75,000人の民兵を各州から召集し、更に連邦軍兵士42,000人の新規募集を開始(当時の連邦正規軍はわずか13,000人)。また戦費を確保する為に2億5000万ドルもの政府債務保証を用意し、軍需物資調達のために財務長官に命じて公職に就いていない3人に200万ドルを支出させた。
目が肥えた読者諸兄は「あれ、思ったよりもまともだ。今回の地獄は別府温泉の別府地獄めぐりか何か?」という感想を抱いたかもしれない。安心して欲しい。ただの食前酒である。
1861年4月15日、リンカーン大統領は反乱が発生している南部7州に対して、州の同意無しに連邦軍による法執行活動を認める1807年暴動対策法を適用する布告を発した。これは連邦法、州法に違反する合衆国市民を逮捕する権限が連邦軍に付与された事を意味していた。
更に4月27日の布告では、陸軍司令官に対して一定の地域内の「人身保護令状(Writ of Habeas Corpus)」を停止する権限を付与した。人身保護令状とは人身の理由を不当に奪われている人物がその救済を裁判所に求める令状であり、英米法における人権保障の中核的存在である。そんな貴重品をリンカーン大統領は軍馬の飼料にしたのである。逮捕令状の全自動発行機である我が国の裁判所や憲法上の権利である接見交通権を弁護士ではなくカツ丼(自腹)と面会できる権利くらいにしか思っていない我が国の警察を見ていると忘れがちではあるが、人身の自由を恣意的に奪う事は究極の人権侵害であり、ましてや軍人の胸三寸で奪われて良いものではない。
だが、そんな平時の美徳を吹き飛ばす危機が当時のアメリカにはあった。北部と南部の境目にある州では公然と南部連合を支持する人々がおり、連邦軍の「内乱鎮圧」を妨害していた。開戦劈頭の1861年4月19日にはメリーランド州のボルチモアでは暴徒が連邦軍を襲撃し、南北戦争初の死傷者を出した。リンカーン大統領は6月28日にはボルチモア市長、ボルチモア市議会議員、ボルチモア警察署長を令状無しに逮捕。更に9月にはメリーランド州議会の3分の1以上の議員を同じく逮捕した。南軍に同調すると疑われた人間は片っ端から逮捕拘禁された。
人身保護令状の停止地域は徐々に拡大され、1862年9月24日の布告では全国に拡大した。全米が泣いたこの布告は、単に停止地域を拡大しただけでなく、軍隊による暫定的な統治を行う例外法である「マーシャルロー(Martial Law)」の布告として合衆国憲政史にその名に刻む事になった。人身保護令状の停止対象を「合衆国内のすべての反逆者、反乱分子、その幇助者及び教唆者、志願兵の入隊を阻止し、民兵の徴兵に抵抗し、合衆国の権威に反抗する反逆者への援助又は慰問を行う不忠誠な行為に関与したすべての人物」にまで拡大し、彼らを軍法会議又は軍事委員会による裁判と処罰の対象とするとしたのである。この一連のやりたい放題な緊急措置により禁固刑に処せられた人間は、実に13,000人以上、逮捕者は25,000人にも達した。更に連邦軍は国家に対する反逆的な通信を禁止し、不忠誠かつ扇動的な記事を書いたとされるシカゴのタイムズ紙を始めとする多くの新聞社に対して一定期間の発行停止処分を下した。
もう既に生活習慣病の早期実現を公約に掲げた二郎系ラーメンを鼻から注ぎ込まれたような気分の方もいるだろうが、残念ながら追い飯がある。
これまで紹介してきたリンカーン大統領の緊急措置は、その殆どが連邦議会が制定した法律に基づいたものでは無かった。例えば連邦軍兵士42,000人の新規募集にしても、憲法第1条第8節第12項では「軍隊の徴募」は連邦議会の立法権に属するとこれ以上に無く明確に規定していた。更に人身保護令状の停止についても、憲法第1条第9節第2項では「人身保護令状の特権は、反乱又は侵略に際し公共の安全上必要とされる場合を除いては停止してはならない」とだけ規定しており、一体何処の誰が停止を決定できるかは憲法上明文規定が無かったが、当時の学説では連邦議会が決定するとされており、リンカーン大統領自身もそれを後の戦争教書で認めていた。その他の措置も本来であれば連邦議会が制定した法律又は連邦議会の議決が必要であるものばかりであった。あろうことか大統領が権力分立の原則を真正面からゴジラのように踏み躙ったわけである。戦時下のイギリス編では議会が制定した国土防衛法が国王に極めて広範な権限を付与していたが、それすら無かったわけだ。
だが、完璧で究極の大統領にして誰も彼も虜にしていく金輪際現れない独裁官の生まれ変わりである我らがリンカーン大統領閣下は、「大統領は陸海軍の最高司令官であり、法律の忠実執行義務を負う」とした憲法第2条の無茶ぶり拡張解釈によって、自らの行為を正当化し開き直った。彼の言い訳は次のとおりである。
「勝利に勝る弁明無し!」以外の何物でもない。連邦議会は開戦後4カ月も議会を召集せず、合衆国憲政史上において前代未聞の緊急措置を大統領が独断で講じた事を強く非難した。しかしながら、リンカーンの予言どおり連邦議会は大統領の緊急措置を事後承認する法律(例えば軍隊の召集に関する措置は1861年8月6日の法律、人身保護令状の停止は1863年3月3日の法律)を次々と制定していった。
裁判所は連邦議会による宣戦布告無しに港湾を封鎖した大統領の緊急措置を「軍の最高司令官の権限に含まれる」とプライズ事件判決で全面的にお墨付きを与えた。一方で人身保護令状の停止については「憲法上は連邦議会の権能である」として、連邦軍に拘束されたジョン・メリマンの釈放を命じたメリマン事件判決を下している。ちなみに大統領はこの判決をガン無視した。権力分立の原則は、イギリス人の茶葉と一緒にボストン港あたりにでも不法投棄したのだろう。
リンカーン大統領は、合衆国大統領は戦争遂行のためなら如何なる権限も行使できると固く信じていた。その信念は、占領した南部地域での奴隷解放を宣言する1863年1月1日の「奴隷解放宣言」に行き着く事になる。南北戦争の戦争目的を明確にした同宣言の歴史的影響については、敢えてここで語るまでも無いだろう。
南北戦争でのリンカーン大統領による広範な「戦争権限」の行使は、単に戦時下における大統領権限の在り方を示しただけでなく、アメリカ合衆国の歴史を永久に変えた。連邦と州の力関係は激変し、我々がよく知る連邦国家「アメリカ合衆国」の形に近づいていく。また憲法起草者達の思惑を超えて、これ以後大統領の権限は平時戦時を問わず拡大し続ける事になる。この話に教訓があるとしたら「一度生まれたものはそう簡単には死なない」という事なのだろうか。もし読者の皆様に合衆国大統領に就任される予定の方がおられましたら、戦時下の「独裁」は程々に。好きにやりたいならお止めはしませんが、劇場には行かない方がよろしいでしょう。
②第一次世界大戦編 「た、逮捕?君らは誰だ」「国を愛するボランティア様だ!」
「愛国者」と聞くと何を思い浮かべるだろうか。一昔前なら「君が代を天皇陛下の赤子の平穏を脅かす騒音に変え、日の丸を街宣車のステッカー程度にしか考えていない人生右側通行の人々」をまず最初に思い浮かべる人も多かっただろう。だが、時代の流れゆえか彼らがワシントン条約指定の絶滅危惧種となったため、今では動画どころかサムネを見ただけで王の殺害を決意しそうな政治がわからぬメロス達を思い浮かべる人の方が多いかもしれない。国や郷里を愛するという感情、思想自体はまったくもって特異なものではない。しかし、「愛国者」と他者から呼ばれるのと、自分から「愛国者」を名乗るのでは1天文単位ほどの違いが生じてしまうのは何処の国でも同じである。
1917年4月6日、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世がなんかこう色々やらかしたため、合衆国連邦議会はドイツ帝国に対して宣戦を布告。ここにアメリカにおける第一次世界大戦が始まる。第一次世界大戦編の主人公であるウッドロウ・ウィルソン大統領は、政治学、憲法学の教授から政治家に転身という経歴の学者然とした大統領であった。彼はリンカーン大統領のように憲法上の大統領権限を根拠にゴーイングマイウェーな戦争権限の行使はせず、もっぱら連邦議会と協調し、連邦議会が制定する法律、その授権に基づく広範な「委任立法」権を行使した。「立憲主義的で大変結構!」だと思った読者の方の期待を裏切るようで申し訳ないが、この事実はリンカーン大統領の講じた緊急措置より穏健になった事を意味するわけではない。
第一次世界大戦で合衆国市民の権利と自由を踏み躙った無数の戦時立法の中で代表例が1917年防諜法(Espionage Act, 1917)及び1918年動乱教唆罪法(Sedition Act, 1918)である。同法は次のような行為を刑事上の犯罪とした。
①~④の行為を行った者は、1万ドルの罰金、20年以下の懲役又はその両方を課すという極めて重い刑罰が待っている(同時期に成立したイギリスの1914年国土防衛法では同様の行為は懲役6カ月である)。実際に2000人以上が起訴され、半数以上が有罪判決を受けている。当然ながら犠牲になったのは、平和主義者や社会主義者などの「不忠な人々」だった。彼らは自らの思想が赴くがままに徴兵反対を訴えただけで投獄された。防諜法の猛威を前に違憲訴訟は当然提起されたが、連邦最高裁は「満員の劇場で火事だと叫ぶ自由は無い」という有名なフレーズと共に防諜法を合憲としてしまった(シェンク対アメリカ合衆国事件判決)。戦時下において表現の自由が国家に弾圧される事は、自由の国においてもチャメシインシデントだったのである。
また、この法律に違反する印刷物の郵送を停止する権限が郵政長官に付与されたが、この停止の基準としては「郵政長官にとって満足し得る証拠」があれば充分という適当極まるものであった。一例として反戦的な風刺マンガを連載してた社会主義系の月刊誌『マッセズ』は1917年8月号の郵送を停止される処分を受け、同年末には廃刊に追い込まれている。更に定期刊行物に対する郵便料減免措置である「第2種郵便特権」の停止も同時に濫用され、世界大戦への不干渉を訴えたアナーキズム系の月刊誌『マザー・アース』は特権停止後に改題して抵抗するも、最終的には廃刊に至っている。同法成立1年目には80件以上の第2種郵便特権廃止処分が行われ、最終的に100以上の出版物が規制されている。ニューヨークの郵政当局はガイドラインを制定し、「どの出版物も論説や記事の一般的トーンを理由に除外されることはない」と説明していたが、裏カジノ店長の「誰でもウェルカム」とほぼ同義語である。
さて、ここまでウィルソン提供の前菜である。何故なら「非寛容な行為のほとんどは、政府ではなく、市民によるものだった(ジョン・ドナルド・ヒックス)」と評されるように、第一次世界大戦で合衆国市民の権利と自由を最も踏み躙ったのは、合衆国市民自身だったからである。戦時下のイギリス編でも紹介した「戦争ヒステリア」がアメリカでも起きたのである。しかし、自由の国アメリカのそれは一味違ったものだった。
参戦前の1917年2月、司法省シカゴ支局に愛国の士を名乗るアルバート・M・ブリッグスという胡散臭い男が訪れた。彼はアメリカが世界大戦に参戦した場合に備えて、ドイツ人を調査するための「ボランティア組織」を設立したいと申し出たのである。当時司法省には外国のスパイを取り締まるための法律と予算と人員、つまりは何もかもが不足していた。全米の連邦犯罪を取り締まる捜査局(後に連邦捜査局、FBIに改称)が既に設置されていたが、それでも不十分だった。
そんな懐事情もあってか、司法省はブリッグスの提案を快諾し、彼のボランティア組織は合衆国司法省「公認」の組織となった。後に全米を震撼させるアメリカ防衛同盟(APL)の始まりである。1917年3月22日に正式に発足したこの組織は、全米に600の支部と25万人の会員を有する巨大組織へと変貌した。同盟の主役は、主に工場労働者や商人から構成される「工作員」達だった。彼らは「シークレットサービス」と書かれたバッチを誇らしげに着け、開戦以来「言葉を話す魔物」と定義されたも同然のドイツ皇帝に忠誠を誓うスパイを街中から探し出そうとした。
戦争努力を怠ったとみなされた人物に対しての脅迫、嫌がらせ、中傷、監視、たまに暴力くらいで済めば、筆者としても「憂国騎士団モドキ」「英語を話す鮫島町内会長御一行様」という大変好意的な評価を与えるだけでこの記事を終えたのだが残念ながらそうではない。工作員達の行動は戦時下の日本やイギリスを下敷きにしても常軌を逸していた。
工作員達は金融機関、不動産会社、宗教団体などに厳重に保管されているような文書でさえも、戦争遂行に対するご理解とご協力により閲覧できるようになっており、徴兵忌避のための証明書を母親に送るよう懇願する青年の電報ですら彼らは入手できたのである。それでも足りないなら盗聴、更には個人の住宅に令状なしに家宅捜索を行う事さえあった。一切の法的権限を有さないボランティアによる家宅捜索は、日本語の辞書では「強盗」を意味するが、集団リンチを話し合いと言い換える某キヴォトスのお姫様も顔面真っ青になるような無法と無秩序がまん延していた当時の合衆国では黙認されたのである。
しかしながら、工作員が期待するようなクソみたいな驕りと油断で正体を露呈するスパイがそうそういるはずもない。そこで工作員達が標的にしたのは、戦争に行く事を拒否する若年層の男性、つまり兵役忌避者だった。工作員による「兵役忌避者狩り」の中でも悪質な例として言及されるのが、シカゴとニューヨークの事例である。1918年7月11日早朝にシカゴ市で開始された「兵役忌避者狩り」の捜索範囲は、野球場、映画館、キャバレー、ナイトクラブ、工場、駅、果てはミシガン湖のビーチにまで及んだ。水着姿の工作員がビーチで遊んでいる人々を手当たり次第に尋問し、拘束するという光景は、もはや悲劇という喜劇の様相を呈してくる。4日間にも及ぶ「人狩りいこうぜ!」の結果として、20万人以上の若者が尋問され、2万人以上が拘束された。運悪く拘束された人々は裁判所、刑務所の空室に無造作に放り込まれ、無実が証明されるのを神と国父ワシントンに祈るしか無かった。同年9月3日に開始されたニューヨークでの「兵役忌避者狩り」は更に多くの市民が尋問され、少なくとも5万人以上が拘束された。逮捕令状?あると思うかい?
何の法的権限を有さない素人集団が「疑わしきは血祭りに」と言わんばかりに市民を尋問し、令状無しに一般市民を手当たり次第に拘束していく無法に対して、合衆国司法省は何をしていたのだろうか。ドーナツを口に咥えて、ザ・ルーキーでも見ていたのだろうか。そもそも司法省捜査官の隣に同盟の工作員がいる事は日常であり、司法省は同盟の「共犯者」そのものだった。それでは司法省は漢らしく同盟の所業の全責任を負うつもりだったのか。無論そんな事は無い。司法省捜査局長官ビーラスキは、兵役忌避者狩りで同盟の権威が問題になったら「陸軍省法務総監の命令で活動する組織」と説明するよう捜査官に指示するなどゲロカスな責任回避姿勢を隠さなかったように、連邦政府は自分達の思うように動く人間が欲しいのであって責任が欲しいのでは無かった。大規模な兵役忌避者狩り自体は連邦議会で一部議員が問題視したため、一応の収束を迎えたが、同盟そのものは終戦まで存続する事になる。どうでも良い情報だが、あくまでもアメリカ防衛同盟は愛国自警団業界の最大手だっただけで、他に同種の組織は無数に存在していた。
「宗教的性格を持つ愛国主義(今津晃)」とも形容されるこの一連の戦争ヒステリアから100年以上が経過し、全世界のありとあらゆる情報と知識を手元の端末で瞬時に入手できるようになった現代。そんな恵まれた時代に生きる我々にとっては向こう見ずな正義感に支配される善良な市民達による集団ヒステリーなどさぞかし無縁でありましょう。
なお、虚偽と欺瞞と偏見と予断で情報を売り捌き、「チャンネル登録よろしくお願いします」と人間の言葉で囁いてくる魔族の方におかれましては、まずご自宅の庭に深い穴を掘って、穴に潜って周囲に教育に悪影響を与えかねない未成年者がいない事を確認してから自ら首を刎ねていただけると幸いです。
③第二次世界大戦編 「私たちは同じアメリカ人だ、いいな?」「なるほど。日系人か」
1941年12月7日、大日本帝国が高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応した外交政策の果てにハワイ準州オアフ島真珠湾にある合衆国海軍基地を奇襲攻撃。ここにアメリカにとっての第二次世界大戦が開始される。交渉打ち切りの通告無しの奇襲攻撃に対して、「お侍様の戦い方じゃない」と呟いた在米日本人がいたかは定かではないが、合衆国の世論は「真珠湾を忘れるな」と沸騰した。そして、激昂する世論に後押しされる形で侵攻してくる日本軍に備えるために、合衆国は前代未聞の緊急措置を講じることになる。無駄知識だけなら豊富に蓄えてる本記事の読者なら当然ご存知の「日系人の強制収容」である。
フランクリン・ローズヴェルト大統領は、真珠湾攻撃を受けた日の晩には1798年敵性外国人法の規定により大統領布告第2525号を発し、日本人を「敵性外国人」とした。これにより日本国籍の1世である「日本人」については行動を規制する諸規則を制定する事が可能になった。仕事が早い連邦捜査局(FBI)は、何と布告が発せられた当日には一斉検挙を開始。同年12月10日までに日系人社会の中核を占めていた1世の指導者層を中心に1,291人を逮捕した。更に在米日本人の自宅に対して令状なしの家宅捜索を開始し、当時広く家庭に普及していたカメラなどの「禁制品」を所持していたスパイ予備軍の日本人を多数逮捕した。最終的に合衆国国内に在住していた15,213人(山倉明弘)もの日本人が抑留される事になった。
問題は2世の「日系人」の処遇である。彼らが白人から仕事を奪う理解不能な黄色人種だとしても、家の何処かに御真影を隠し持ち、昭和天皇の顔を見るだけで胸のときめきが抑えきれず、手当たり次第に桜の木を植えて回るような不忠な集団だとしても、紛れもなく合衆国市民であり、同胞だったからである。その同胞を強制収容するにあたり、連邦政府内で日々激論が交わされた。陸軍省も司法省も「人種的少数派集団を軍事的必要性の名の下に自宅から退去させ、強制収容する」という前代未聞の措置の合憲性に自信が持てなかった。陸海軍からも強制収容の必要性を疑問視する声が上がり、様々な妥協案が提示されては消えた。エレノア・ローズヴェルト大統領夫人までもが自分が連載する新聞のコラムで次のように述べて日系人の強制収容に強く反対した。
しかしながら、政治家は選挙のために、新聞はその部数のために日系人の軍事的脅威を声高に煽った。強制収容に消極的だったローズヴェルト大統領も、結局は日系人排斥のビッグウェーブに乗るしかないとなった。運命は決した。
1942年2月19日、遂にローズヴェルト大統領はかの有名な「大統領行政命令第9066号」に署名。陸軍長官又は長官が指名した軍司令官に対して、全部又は一部の住民の排除を命じることができる「軍事地域」を設定する権限を付与した。だが、この時点では日系人が排除命令に違反しても罰則を科すことができなかったため、実効性の確保が問題になった。そこで連邦議会は排除命令の違反を連邦法上の軽罪(禁錮1年若しくは5,000ドル以下の罰金又はその両方に処せられる)とする「公法第503号」を可決し、同年3月21日には成立させた。連邦議会も日系人の強制収容を事後承認したわけである。
こうして普段から日系人への不信を口にしていたデヴィット西部防衛司令官が設定した西海岸の軍事地域に居住する日系人の強制収容が本格化する。二級市民から「ジャップ」に昇格した日系人達は血と汗と涙の結晶だった財産を二束三文で売却させられ、無人地帯の荒野に設置された転住所こと強制収容所に移住を余儀なくされた。戦時転住局の管轄下に置かれたのは120,313人(山倉明弘)にも及ぶと言われており、その半数以上は紛れもなく合衆国市民だった。ナチスやソ連の強制収容所とは異なり、家族単位での住居を供与され、労働には賃金が支払われ、栄養失調で苦しむ事も無かった。当然虐殺も起こらなかった。
だが、全てを奪われて快適とは言えない環境に放り込まれた人々の精神は急速に荒んだ。日系人2世の一人は、鉄条網に囲まれた公立学校での白人教師との会話を次のように回想している。
強制収容というかつてない人権侵害に対して当然ながら幾つもの訴訟が提起された。日系人の強制収容に関する諸判決の中で最も著名なのが「コレマツ対合衆国事件判決」である。1942年5月30日、一人の日系人2世の男が逮捕された。後にアメリカ憲政史に名を残す男の名はフレッド・コレマツ。軍司令官が発した民間人排除命令第34号を拒否した彼は、カルフォルニアに婚約者と一緒に残りたいと考えていた。整形手術を受けて、クライド・サラという偽名を名乗り潜伏した。だが、受けた整形手術は格安だった事もあり、コレマツである事は江戸川コナン=工藤新一よりもバレバレであったらしい。少なくとも法廷内で笑いが起きるくらいにはバレバレだった整形手術の是非は筆者がブロックされている高須院長にでもお聞きになっていただくとして、ともかくコレマツは逮捕された。カルフォルニア連邦地裁は彼を有罪としつつも、刑期を定めずに執行猶予5年とする奇妙な判決を下した。弁護側は控訴する姿勢を示したが、保釈金を払えばコレマツはとりあえず自由の身になる。
だが、憲兵が興奮しながらコレマツの腕を掴み、銃を抜いた。
憲兵はコレマツを監禁しろとの命令を受けていると主張して、法廷から強制収容所の中継点であるタンフォラン集合所に強引に彼を連行した。裁判所の判決を軍が公然と無視したのだ。立憲国家の誉れは西海岸で死んだのである。
上告審である連邦最高裁では法廷意見を執筆したブラック判事は、審理対象を強制収容から退去命令を分離した上で退去命令のみ審理するという姑息な手段を採用。彼は「特定の人種的集団としての市民の権利を制約する際には最も厳格な審査で対応すべきである」というド正論を述べた後に、それでも日系人の強制収容は「公共的必要性により正当化され得る」として、コレマツの主張を退けた。この判決については、後の諸判決や研究によりハーレムの街に放り込まれた白人至上主義者よりもボコボコにされているのでこれ以上は解説しない。
だが、一つ指摘するとすれば、そもそも同じ枢軸国であり、日系人よりも多く存在したドイツ系やイタリア系の合衆国市民は収容されていない時点で人種的偏見を否定するのはやはり難しいだろう。東海岸ではドイツ海軍潜水艦による商船攻撃が多数発生しており、更にはドイツ系の合衆国市民による破壊工作未遂事件まで発生していた。少なくともドイツ系合衆国市民の軍事的脅威は「今そこにある危機」だったはずだからである。また日系人の強制収容を巡る訴訟での陸軍省、司法省による日本軍の脅威を誇張する証拠の改竄(西部防衛司令部報告書”ファイナルレポート”の改竄など)などは西海岸における脅威が対外的に公表されたものとは異なっていた事を連邦政府自身が認識していた事を示唆している。
1980年に連邦議会の立法により成立した「戦時民間人転住・収容に関する委員会」の最終報告である『拒否された個人の正義』は、日系人の強制収容が起きた要因を極めてシンプルに総括している。
「人種的偏見、戦争ヒステリア、政治的リーダーシップの欠如(race prejudice, war hysteria, and a failure of political leadership.)」と。
読者諸兄におかれましては、アメリカを旅行中に「君はどの種類のアメリカ人だ」と聞かれるなどの人種差別に遭遇したとしても、誇りある日本国民として恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、中指を立てて「ファッキンジャップぐらいわかるよバカヤロー」と吐き捨てることを決意するに留めましょう。
大統領権限の限界は何処にあるのか?
「リンカーンならそうしたってことだよ」。そう囁くエルフがホワイトハウスにいたのかは筆者の資料ではわからないが、合衆国憲法に緊急事態下における大統領の権限が明示的に規定されていないにも関わらず、リンカーン以後の大統領が広範な緊急権を行使してきた事はその是非はともかく歴史的事実である。大統領の緊急権は「直接的には憲法の条文から、そして第二次的には議会の委任および最高裁判所の判例から派生する(岡田 皓一)」とされており、その権限の範囲と限界は非常に曖昧かつ複雑である。
リンカーン以後の大統領が最も多用し、今日の緊急権の中核的な位置にいるのは、当然ながら連邦議会が制定した法律(議会制定法)である。連邦議会が法律を制定し、大統領がその法律を執行するという王道中の王道であり、権力分立の原則から見れば本来あるべき姿である。草葉の陰のリンカーンが無言で斧を振り回してくるのは無視して、過去に連邦議会が大統領にどのような権限を授権してきたかを簡単にご紹介しよう。 合衆国憲法制定後にまず最初に大統領を襲った緊急事態は、1791年のウィスキー反乱に代表されるように暴動や反乱であった。連邦軍を国内の法執行活動に投入する権限を大統領に付与する1807年暴動対策法(反乱法)は、その文脈の中で誕生している。
もし州の要請に基づかずに、大統領が独自の判断で連邦軍を法執行活動に投入した場合、連邦主義はソーセージ抜きのホットドッグ同然となるため、州からの警戒感は極めて強い。2020年のBLM運動の際にトランプ大統領(当時)が発動を示唆したため、全米で議論を呼んだ。
第一次世界大戦では国家総力戦の時代となり、おはようからおやすみまで国民生活の全てに対して経済統制を行う権限を大統領に付与する法律が相次いで成立した。その一つである1917年食糧燃料管理法(レヴァー法)は、平時ならクッキーを半分ずつ分けたら共産主義者呼ばわりしてくるアメリカ人には到底許容できない経済統制を行う権限を大統領に付与した。
同法の規定により穀物からウィスキーやジンなどの蒸留酒を製造する行為は「連邦法違反」となった。どうしても本物のウィスキーを作りたい業者はアパラチア山脈で地面にウィスキーを撒く会の会長にでもなるしか無くなったのである。まぁ全米禁酒を実現する憲法修正第18条の成立は、1919年1月16日なので、ここらへんは比喩でもネタでは無いのだが……
更に第二次世界大戦に突入すると、白紙委任に近い経済統制を行う権限を大統領に付与する法律が相次いで成立した。1941年第1次戦争権限法、1942年第2次戦争権限法、1942年緊急価格統制法などの戦時立法は、必要に応じて行政省庁を自由に再編し、更には防衛上必要となる物資又は施設を自由に割り当てる権限を大統領に付与した。全米で生活必需品が配給制となり、家庭でのタイヤの保有個数に至るまで厳しい統制が開始された。この経済統制の極端な例として、スライスしたパンの製造又は販売を禁止した1943年食糧配給命令第1号がある。読者諸兄には意味がわからないと思うが、筆者にもわからない。スライスしたパンを製造する金属部品などの節約を目的としていたらしいが、毎食パンを切り分けする羽目になった全米の主婦達から殺意を伴った反対意見が相次ぎ、2か月後には撤回に追い込まれている。何がしたかったのか。
さて、ここで問題となるのが、「連邦議会は大統領に何処までの権限を委ねることができるのか」という点である。日本法でも「委任立法の限界」として論じられる事があるが、この記事で授権禁止法理からシェブロン法理までを詳細に解説すると始業式での校長先生のお言葉になり、読者を強制睡眠に誘う事が予想されるので、ここは簡単に料理に例えるとしよう。
この例えでも予想が付くと思われるが、この問題に「正解」は無いのである。この記事が作成中だった2024年にも曖昧な法律の条文を政府の規制当局が解釈する場合にその解釈を裁判所が尊重する「シェブロン法理」が破棄される連邦最高裁判決(ローパー・ブライト・エンタープライズ対レイモンド事件判決)があり、全米に衝撃を与えている。これからもセーフ・アウトのラインが変動し続ける事になるだろう。
さて、ここまでは建前である。もし大統領が「議会を納得させるという発想…そのものが軟弱!」と連邦議会に頼らずに、あくまでも通常の規定に過ぎない憲法第2条に規定された大統領権限のみで緊急事態に対処するとしたら果たして何処まで可能なのだろうか。
憲法制定段階では緊急事態下の大統領の権限というのは、あまり注目を集めていなかった。しかし、アメリカ建国の父に大きな影響を与えた『統治二論』を著したジョン・ロックは、その著書の中で立法者が全ての事態を想定して法を備える事は不可能としたうえで「法の執行者は国内法が何の指示を与えていない多くの場合において、立法部がそれに対処するために適宜召集されるまでは、その権力を社会の善のために使用する権利を一般的な自然法によって与えられる」という大変余計な一言を言い残している。
このジョン・ロックの余計な一言に最も近い考えを有していたのが、セオドア・ローズヴェルト大統領であった。彼は全ての行政官、特に高位の行政官は人民にとって世話役であるとして、「憲法、あるいは法律が明示的に禁止しない限りにおいて、国家の必要性が要請しているところの何事をも為す事は大統領の権利であり、義務である」とする「世話役理論」を主張した。この「詳細は省くが結論だけ言うと憲法は死ぬ」な理論には当然反発が強く、後任のウィリアム・タフト大統領も「大統領を全能の神にする」と非難している。
しかし、現実には「世話役理論」さえ超越した行動を辞さない大統領が登場した。フランクリン・ローズヴェルト大統領である。彼は平時から憲法について「ユニークな解釈」を有していた。その一例として、1933年に世界恐慌に対処するために廃法とされていた戦時中の1917年敵国貿易法を根拠に金銀の輸出、外国為替取引を禁止する措置を講じた事例があるが、その他にも無数の大変合憲性が怪しい「前科」がある。
そんな平時でも「前科」だらけのローズヴェルト大統領が戦時下で大人しくしてるはずが無かった。最も極端な事例として、1942年物価統制法のある条文を巡って連邦議会を「脅迫」した事件がある。ローズヴェルト大統領は連邦議会が期日までに食糧品の最高限度価格の設定を制限する条文を廃止しないなら、「全責任を引き受け、行動を起こす」と主張した。つまり連邦議会が制定した法律を公然と無視すると宣言したわけであり、当然ながら憲法の忠実執行義務を違反する行為である。連邦議会がこれに屈服したため、事態は収束した。リンカーンの亡霊は20世紀にも健在だったのだ。
ここまででも満漢全席の30分完食トライアルに放り込まれたような気分の読者が多いだろうが、「マーシャルロー(戒厳)」を知っていただかないとお帰り頂くわけにはいかない。
マーシャルローとは、「政府の他の部門(議会・裁判所)が機能を果たし得ないような非常事態が発生した場合に、秩序を維持または回復するため、本来ならそれらの部門に属する権限を行政府(通常は軍)が暫定的に掌握する事を可能とする例外法(畑博行)」とされている。「されている」としたのは、そもそも憲法は勿論、連邦議会が制定した法律にもその定義は規定されていないからである。そのため「ルーズで曖昧な言葉であって、十人十色の意味をもっている(ウィリアム・O・ダグラス)」「混乱した概念の塊(クリントン・ロシター)」とされており、しばしば論争になる。2020年の新型コロナウイルス感染症のパンデミックに伴う各州のロックダウン(都市封鎖)がマーシャルローの布告だとするデマが流行した際には、マルコ・ルビオ連邦議会上院議員が「ロックダウンとマーシャルローを混同するな」と盛大にブチ切れている。
(どうでも良いが、議員も法学博士の癖に「martial law」を「marshall law」と盛大に誤字っており、コロナで暇だった国民による全米大喜利大会が即刻開催されて「学位を返上して保安官(marshall)になってはどうか」と言われる程度には弄られた。如何にマーシャルローという存在が現実の政治から遠いかを示している)
不毛な定義論争と楽しい上院議員弄りはさておき、マーシャルローはその殆どが州知事が布告したものが大半であり、大統領又は軍司令官が布告した事例は非常に少ない。数少ない事例の一つである南北戦争のマーシャルローの合憲性を争ったミリガン事件判決では、マーシャルローが許容されるのは「その必要性が現実的又は現存のものでなければならない。敵の侵入が迫っており、そのせいで裁判所を閉鎖され、通常の行政機構が停止するような状況」に限定されるとしており、独裁者志望の大統領には扱いにくい曖昧な概念である。それでもマーシャルローが実際に布告された場合は一体どうなるのだろうか。
大統領権限に基づくマーシャルローとは言い難いが、1900年ハワイ組織法に基づくマーシャルローが布告されたハワイの事例をご紹介しよう。1941年12月7日、日本軍の真珠湾攻撃に際してハワイ準州知事はハワイ軍管区司令官からの要請によりマーシャルローを布告。人身保護令状が停止され、全権を掌握した軍政府が市民生活の全てを統制する事になる。裁判所は閉鎖されるか、一部の民事事件に限って開廷が許された。刑事裁判は軍法会議で裁かれる事になったが、「軍人は軍人です」と小泉文法で説明するしか無い惨状が広がった。交通違反で禁固5年の刑を宣告された者から「マーシャルローの精神」に背いたという意味不明な理由で有罪判決を受けた者までもが登場し、挙句の果てには刑罰の一種として献血や戦時債券の購入を迫られた者まで現れた。この無法に対して、ホノルル連邦地裁は人身保護令状請願者を法廷に引き渡すように求め、加えて軍司令官に法廷への出廷を命じた。出廷を拒否した軍司令官は法廷侮辱罪に問われたが、軍の報復は凄まじかった。軍司令官は軍政府長官として一般命令第31号を発して、連邦地裁裁判官を逆に軍法会議(軍事委員会)の対象とするというド直球の脅迫を行った。そして、最高で重労働付きの禁固5年が待っているとも。軍隊がマーシャルローの合憲性を審査する裁判所を武力で抑え込もうとした事実は、アメリカ憲政史上最長の34カ月にも及んだハワイのマーシャルローと共にラシュモア山の大統領の顔にでも刻んでやるべきであろう。
繰り返すようだが、合衆国の緊急権制度は本当に複雑怪奇である。「制度の問題というより、むしろ大統領のパーソナリティの問題(クリントン・ロシター)」という「それを言ってはおしまいよ」の評価にも疲労から頷いてしまうかもしれない。だが「必要は法を知らない。シンプルなルールだね」を無条件に肯定した時に訪れるのが何であるか。図書館の歴史コーナーにある犠牲者リストに名前が載ってから考えても手遅れなのである。
大統領を止めるのは誰なのか?
ある日、極右ユーチューバーの動画に感化された合衆国大統領が突然「合衆国転覆を狙う反国家勢力を殲滅するために必要な措置を講じる」との声明を発表。マーシャルローが布告され、重武装の連邦軍が全米の主要都市に展開。ブルース・ウィリス似の将軍がブルックリン橋を背景に「合衆国に対して叛乱を企てた州知事と呼吸していた保険会社社長を銃殺刑とした」と誇らしげに発表する……という筆者が30秒で考えたブラックコメディ小説を荒唐無稽だと笑い飛ばせる人間は今や地球上から消滅してしまった。何でだろうね?
さて、大統領も人間である。たまには狂いたい時もあるだろう。しかしながら、脳がオーバーフローして攻撃性が255になった大統領が「ガッツのある男である」と全世界に示すために核のボタンの16連射を開始してもらっても困る。果たして戦争に奔走する暴走機関車となった大統領を止める術はあるのだろうか。少々本記事の趣旨からは離れるが、参考までにご紹介しておくとする。専門的な領域に入るので適当に読み飛ばして構わない。いや、マジで。
自由の大地アメリカ合衆国に祝福あれ
結論から先に述べると、戦時下アメリカにおける緊急権の行使は「まぁ穏健」であったと言える。「散々扱き下ろしていて何を言うのか」と靴を投げてくる読者もいるだろうが、ブッシュ(子)大統領にでも差し上げてください。
確かにこれまでご紹介した戦時下のアメリカは、正義の源泉は枯れ、自由の大地は裂け、合衆国憲法が死滅したかのように見えたかもしれない。ただ同時期の他国と比較した場合は「まぁ穏健」という評価に落ち着く事になる。
例えば連邦議会は大統領に対して、戦時下のイギリスで成立した1914年国土防衛法、1939年国家緊急権(防衛)法のような無制限に近い立法権の委任は行わなかった。極めて広範な領域の経済統制を可能とする戦時立法こそ成立させはしたが、連邦議会は常に立法府としての連邦議会であり続けた。大統領による立法権の侵害としか形容できない無礼な行為にも耐えて、大統領の戦争指導を痛烈に批判しつつも、時には大統領と協働して必要な立法を行って合衆国の戦争遂行を支えた。両大戦においてはイギリスに限らず欧州諸国(ベルギー、イタリア、ノルウェーなど)で行政府に立法権の無制限に近い委任を認める授権法が相次いで成立していた事を踏まえると、アメリカは平時の権力分立を戦時下でもギリギリ維持していたとも言えるので、「(欧州諸国と比較すると)「合衆国の立憲独裁」という文言について、修辞的表現以上の何ものかとするには十分な印象を今なおほとんど持ち得ない(クリントン・ロシター)」という評価も妥当と言える。もっとも「本土又はそれに近い地域が戦場になった欧州諸国と比較が適当であるか」や「日系人の強制収容やハワイにおけるマーシャルローなど憲法からの逸脱を過小評価してる」という指摘も当然考慮せねばならないが……。
いずれにしても、歴史は将来を保障してはくれない。今日のアメリカ政治は某賭博漫画の鉄骨渡りのような非常に危ういバランスにより成り立っているからである。1970年代以降の合衆国では連邦議会内部の党派対立が激化し、大統領の政策実現に必要な法律の制定が困難になるようになった。その結果、歴代大統領は連邦議会を迂回して大統領単独で政策実現を目指すようになってしまう。この「ユニラテラルな大統領制(梅川健)」とも称される現象は、戦時下において必要不可欠となる大統領と連邦議会の協働が困難になる可能性を示唆している。そうなると、大統領は憲法上の大統領権限に基づく黙示的な緊急権という「悪魔」に縋ろうとするのは間違いないだろう。
合衆国大統領が独裁者に変貌するか否か。23世紀の猫型ロボットや過去にメールを送れる電子レンジを保有していない筆者には分からない。だが、一つ確実に言える事がある。「太古の昔から、暴君は不必要に人権を剥奪する口実として、公共の福祉に対する真の危機、あるいは想像上の危機を利用してきた」というダンカン対カハナモク事件判決におけるマーフィー判事の名言が示すように、独裁者志望の大統領は巧みに歴史を引用し、「国家がどれだけ危機的状況にあるか」を力説して自らの行為の正当性を唱えるであろうという事である。果たしてその正当性を語る大統領の脳裏にいるのは、リンカーンなのか。それともヒトラーなのか。客観的な事実ではなく、感情的な訴えが政治を動かす「ポスト・トゥルース」の時代においては、それを見極めるのは至難の業である。情報統制が行われる戦時下であれば尚更であろう。もし仮に独裁者と化した大統領と一緒にホワイトハウスが爆発炎上し、合衆国全体が内戦状態に突入したとしても、筆者としては、「さようならアメリカ。いままで民主主義をありがとう」とドミノ・ピザを食べながら呟くだけであり、亡き合衆国を偲んで追悼式典を主催してシャンパンを空ける予定は特に無い。
だが、合衆国軍隊と米国株に自分の人生に預けている大多数の日本人は、星条旗がはためく自由の大地に独裁者が存在する事を許容しない合衆国市民一人一人の「真実に向かおうとする意志」を信じるしかないのである。それがどれだけ非現実的で、困難な道程であったとしても、である。
――それでは皆様、次の戦争でお会いしましょう!(We'll Meet Again)
参考文献
・アメリカ憲法入門第8版(著 松井 茂記)
・英国憲法入門(著 エリック・バーレント/訳 佐伯 宣親)
・立憲独裁 現代民主主義諸国における危機政府(著 クリントン・ロシター/訳 庄子 圭吾)
・海外派兵と議会―日本、アメリカ、カナダの比較憲法的考察(著 富井 幸雄)
・憲法で読むアメリカ史(全)(著 阿川 尚之)
・憲法で読むアメリカ現代史(著 阿川 尚之)
・歴史から学ぶ比較政治制度論―日英米仏豪― (著 小堀 眞裕)
・行政機関の憲法学的統制 アメリカにおけるコロナ、移民、環境と司法審査(著 辻 雄一郎)
・非常事態とアメリカ民主政治(著 岡田 皓一)
・基本的人権(著 ウィリアム・O・ダグラス 訳 奥平 康弘)
・「固有の行政権」に基づく米国大統領の緊急措置権(著 畑 博行)※世界各国の憲法制度(編 京都大学憲法研究会)収録
・アメリカの政治と連邦最高裁判所(著 畑 博行)
・アメリカ大統領の権限とその限界 トランプ大統領はどこまでできるか(監修 東京財団政策研究所 編集 久保 文明・阿川 尚之 梅川健)
・アメリカ大統領のユニラテラルな(単独での)政策実現手段―大統領令を中心に―(著 中村 絢子)
・米国戦争権限法の研究―日米安全保障体制への影響―(著 浜谷英博)
・アメリカ連邦議会の歳出予算統制ー大統領戦時権限統制の可能性について―(著 河村 弘之)
・第一次大戦下のアメリカ: 市民的自由の危機(著 今津 晃)
・第一次世界大戦時のアメリカにおける郵便規制問題と言論・プレスの自由―政府・裁判所・プレス・世論の連関を枠組みとして(著 水野 剛也)
・市民的自由―アメリカ日系人戦時強制収容のリーガル・ヒストリー(著 山倉 明弘)
・二次大戦下の「アメリカ民主主義」総力戦の中の自由(著 上杉 忍)
・フランクリン・ローズヴェルト 大恐慌と大戦に挑んだ指導者(著 佐藤 千登勢)
・A Guide to Emergency Powers and Their Use(著 Brennan Center for Justice)
・Martial Law in the United States: Its Meaning, Its History, and Why the President Can’t Declare It(著 Joseph Nunn)
・Maryland in the Civil War (著 Mark A Swank , Dreama J Swank)
・The League: The True Story of Average Americans on the Hunt for WWI Spies(著 Bill Mills)
・A Short History of American Democracy (著 John D. Hicks)
・National Emergency Powers 98-505(著 Elizabeth M. Webster)※連邦議会調査局報告書
・Personal Justice Denied(著 the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians)
・完訳 統治ニ論(著 ジョン・ロック 訳 加藤 節)
・リンカーン演説集(訳 高木 八尺・斎藤 光)
法学者の阿川 尚之先生が令和6年11月12日に逝去されました。ご高著である『憲法で読むアメリカ史』は筆者が法制史を学びたいと考える最初の切っ掛けとなった書籍であり、是非とも第二次トランプ政権の内容を盛り込んだ新作を読みたいと考えていたところに舞い込んだ訃報を前に言葉が見つかりません。ご冥福をお祈り申し上げると共に法制史という趣味を与えてくださった事に心から感謝を申し上げます。