東浩紀さんが明確に統一教会を擁護しちゃってる件につきまして
東浩紀さんがnoteに掲出した「東浩紀が統一教会を擁護しているというデマにつきまして」なる文章は、タイトルや東さんの意図とは裏腹に、めっちゃ綺麗な「統一教会の擁護」になってしまっているし、あの文章そのものが「なぜ、政治家が、統一教会とつきあってはいけないのか」を立証する材料になってしまっていますよ…というお話です。
まず最初に、簡単にごく手短に、事実の整理だけしておきましょう。
今回、東さんが「東浩紀が統一教会を擁護しているというデマにつきまして」なる文章を掲出するに至ったそもそもの原因は、参院選後に放映(?)された東さんご出演の選挙特別番組の内容が極めて醜悪だった…との指摘がTwitterであったというところにあります。
当該のツイートがこちら
そこで、この原稿を書くにあたって、改めて当該ニコ動の動画を数度見直しました。しかし福島瑞穂の発言からは、安倍晋三襲撃を正当化したり当然視したりするような箇所を見つけることはできませんでした。むしろ福島瑞穂は冒頭で、「安倍晋三さんの銃撃事件はどのような理由であっても許せない」旨の発言をしています。確認できたのは、福島瑞穂がハケた後、東浩紀さんをはじめとする出演者たちが、福島瑞穂が言ってもないことを「言った言った」「そう聞こえる」と騒ぎ出す…という醜悪な姿だけ。それがあの動画の大まかな内容です。事実はそれ以上でもそれ以下でもありません。(※脚注)
だからこそ、今回、東浩紀さんが「このツイートはデマである!」と抗議しているツイートは、「統一教会に関する発言が酷い」と指摘するものの、「東浩紀は統一教会を擁護している」などと断定していないのです。
にもかかわらず東浩紀さんは、あのTweetを「東浩紀が統一教会を擁護したとデマを振り撒くツイートだ」と、勝手に規定しちゃってます。もうその段階で詭弁。もうこっからおかしい。
この段階からすでにおかしいので、東さんの「東浩紀が統一教会を擁護しているというデマにつきまして」なる文書は、徹頭徹尾、ずーっとおかしな文章になっています。
致命的な欠陥はここ
と東さんは書きます。
もうこれは、そもそも論からしておかしい。
東さんが「統一教会をカルトであるかどうかを判断する立場に」ないのならば、よしんば誰かが「東浩紀は統一教会を擁護しているぞ」と言っていようとなんだろうと、ほっときゃいいだけの話じゃないですかw
だって統一教会がカルトかどうかわからないんでしょ? カルトかどうかわからないものを「お前は擁護したのだ!」と糾弾されようがなんだろうがほっとけばいい話。
Twitterのアカウントを削除してSNS隠遁に入った人がわざわざnoteに抗議文を掲示するような話じゃない。それでももし何か言いたいのであれば、「僕は擁護なんかしてない!」というのではなく、普段の東さんらしく、「事象に深く切り込んで」(笑)、「果たして統一教会はカルトなのか」的な文章をお書きになればよいだけのこと。
でも東さんはなぜか「統一教会を擁護なんかしてない!」とムキになっています。東さんはほっとけないんですよ。「カルトかどうか判断」できないのに「擁護してる」と言われたら怒る。なんだよそれw 意味わかんねーよw
おそらくそれは、東さんが「統一教会がカルトである」と知ってるからでしょう。
いま二十代の若い人が「統一教会ってなに? カルトなの?」と言っているのならまだ話はわかります。この十数年、統一教会に関する報道が下火であったのは事実。だから今の二十代の人が統一教会を知らなくても不思議じゃない。
ですが、東さんは、1971年5月9日 生まれ。今年51になるいいオッサンです。つまり東さんは世代的に、90年代冒頭に大問題となった山崎浩子の洗脳問題や桜田淳子の合同結婚式の問題を当然知っている世代になります。あれだけ連日、テレビ・新聞・雑誌を問わずあらゆるメディアで統一教会による人権侵害が報道されていた時代を、東さんは当然知っているはずなのです。
しかも東さんはその頃、東大にいたはず。
東大に限らず当時の東京の大学は、原理研の偽装勧誘などが、どのキャンパスでも問題になっていました。あの時代に規模の大きい大学に通っていれば、大学当局なり先輩なりなんなりから「原理研には気をつけろ」という忠告を受けていたはずです。
今年50になる東さんが、「統一教会がカルトかどうかわからない」なんて言い張るのは、あまりにも無理があります。
こうした東さんの態度を擁護することも可能かもしれません。例えば、「東さんは学者だから、学者らしく、統一教会の内実を知らない段階で、にわかにカルト認定することを避けたにすぎない」とかね。
笑わしてもらっちゃ困りますw
カルトかどうかの判別は、別にその教団の内実や教義に通暁していなくともできます。いやむしろ、カルトかどうかの判別は「内実」や「教義」から離れてやるべきなんです。
だってそうでしょ?「教義がこの内容だから、お前はカルトだ!」って断定しちゃうのは、とりもなおさず宗教弾圧ですし信教の自由の侵害です。鰯の頭を信心していれば天国にいけると説こうが、文鮮明の入った風呂の水を飲めば天国に行けると説こうが、それそのもので「カルト認定」の材料になりません。そこに踏み込んで「あの宗教はカルト、この宗教はカルトじゃない」と分類することは宗教弾圧でしかなく、絶対やっちゃいけない。
その意味では、「新興宗教はみんなカルト」という議論もおかしい。その宗教の来歴の長短で、「はいこっから先はカルトじゃないけど、これ未満はカルトねー」と分類することも、同じく、宗教弾圧だし信教の自由の侵害です。
また、「狂信ぶり」でカルト認定するのも間違い。「変な衣装を着ている」とか「変な儀式をしている」とか「信者が外部の人間に対して攻撃的and/or偏執的」であるとかの「狂信ぶり」も、カルト認定の材料にしちゃいけない。どの宗教を「狂信」しようが、そんなもん本人の自由です。他人に迷惑をかけない範囲であれば、当人の勝手に狂信してればいいだけのことです。
で、この「他人に迷惑をかけない範囲で」ってのがまさにポイント。
カルトかどうかの線引きは、まさにここにあるのです。
カルトかどうかの認定は、教義の内容や信仰の実態によってなされるべきものではなく、その宗教団体の諸活動に、人権侵害や他人の生命財産に危害を加えたりする側面があるかないかでなされるべきものなのです。
つまり、正体を隠して勧誘したり(欺罔行為ですから当然アウト)、破産に追い込むほど高額な寄付を要求したり、教団外部との連絡を遮断したり、不法行為に強制的に従事させたりしていれば、教義の内容や信仰活動の実態がどなんなに穏当で信者各位がどれだけ上品で慎ましやかで平和的であっても、カルト。
そしてまさにその意味において、統一教会は、「the カルト」です。
統一教会は、そのカルトっぷりを、これまで数十年にわたって指摘され続けてきたのは、紛れもない事実です。
私の手元に、昭和45年発行の『右翼事典』(編:社会問題研究会 発行:双葉社)なる書籍があります。おそらくは公安情報を元に編纂されたであろう書籍なのですが、この中で、統一教会の学生部隊である原理研は、このように紹介されています
「(このころマスコミから親泣かせの原理運動と批判され一時活動を中止した)」という文言があります。ね?もう昭和45年以前から、統一教会は社会問題になっていたことがわかるでしょ。
こんなレア書籍を典拠とせずとも、先ほどもふれた山崎浩子や桜田淳子の合同結婚式であるとか、洗脳問題であるとか、「仁義なき戦い」の原作者・飯干晃一とその娘・飯干景子の脱カルト問題であるとか、「統一教会のカルトっぷり」がワイドショーでも喧伝された事例は、過去にいくらでもあります。80年代90年代はそりゃもう、どのメディアも統一教会の問題をとりあげまくっていました。
おそらく東さんが大学生であったであろう1992年にはNHKまでもがきっちりと、定時ニュースのなかで統一教会が有する問題を報道しています。
年齢や経歴から考えて、統一教会がその問題性を幾度も告発されていたことを、東浩紀さんが知らないはずがないじゃないですか。
それでも東さんが、「いや、知らんもんは知らん」というのなら、「お前、よくそれで、時事問題に言及してるよなw」「お前、よくそれで0年代論とかやってるよなw」とバカにされるだけのことです。
東さんは、統一教会がカルトであることを知っている。知らないはずがない。
にもかかわらず、東浩紀レベルのそれなりにリスペクタブル(知らんけど)な言論人が、公の場で、「統一教会が、カルトかどうかわからない」なんて発言することは、霊感商法弁護士会をはじめとする、これまでカルトの危険性、統一教会の危険性に警鐘を鳴らしてきた人々の努力を無にすることですし、カルトの野放しに加担することにつながります。端的に言えば、東さんは「統一教会をカルトだと断定できない」と表明することで、統一教会に加担しちゃってるんです。
どっからどうみてもカルトでしかないカルトを、それなりに著名な言論人が「カルトかどうかわからない」なんて言ってみせることほどの「カルト擁護」があろうはずがありません。
ためにし、東大でもどこでもいいですから、東京都内にある一定規模の大学の当局に言ってみればいいですよ。「俺さ、案外売れてる言論人なんだけど、統一教会をカルトって言い切らないようにするわぁ」って。多分、大学当局の人は、「テメェこら、ふざけんな!毎年新入生を統一教会の魔の手から救うため、大学当局がどれぐらい苦労してっか知ってるだろうがよぉおお!」とブチ切れると思いますよ。
東さんは、とても危険な遊戯に手を突っ込んでしまっているんです。極めて危険。本当に危険。
このように、東浩紀さんは、知らないはずないのに、「統一教会がカルトであると断定できない」と韜晦っぷりを見せつけてくれています。
そこ。まさにそこ。
そこにこそ今回の東さんの抗議文の最大の問題が潜んでいるんです。
例えばこの一節なんですがね。
これよく読めば不思議なことが書かれています。何度読んでも「許されない行為」の主語は「元首相の銃撃」です。
なんやねんそれw
元首相「以外」が銃撃されとったら許されてたかもわからんのかいw そんなもん、元首相だろうと横丁のご隠居だろうと、銃撃事件はどんなものでも許されるわけがない。元首相だろうと東浩紀だろうと酒屋の親父であろうとなんであろうと、命の価値に変わりはない。
「いやそうじゃない。選挙活動の現場で殺されたという政治性に着目した発言だ」「テロだからことさら問題視してるんだ」と東さんのこの発言を擁護したけりゃすりゃいいですけど、それ墓穴です。
「政治性を帯びた暴力」「テロ」ならば、辻元清美が受け続けている暴力だって、福山哲郎が受けた暴力だって全く同じ「政治性を帯びた暴力」だし「テロ」。違いは死んでるか死んでないかだけ。
「殺されたか殺されてないかが線引きだ」って規定しちゃうと、部分的に暴力の容認(死んでない暴力は問題ないって言ってるわけですからね)になっちゃうから、余計変な話になっちゃう。
それに、東浩紀さんが、辻元清美や福山哲郎に対する「テロ」に、なんかことさら「許されない!!!」とか言ってた痕跡はありません(あるかもしれないあったら教えてね)。
つまり、東浩紀さんは、「安倍さんが殺されたから許されない」と言っているに等しいわけです。
別にそれをもって「東浩紀は安倍シンパだ!けしからん!」と言いたいわけじゃないですよ?別に、東さんが熱心な安倍支持者だって構わない。それこそ思想信条の自由です。しかしそれでも、東さんのあの文章に「政治性」が潜んでいることは間違いがない。いいか悪いかは別として、あの文章には「安倍さんの死」を他の暴力や他の死亡事件と並列にせず特別視しているという段階で、厳然として「政治性」が潜んでいる。
そしてその「政治性」こそが、なぜ「安倍晋三であれ誰であれ、政治家や公職者が、統一教会と付き合ってはいけないのか」を雄弁に物語ってくれているのです。
先に触れたように、東さんの年齢や経歴から考えて、東さんが「統一教会はカルトである」ことを知らないとは考えにくいです。
が、東さんはあの文章で「統一教会はカルトである」と言い切ることを避けている。
そして東さんのあの文章には、抜きがたい政治性が潜んでいる。
だとするならば、あの文章で東さんが「統一教会はカルトである」と断言することを避けているのは、「政治性」が存在しているからである…と言わざるを得なくなります。
ここ!
ここなんですここ!!!
だから政治家や公職者は、カルトと付き合ってはいけないの。
安倍晋三であれ誰であれ、政治家がカルトと付き合うと、その付き合いの度合いに関わらず、一種の「お墨付き」を与えてしまうことになる。そしてカルトの側はその「お墨付き」を根拠に、霊感商法や洗脳や偽装勧誘などの、不法行為をどんどん広めていく。
その「お墨付き」の威力がどれほど甚大かは、東さんがはからずも証明してくれています。だって、東さんは、これ以上わかりやすい事例はないってほどの典型的なカルトである統一教会を、東さんの政治性ゆえに「カルトだ」と断定できない立場に追い込まれてしまっているじゃないですか…。
と、このように、東浩紀さんが公表した「東浩紀が統一教会を擁護しているというデマにつきまして」なる文章は、タイトルや東さんの意図とは裏腹に、実に見事に
東浩紀が統一教会を擁護していると立証してしまっている
政治家が統一教会と付き合うことがいかに危険かを立証してしまっている
という結果を産んでしまってるんです。
もうね、ほんとひどい。ほんと醜悪。
こんなんで言論だなんだのって言われても、おかしくっておかしくって、臍の上に乗っけた先祖供養の壺で茶が沸いちゃいますよ。
ーーーーー
※なお、このニコ生の動画で行われた、東浩紀、三浦瑠麗、石戸なんちゃらによる「福島瑞穂の発言捏造事件」がいかに悪質であるかについては、あままこさんなる方のブログで詳細に解説されていますので、よろしければそちらをご覧ください