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幻と消えた「手賀沼ディズニーランド」計画。なぜ“常磐線の我孫子駅”近くの“日本一水が汚い湖沼”に誘致しようとしたのか

ディズニーの日本誘致は、戦災復興が終わる昭和30年代頃から始められていました。しかし、ディズニー経営陣はなかなかクビを縦に振りませんでした。やはり、アメリカ文化のディズニーが簡単に日本で受け入れられるとは考えていなかったようです。 ディズニーを国内へ誘致しようと考えていた人物は数多く、無数の“ディズニー計画”が存在します。(※本記事は、『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)より抜粋したものです)
舞浜駅

ディズニーの玄関となる舞浜駅。計画時は西浦安駅という仮称で、駅名が決まるまでの過程にも紆余曲折があった(撮影:小川裕夫)

承諾を得られなかった「まがい物のテーマパーク」

例えば、興行師の松尾國三は昭和36(1961)年に奈良ドリームランドを、昭和39(1964)年に横浜ドリームランドを相次いで開園させました。 松尾はアメリカのディズニーランドに感銘を受けて、日本国内にもディズニーを再現しようと考えました。しかし、ディズニーからの承諾を得られず、奈良ドリームランドと横浜ドリームランドはディズニーのエッセンスを取り入れた、平たく言うところのまがい物のテーマパークになってしまったのです。

ディズニーを「千葉県の手賀沼湖畔」に誘致する計画

広報 あびこ

『広報 あびこ』に掲載された東京ディズニーランドの計画図(『広報 あびこ』昭和36年1月号より)

松尾のように実際に開園まで漕ぎ着けた例は少ないのですが、ディズニーを誘致する計画は無数にあり、なかには実現可能性の高い計画もありました。そのひとつが、千葉県の手賀沼湖畔に計画されたものです。 同計画の実現性が高かったと断言できるのは、自治体の広報誌でもある『広報 あびこ』に計画図が掲載されたからです。自治体の広報誌に掲載されるからには、計画は最終局面まで進んでいたと考えられます。 柏市・我孫子町(現・我孫子市)・沼南村(沼南町を経て2005年に柏市と合併)の3市町村の広大なエリアに計画されたディズニーランドは、ほかの計画や浦安沖の埋立地に結実した東京ディズニーランドと区別する意味から、関係者の間では「手賀沼ディズニーランド」計画と呼ばれることもあります。一時期は水質汚濁で国内ワースト1位という不名誉な称号を得ていた手賀沼に、なぜディズニーを誘致する計画が浮上したのでしょうか? 現在の手賀沼からは想像しにくいのですが、手賀沼の来歴を知ると決して不自然な話ではないことが透けて見えてきます。 現在の手賀沼湖畔は閑静な住宅街となっていて、東京のベッドタウンとしての役割も果たしています。手賀沼の最寄駅は常磐線の我孫子駅で、朝夕は通勤・通学の利用者で混雑します。 しかし、我孫子が東京のベッドタウンになっていくのは昭和40年代からで、それまでは農村然としていました。
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別荘地として開発されていった我孫子
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フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーに。首相官邸で実施される首相会見にはフリーランスで唯一のカメラマンとしても参加し、官邸への出入りは10年超。著書に『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)などがある Twitter:@ogawahiro

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