結成1年目から何度も「ギリギリ」だったKAT-TUNの歴史。“6人から3人へ”年表と共に振り返る
ギリギリでいつも生きていたいからーー。
2006年3月リリースのKAT-TUNのデビュー曲「Real Face」の、そんな歌い出しそのまま、常にギリギリで駆け続けた20年だったのかもしれない。
2月13日、KAT-TUNの3月31日をもっての解散が発表された。現在の3人のメンバーのうち、亀梨和也は退所、上田竜也と中丸雄一は、STARTO ENTERTAINMENT社に所属のままそれぞれ個人として活動していくという。
KAT-TUNとは、一体何だったのか。
ジャニーズタレントは、さわやかさや王子様的気品といった魅力のいっぽうで、“不良ぽさ”という魅力も、ひとつの大きな柱となっていた。
その“不良ぽさ”とは、旧来は社会に理解されず愛に飢え孤独や寂しさを併せ持つような、ジェームス・ディーン的要素が強かったかもしれない。しかし、KAT-TUNというグループから漂うのはキラキラではなくギラギラ、そしてオラオラ。
そんな要素を前面に打ち出し、統一感よりも個々を打ち出す雰囲気漂うグループだった。ちなみにデビュー時のコンセプトは「ブラック&ワイルド」というものだった。
いわゆる「ジャニーズぽさ」が希薄だったことが新鮮でもあり、時代の空気感にもちょうどハマったのかもしれない。
冒頭のデビュー曲、「Real Face」は作詞・スガシカオ、作曲・松本孝弘(B’z)のタッグによる、デビュー時の勢いをそのままブチ込んだようなハイテンションなロック系チューンで、デビュー曲にしてミリオンセラーを記録した(それまでの旧ジャニーズ事務所のデビュー曲でのミリオン達成は、近藤真彦の「スニーカーぶる〜す」とKinKi Kidsの「硝子の少年」の2曲)。
結成は2001年。ジャニーズJr.(現ジュニア)当時から高い人気と大きな注目を集める存在であったが、05年1月放送の連続ドラマ『ごくせん』第2シリーズで亀梨と赤西が出演、ドラマ人気と相まって、その人気と知名度が一般層にまで拡大した。
その余韻が残る同年10月には亀梨が当時NEWSのメンバーだった山下智久と連続テレビドラマ『野ブタ。をプロデュース』に出演し、役名そのままのデュオ・修二と彰としてリリースした主題歌「青春アミーゴ」がミリオンセラーの大ヒットを記録し、一般層まで強い印象を大きく残す。
そしてそれらが重なることが大きなブースト効果となり、06年3月には史上初のデビュー前のグループによる東京ドーム公演を成功、その5日後にデビューシングル、ファーストアルバム、DVDの3作同時リリースと、そのグループカラーそのままのオラつき感あふれる勢いのままの強烈なスタートダッシュだった(05年1月『ごくせん』→10月『野ブタ。』→11月『アミーゴ』→翌06年3月デビューというスピード感!)。
そんな勢いが持続する真っ只中、デビューからわずか7ヶ月目という06年10月に、赤西仁が米国への語学留学のためグループ活動から離脱、5人組での活動期間に突入する。その後07年に活動復帰するものの、10年にグループを脱退した。
赤西は雑誌『Myojo』の毎年恒例の読者投票企画「あなたが選ぶJr.大賞」で最も大きな注目を集める「恋人にしたいJr.」部門で3年連続1位を獲得するなどデビュー前から絶大な人気を誇り、亀梨との組み合わせは「仁亀」と呼ばれるなどグループの顔的存在でもあった。
グループにとってはその離脱は大きいはずで、そういう意味でもデビュー1年目から「ギリギリ」と直面するグループだったのかもしれない。
“不良ぽさ”を前面に押し出したグループとしてデビュー
強烈なスタートダッシュの直後離脱した赤西仁
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ライター・編集・インタビュアー・アイドルウォッチャー(男女とも)。ウェブや雑誌などでエンタメ系記事やインタビューなどを主に執筆。
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