何故ネット民は義務教育で習う群選択説の誤りを忘れるのか?
少し前にメンズコーチジョージ氏のこんな動画が話題になった。彼の主張を簡単にまとめると「男性は使い捨ての性。例えば無人島に男女10人送り込まれたとすれば、男性は1人残れば子孫作れるので9人は不要。しかし女性は1人減ればその分残せる子孫の数が減る。だから男女は先天的に命の価値が違うので男性は命懸けで狩りに行かなければいけないんだ!」という主張である。
ここで義務教育をキチンと履修している私の読者の皆様なら「小学校の社会科や理科の授業受けてないのかよw」で終わりであるが、ネット民の大半はそうではないっぽいので、幼稚な話にはなるが少しだけ小学校で習う社会科と理科の内容をおさらいする。
とりあえず無人島に男女10人送り込まれた場合。短期的には男性1人で子孫を残すことは可能だろう。しかし中長期的な視点で見るとそうではない。まず男性1人で女性10人と子供を作った場合、当然に次代を残す為には近親婚するしかなくなり、近親婚は遺伝子異常を引き起こす。更にそもそも論で言えば「女性が1人減れば子孫の数が減る」というのは個体レベルで見た場合にのみ成立する話だ。群れ全体で考えると女性の数が多ければ、当然それだけの食料や資源の確保、インフラや秩序の維持が大変になり、更に子供が生まれるとなると当然その分だけ負担は増大する。ジョージ氏は男性だけが狩りに行く事を前提として話を進めていたが、そうなると当然に群れが順調に回り子孫の数が増えれば増えるほど群れ全体としては破綻を迎えていくことだろう。
と考えた場合、近親婚云々は抜きにしても群れを維持する為に男性はもう1人ぐらい確保しておくべきだろう。何かの場合に備えて更に1人用意した方が安心だし、子供が生まれて必要になってからだと遅いので更に1人確保するのが合理的だ。更に群れの規模が増えると肉だけでなく水も必要になるし、肉や水を運ぶ道路や群れの住居も拡張整備維持する必要があるので、その為にやはり男性はもう2人くらいは欲しい。その男性グループと狩りに向かう男性グループは離れて作業する事になるので連絡役は欲しいし、報酬の分配や役割の負担を巡る軋轢が予想されるので調停役も欲しいし…となっていった結果こそが私達の社会である。皆様も小学校で習ったはずだ。
次に理科の復習をしよう。ジョージ氏の主張はその正誤は別に…というか誤でしかないのだが…群選択説という考え方に基づいている。群選択説とは雑に言えば。生物の進化は個体ではなく群れ全体の利益の為に起こるという考え方だ。「女性は子供を産めるから男性より大事にされるんだ!」というジョージ氏の世界観の根幹であるし、義務教育をキチンと受けてなかったネット民は漠然とそう考えている方も多い。しかし義務教育で習う通り、この説は誤りだ。
例えばある種の鳥が外敵を見かけた際に警告音を鳴らす行動をするとしよう(実際シジュウカラはこのような行動をとる)。これは言う間でもなく自分の居場所を仲間だけではなく外敵に教える行為でもあるので、個体に危険な行動であり「個体は自分の生命や遺伝子を最優先する」という前提に反するものだ。しかし個体にとっては危険であっても、鳴き声を聞いた群れは速やかに避難して群れ全体の生き残る確率は高まる。このような利他的行動は群選択によって進化した…と群選択説では説明される。
しかしこの群選択説には2つの大きな誤りがある。その1つは「利他的な個体の淘汰」と「群れ間競争」である。
もし上記の鳥の群れの中に外敵を見かけても警告音を鳴らさない利己的な個体が産まれたどうなるだろうか?この個体は自分は危険を侵すことなく、他の個体の警告音によって生き残ることが出来てしまう…しかも警告音を出さない分だけ他の個体よりも有利に。結果、このような利己的な個体はより多くの子孫を残し、そして群れ全体に遺伝子が広がっていくだろう。つまり群れの利益になる利他的な行動は個体レベルでは不利になり遺伝子淘汰されてしまう為、進化の過程で排除されてしまうのだ。
もう1つは群れ間の競争である。群選択説では群れ同士が競争するので、より協力的な群れが生き残ると考えられるが、人間の群れを観察すれば分かるように群れ間の競争よりも群れ内の個体同士の競争の方が遥かに厳しい。これは自然界も同様である。例えば人間に比較的近いチンパンジーも群れで生活するが、チンパンジーの雄はカーストの高い雄が交尾や餌を優先的に得られる為、他の雄と同盟を結んだり裏切ったりしながら熾烈な権力闘争を繰り広げたり雌を強姦したり自分の利にならない雌を食い殺したりし、雌も自分と子供が群れで生き残る為に他のメスの子供を攻撃したり邪魔になった自分の子供を殺したりする。これらの行動が群れの利益にならない事をは言うまでもない。要は群れで生活する動物は群れの利益のために行動しているように見えても、実際には個体レベルでの激しい競争を繰り広げているのだ。
とここまでが小学校の理科の復習だ。群選択説に代わる「進化の単位は個体ではなく遺伝子である」とする説は、現在「血縁選択説」や「包括適応度」等と呼ばれているが、それは皆様が既に中学で習ったことなので説明は省く。雑にまとめれば群選択説は利他的な行動の進化を説明しようとしたが、個体レベルでの淘汰圧を考慮していない欠陥ある理論だったということだ。
しかしながら、こう思った方も多いだろう。「群選択説が誤りであるのは分かった。というか小学校で習っていたのを思い出した。しかしながら現代社会は明確に男性の命より女性の命の方が重く見られている。例えばタイタニック号では女性が優先的に救命ボートに乗せられ男性生存率20%に対し女性の生存率は70%だった。こうした女性>男性という優先順位は普遍的・先天的なモノではないか?」と。その答えは結論から言えば「ある程度は先天的だが普遍的ではなく環境によって幾らでも変わる」だ。
現代日本に生きる皆様の直感に反する話だと予想されるが、人類史において間引きの対象は常に女児だった。女児殺害はギリシャの黄金時代からペルシャ帝国の栄華まで人類のほぼ全ての社会に蔓延している。アラビア圏ではムハンマドがコーランで禁止するほど女児殺害は蔓延しており、西洋では農業に従事しない/出来ない女性は飢饉の度に釜茹でされ、アフリカ圏に至っては今でも行われている。WHOの作ったパンフレットによればパキスタンや西アフリカの地域で広く蔓延しているとのことだ。
この理由は言う間でもなく「貧困と飢餓」によるものであり、あの群選択説の熱心な支持者であったダーウィンでさえ女児の間引きは人口爆発による飢餓から人類を守る最も重要で現実的な抑制策であると信じていた。実際WHOのパンフレットでも女児間引きは高等教育の不備と貧困率の高い地域ほど顕著であると記されている。(教育の欠如は女児間引きの独立因子ではなく貧困率の従属因子な気もするが、ここでは置いておく)資源がなくキャパを増やせない或いは減らさなくてはならない人類種の群れにおいて、雄より労働力としては劣り尚且つ獲得役割を期待出来ず、群れに妊娠出産の関係上生殖コストを課さざるを得ない雌を雄より優先させるわけにはいかないのだ。
貧困と飢餓による女児間引きの記録に関してはアジア圏も例外ではなく、日本に比較的近い中国にもある。例えば布教の為に16世紀後半に中国を訪れたキリスト教宣教師は中国人の母親が女児を殺してる姿がわりと普通に見られることを発見して報告している。その理由について17世紀に中国を訪れたイエスズ会司祭であるMatthaeus Ricciusは教会に「貧困が原因だね」と報告した。その様子も具体的に報告されているが、気分を悪くする方も多いと思われるので、そういうのに弱い方は「ママが女児を溺死させる」とだけ頭に入れて引用を読み飛ばして欲しい。
現代社会に生きる我々には到底容認できない残虐な行為のように思えるだろう。しかしそれは現代社会で生きる我々だからこその感覚であり、このような強烈な感覚ですら環境次第で幾らでも変わりうるということだ。そしてこの事実は現代社会においてどうして女性が男性より大事にされるか?の答え合わせにもなっている。女児間引きが貧困や飢饉によって起こるという事実は、裏を返せば人類社会における女性の価値は「豊かさ」とニアイコールである事を示唆しているのだ。
人間の雌は生殖コストが莫大だ。全動物を見渡しても10月10日妊娠し、出産後1年以上母乳を与え続ける生物は中々いない。そして自然界は「生殖コストを多く負担する方が求愛される」のが原則だ。なので当然に生殖コストを雄が多く負担する場合は雌が雄に求愛する事になる。例えば孔雀やグッピーの雄の派手な雌の気を引くための「婚姻色」というのは有名な話だが、実は雌側が婚姻色を出して雄に求愛するのは生物界において珍しい話ではない。例えばタマシギはオスが抱卵や育児をやるのでメスはオスよりも大きく鮮やかな色彩をしており求愛もする。
写真引用:https://ebird.org/species/grpsni1?siteLanguage=ja
またタツノオトシゴはオスが育児嚢に卵を産み付けられるという形で出産するのでメスはオスに求愛ダンスを踊る。
またまたジュズカケハゼは雄が巣穴を作るので雌の方が漆黒に染まり求愛する。
写真引用:http://zakonomizube.web.fc2.com/fish/musashinojyuzukakehaze.html
他にもカマキリはシクリッドはハイエナはペンギンはレンカクは…と無限に話を続けられるが、もう充分だろう。要は「女性は子孫を残せるから男性より重視される」的な言説を唱えるジョージ氏やネット民の最大の勘違いは「女性は生殖コストを男性より負担するから求愛される」を「女性は生殖するから求愛される」と騎士性欲と平和ボケで読み違えてる事にある。それ故に鮭や蛙なんかが典型だが雄雌の生殖コストが限りなく近い場合、雑に卵を産んで雑に精子をぶちまけて死ぬという求愛も何もない形になるのだ。そしてコレは人類においても決して例外ではない。
前述したように人間の雌は生殖コストが莫大である。しかしながら人間の雄が負担する生殖コストも決して低くはない。なにしろ女性の社会進出が叫ばれる現代社会においても主たる生計維持者の95%は男性だ。更に最近は家族の食い扶持を稼ぐだけではなく、家事・育児にも積極的にコミットすることを要求される。更に更に最近は自分の機嫌は自分で取る1方で妻の機嫌を常に取ったり、DVされても泣き寝入りしたりする事も求められるし、離婚した時のデメリットはあまりに甚大だ。社会が豊かであれば、こうした女性の要求にも応えることが出来るのだが、社会が厳しくなるとそうはいかない。換言すれば女性の性的価値とは「女性側の要求つり上げに対して男性側が何処までコストを払えるか?」にバインドされてるのだ。
それが可視化された事例こそがコロナ禍におけるナイトワーク不況だ。コロナ禍で社会が厳しくなった中、バー,キャバレー,ナイトクラブは現在進行形で倒産しまくり、夜の仕事から昼への転職に特化した人材紹介業「昼job」では求職者がコロナ前の約3倍にまで増加した。社会が厳しくなると女性の性的価値もそれに比して下がる…が市場という形をとった現象だ。
「女性は子孫を残せるから男性より重視される」という考え方は、あまりに短絡的かつ歴史的・生物学的な観点からも誤りであり、何より騎士性欲と平和ボケに満ちた妄言だ。女性の価値は社会の豊かさに大きく依存しており、現在の先進国のように社会が豊かになるほど女性の社会的地位は向上する1方、貧困と飢饉が蔓延する時代と地域では女性は間引きの対象にすらなってしまう。
今先進国は「少子化」という形で豊かさの終焉を迎えつつある。そして男性は自身の性に課せられる生殖コストの重さによりmgtowや寝そべり族が激増している。付け加えれば女性の生殖コストは医療技術の進歩や男性側の意識変化によって比喩ではなく人類史に類例を見ないほど軽減されている…にも関わらず、女性達は相変わらず男性の生殖コストを重くする事に熱心だ。結果、少子化は加速し豊かさは消費されていく。そしてかつてこれらの解決策と考えられ、先進国が文字通り世界を挙げて実現しようとした「女性が社会進出し男性同様に自分より下位の個体を養ったり求愛したりする」は未だ起きない。何より絶望的なのは女性が「男性の生殖コストが自分達と同等かそれ以上になりつつあること」「自分の性的価値が社会の豊かさにバインドされてる」事を認識出来ない点だ。何故認識出来ないのか?その客観的根拠は?等は以下の記事にまとめたが、雑に言えば「女性は男性に比して時空間の認知範囲が狭い」だ。ただこんな事…飢餓どころか余剰資源が豊富になる…事態は比喩ではなく史上初なので100年単位程度で意識をアップデートしろという方が無茶な相談なのだろう。
我々が今対面してるのは「女性が男性に要求する生殖コストを吊り上げられるような社会の豊かさを維持する為には女性の要求する生殖コストを引き下げなくてはならないのでは?」というパラドックスだ。こういう話をすると「ならそんな社会は滅べばいい」と言われそうだが、その後に来る社会が如何なるモノになるか?は前述の通り人類史が答えを出している。
1つだけ良い事は男性は豊かさが終焉を迎えてもあまり影響がないことだ。何しろ男性は社会の豊かさの恩恵…社会保障・男性支援や福祉・騎士性欲の庇護・困窮した時のシェルター等…をそもそもあまり受けてないのだから