少し前の記事だが、ピピピピピさんが面白い記事を書いておられた。
今回のブログは身バレ防止のため少しフェイクが入ります。
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はじめに申し上げておくと、我が家はとくべつ貧困家庭ではなかった。
父親は国立大学の教員をしていて、国立大というのは独自の給与体系があるのだが、制度上は国家公務員で、それなりの給料はもらっていたと思う。
だが、父親はいわゆる経済DVみたいなことを母親に強いていて、大学からの研究費用が足りないので、母親には最低限の家計費を渡し、あとのほとんどを自分の研究に注ぎ込んでいた。年に百万前後くらいは本に使っていたと思う。父親の机の上に、一回で17万円分の本を買っている本屋のレシートがあってびっくりしたこともある。
後年、母に聞いたのだが、私が子どものころ、一家の生活費は5人で10万円だったそうだ。ここから5人分の食費、母の病院代、被服費、子どもの給食費、学校関連の費用などをすべてまかなっていたらしい。
物価が今よりもわずかに安いとはいえ、育ちざかりの子どもが3人いてこの数字はかなりきつかったのではないかと思う。実際、私は子どものころにアイスを食べたことがなく、牛乳パックを冷凍庫で凍らせたものを「アイス」だと信じていた。母親が「これはアイス」と子どもたちを騙していたからである。
小学生になると、休みの日に友達どうしで電車に乗ってでかけるということが何度かあったが、母親は電車賃しかくれないので、他の子らがマクドなどで食事を取っているあいだ、妹と二人で何も食べずに時間をつぶしたり、1人だけ飲み物で済ませたりなど、ちょくちょくしんどいことが増えてきた。このころになると、「うちにはお金がない」というのを強く認識するようになってしまっていた。
私は高校へ進学しなかったのだが、理由は母親が「制服が高くてしんどい」と電話で話しているのを聞いてしまったからである。
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さて、大学生のころである。
(※大学の費用は祖母が貯めておいてくれたもので、大検を経て大学へ入学した)
大学生になってとても気楽だったのは、まわりに貧乏学生が一杯いたことである。
当時よく行っていたのは、丸二食堂や、当時北白川にあったマダンや、学校の学食で、自分の中で外食といえば500円前後が相場で、1000円を超えた外食など数えるほどしかしたことがなかった。学食には100円のにゅうめんがあった。助けられた。
いつもお金はなかったが、まわりも同じくらいなかったので本当に気楽だった。
あるとき、サークル関係のイベントで知り合った男子と仲良くなった。
あとで知ったのだがこの人は医学生だった。
親は開業医で、かなり繁盛しているらしい。
もともとが鈍いのもあって、かなり親しくなるまで、私は格差に気づかなかった。
ピピピピピさんのブログにあるのとは反対で、当時の私はとにかく男におごられてはならない!という強い信念を持っていた。
だから彼氏にもおごってもらったことは一度もなかった。相手が申し出てもかたくなにおごられることを固辞していた。
当時のインターネットといえば、まだ2ちゃんがやっと知名度を持ってきたあたりで「モナー」とか「だめぽ」とかいう言葉が2ちゃん用語としてあったのだが、女叩きももちろんあって、男におごらせる女は最低!という風潮がとても強かった。
私はこれを真に受けて、すべての食事をワリカンにしていた。借りを作りたくないという気持ちもあった。
私はこの医学生と付き合い始めたのだが、医学生は、食事といっても丸二なんかに行かなかった。
オシャレなカフェとかに当たり前のように行く。一回の費用が丸二や学食の2〜3倍かかるところだ。
頑張ってワリカンにしていたら、私はだんだんお金がなくなってきた。
だけどそのことを言えなかった。お金がないのは私の問題だからである。
医学生は、基本的にはすごく良い人だった。
お金があることを鼻にかけるわけでもなく、エリートであることも特別、自慢もしなかった。ふだんの服装などもすごく質素で、親しくなるまでここまで裕福な人だとはまったくわからなかった。
だが、ときおり出てくるエピソードがやっぱりすごい。
ご実家は神戸なのに、お正月は東京に移動して、親しい親戚同士で集まって帝国ホテルで過ごすのが毎年の恒例行事だとか、ある日腕時計が壊れたので、母親に「時計が壊れた」と電話をしたら次の日に30万振り込まれていただとか。
「私の時計の100倍だね」と言ったら「そうね、アハハ」と言われた。
(私の時計が本当は1000円だなんてとても言えなかった。)
私はもともとが貧乏育ちなので、サラリと話されるお金持ちエピソードにビビってばかりいた。
半年ほど経ったころには、愛情よりもしんどさのほうが上回ってしまっていた。
何しろお金がない。
バイトが忙しいだのなんだの嘘を言って会う頻度をなんとか減らしているが、会うたびに予算以上のお金が出て行くのがしんどいわけである。だがワリカンをやると決めた以上はこれを守るしかない。「わけを話しておごってもらおう」とかは一切考えもしなかった。(それは私がアスペだからである)
知り合った頃は、自分と同じくらいの貧乏学生だろうと思っていた。そこがまずかった。
びっくりしたのだが、医学生のひとつ下の妹は現役タ◯ラジェンヌだった。
そう、あの有名な男装女性歌劇集団である。
付き合って半年ほど経ったある日、妹の舞台を観に行かない?と誘われた。
なんでも「家族枠」という特別な枠があり、良い席を優先的に取れるらしい。
家族枠なので、父と母も来るけどそこに君も入れてあげるよ。観劇後は皆で食事に行こう。
もちろん、私は、観劇に行くのであればチケット代は自分で出すつもりでいたし、その後の食事代も自分で出すつもりだった。だがこの二つを同時にとなるとすごく厳しい…。それどころか、その時の私には、宝塚までの電車賃すらなかった。
何かがスパークした。この人とは住む世界が違いすぎる。もうあかん、もう無理。
「すみません、行けません」
とだけメールを打って、その後一切の連絡を断ち切ってしまった。
今から思えば、私がよくなかったのはネットでの女たたきを鵜呑みにして、かたくなにワリカンをつらぬいたことだ。
ネットでの知らん誰かの意見よりも、相手本人がどう考えているかが重要なのに。こんな大切なことに、私はまったく気づいていなかった。
私は、相手にお金を出させるのは最低なのだ、最低な女にはなりたくない!と懸命にがんばってしまった。結果として相手から逃げ出してしまった。私は自分だけがつらいつもりだったが、彼だって困惑したと思うし、突然の拒絶に心が痛んだろう。理由も言わずに無言で去って行くほうがよほど最低だ。
今だからそう思えるが、当時はとにかくとらわれていた。
医学生は、自身が裕福に育ちすぎてしまったので、他者が困窮しているかということをみじんも考える人ではなかった。
私はこの人に「お金がなくて苦しかった」というのを最後まで言えなかった。なぜか言うことができなかった。
その後、何ヶ月かして、たまたま顔を合せる機会があり、この人に謝ることができた。
「あのときはごめん」とだけ言った。
意外なことに前の彼女も同じようにして無言で去っていったという。
私は、名も知らぬ前の彼女にしばし想いを馳せた。
この話を母親にしたら、口をあけて絶句していた。
「どうして私の娘なのにそんなにバカなの」と言われた。
おわり