更新日:2024年02月05日 08:58
エンタメ

施設育ち、毒親からの逃亡を経てセクシー女優に。”パチンコ系インフルエンサー”の壮絶半生

 18年ぶりに再会した母親に 「400万円出せ」と言われ……

ファン感コンパニオン その始まりは、新宿で会わないかという「ハハオヤ」からの電話だった。  子どもの頃は母親に会いたかった。でも会いに来てくれることは無かった。施設のスタッフにも母親を探してほしいと頼んだこともあるが、その話はいつもうやむやに終わった。ただ成長するにつれ、親戚からは母親には会わないほうが良い、もし会ったとしても、母親の言うことを聞いてはいけないと言われた。だから母親からの電話は、彼女にとって不穏なものだったし、結果的に不穏どころの話ではなかった。  母親は彼女が美容専門学校に支払った400万円を「返せ」と言った。どうせ親戚から借りたんだろう。私が返してきてやる。耳を疑うような言葉だった。彼女は母親から逃げた。でも追いかけてくる。その日はどうにかまいたが、今後は自宅にも乗り込んでくるようになった。母親はパチンコが好きな人だと聞いた。400万円も、その借金じゃないかと思わずにはいられなかった。  母親から逃げるため、何度も引越しをした。ちょうどその頃、かつての施設の後輩が自立援助ホームを抜け彼女を頼りに家に転がり込んできていた。彼女は、後輩の面倒も見ていた。表に名前の出ない仕事をしなくては。もっとお金を稼がなくては。そんな思いが彼女をAVの世界へと誘った。

初の仕事のギャラは2万円

 しかしそのスタートは過酷なものだった。社長が一人、マネージャーが一人の小さな事務所。面接が、本人の同意なく「本番」の撮影だった。全てが初めてのことで、それがおかしいのか、おかしくないのかも分からず、「ああAVの仕事ってこんな感じなんだ」と、なかば投げやりな気持ちにもなった。ギャラは手渡しで2万円。事務所に所属している先輩たちからも同じことをされたと後に聞いた。その事務所は、彼女の移籍後、潰れた。  そのようにして始まったセクシー女優としての人生。きっかけは母親からの逃走であり、お金が必要だったからだったが、彼女の中でふと芽生えるものがあった。ずっと施設育ちという偏見に晒され、今また偏見がある職業を生業とした。この偏見を覆したい。どうにか認めさせたい。セクシー女優という職業を認めてもらうというより、 反対した親戚にも。施設の恩人たちにも、自分の「本気」を誰かに認めてもらいたかった。  セクシー女優のほとんどは1年ほどで辞めていく。でも彼女は、30歳までの10年と決めた。負けず嫌いな性格が彼女自身を後押しした。 「10年間、私は、若月まりあという私と、プライベートの私の、二人の人格を生きてきたんです。どちらかというと、若月まりあとして生きた時間が長かったかな。でも若月まりあが色んなことを経験するたびに、プライベートの私も成長していくんです。人が見れば辛く感じることだったとしても、私にとってはそれが実感出来る日々でした」
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AV新法で仕事を奪われ、パチンコ演者に転身
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フリーライター twitter:@yuu_adachi

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