<今回の内容>
- 1.長い前書き~実は修士課程で休学も考えていた私~
- 2.修士課程で留年した院生の経験談~成田ずみ『大学院生のブログ』のエントリ記事から~
- 3.最後に
- 4.補足:留年時の日本学生支援機構の返済型奨学金の打ち切りの話
- <重要な関連記事>
1.長い前書き~実は修士課程で休学も考えていた私~
大家好!您们吃饭了吗?皆さま、いかがお過ごしですか?食事はされていますか?管理人は、研究の論文をまとめたり、書類選考に送る書類を書いたり、このブログの清書をしたり、ついつい、一食を抜いてしまう。実は、よくやっていました。
修士課程の時は空腹よりも、将来が見えなくて見えなくて、不安にかられていました。一応、合同企業説明会にも顔を出したり、履歴書やESを出したり、就活っぽいことは実行していたものの、就職か、博士課程への進学か?図書館で役立ちそうな本を探しては読み、就職課に行っては院卒者の内定報告書を捲ったりと、手を動かす作業は続けておりました。
それぞれの進路に進んだとしたら、勤務先や大学院の近くに引っ越したほうがよいのか、生活費や研究活動費はいくらになるのか?身だしなみは?そもそも就職したら、投稿論文を先輩方と同じペースで書けるのか?悩みは尽きませんでした。
先輩を捕まえては相談にのっていただき、情報収集して、修士課程修了後、指導教官の許可を得て、指導を仰げたならば、
・一旦仕事に就き、「見習い院生」の研究生の身分で、働きながら研究を続ける
・博士課程に進学はするが、一旦休学して、フリーターをしながらゆっくり考える
というようなことをシュミレーションしたこともありました。
M2の秋、修士論文の後期報告会の頃、実は指導教員の先生が昔のご病気をぶり返し、「悠長なことを考えていたら、これから指導が仰げなくなるかもしれない!」と危機感を覚えました。その後、修論審査に合格後、激務をしていた指導教員の持病悪化にハラハラしたことは、次のエントリ記事に休学する時の注意点として書きました。
当時、新しく人間関係を築くことが不安だった私は、博士課程で別の大学院や研究室を探すよりも、修士課程でお世話になっていた指導教員や先輩方のいる研究室に進んだほうが、正直、安心でした。タイミング的に、その頃、私の先輩に当たる助教先生の一人が博士論文の審査に合格された直後、その助教先生の恩師が還暦前に急逝されたことも、修士課程と同じ研究室に所属し、ドクターコースに進む理由となりました。自分の指導教員が元気なうちに、投稿論文を書き、博士学位が取れたら何とか自立できるように、指導を頂きたい!と切迫していたのです。
(今となっては、到底、自立できるレベルには届いていないと反省しております)
修士課程修了後に休学が選択肢にあったものの、また進路についてリサーチ、修論を纏める作業事態はしていたこともあり、留年をせずに修士課程を修了。結果的に、私は続けて博士課程に進学しました。そのまま在籍年数中に博士学位を頂いて、大学院を出ていくことになったのでした。
2.修士課程で留年した院生の経験談~成田ずみ『大学院生のブログ』のエントリ記事から~
2-1.偶然、修士課程での留年経験談エントリにたどり着いた話
こんな感じで、私自身は院生時代、休学も留年も、することはありませんでした*1。周囲には、休学したものの、既に働いていた先輩がいました。また、修論を書くために出入りしていた会社でバイトを始めた後輩は、その仕事が多忙で留年したものの、バイトから正社員として採用されたため、M2から社会人修士生のような形で在籍し、M3で修論を出して修了していきました。
修士院生で留年したのは、この後輩以外は私の周りにはいません。後輩は近所の研究室の所属で、あまり私と接点がないまま、彼は修論を出し、巣立って行きました。このような感じで、私は院生時代、修士院生で留年した人とは縁がありませんでした。また、このブログの前身となる各種SNSをしていた時にも、修士院生で留年したことを書いておられるものを読んだことがなかったのです。
はてなブログを始めて8ヶ月、ひょんなところで今回、修士課程で留年した経験談のエントリ記事にめぐり会いました。それが、成田ずみさんの次の2つの記事です。
①修士院生が留年することになった背景と脱出へ向けた話
(*2017.5.23_リンク切れのため、表示できなくなりました)
zarameyuki.hatenablog.com
(*2017.5.23_リンク切れ表のため、示できなくなりました)
zarameyuki.hatenablog.com
2-2.各エントリ記事の内容
ここでは、①と②の大まかな内容を見ていきます。
①修士院生が留年することになった背景と脱出へ向けた話
①では、成田さんご自身が、まず、留年に至る背景について、主に5つを挙げて説明されておられました。
・ほぼ「初めての一人暮らし」で、同時に「研究、家事、新しい土地への適応」をこなさなければならなかったこと
・心身の調子が、人と会わないことで悪化し、それがによって人と会わなくなるという悪循環に陥っていたこと
・不安定であり、管理人の私から見ると「複雑な」家庭環境で成長された影響
・実家が「貧乏で」、仕送りを望めなかったため、学費免除でしのぎつつ、生活費は主に教育ローンで賄っていたこと
・自分に自信がなく、「勉強」で置いていかれても、人にアドバイスを乞うことができなかったこと
原因を見て改めてまとめると、環境の変化への不適応、心身の不調、家庭環境の複雑さ、経済的な不安定さ、そして自分に自信がない上に「尊大な羞恥心と臆病な好奇心」によって学問の面で助けを求められなかったこと、の5つだと私には思われました。
初めての一人暮らしについては、ゴミがたまると「ゴキさん」が出てきて、切羽詰まった自宅を同期の方に見られ、成田さんが「これはヤバいぞ」とか、「見栄を張っていても仕方がない」といったことを自覚し、改善に向かわれたようです。
自炊については、私も似たような感じで、ろくに自炊をしたことがなく、共感してしまいました。「洗い物がいやで、鍋すらつかいたくなかった」ところは、院生になって多忙になってから、私もそんな感じでした。自宅が卒業した学部の近くで、そこから進学したほうの大学院に通っていて、自転車で往復一時間、公共交通機関だと乗り換え込みで片道だけで一時間。引っ越すお金と手間を考え、研究室に泊まる日が増えました。
(研究室に3日引きこもったら、次は自宅に3日ひきこもる日々でした)
「貧すれば鈍す」と言う人がいましたが、お金がなくなってくると、食事より研究で使う本にお金を割きたくなってきます。食事をとらないと脳に栄養がいかず、糖分の不足で頭痛を抱えたり、イライラして周囲の人に当たったり、健康面でも対人関係の面でも、ろくなことがありませんでした。しょうがなかったので、資料代を食事に回し、学食で昼食と夕食はとるようにしました。あとは、料理好きの人がたちがいる理系の研究室に押しかけ、食事を提供してもらう代わりに買い出しに行ったり、そこらへんのライフラインは先輩にくっ付いて、どうにかしていました。
(あと、自炊のコツを教えてもらうこともあり、いろいろと今の生活に役立っています)
成田さんが仰っておられますが、このあたりは、素直に助けを他者に求められるか、そうでないかによって、生活が大きく変わってくると思います。私は自分がダメダメな上、他人様に助けを求め、(利害が一致するのなら)助かることが多いと学部の時に気がつきました。そこから、言い方は悪いですが、たかれる人にはたかり、その代わりに自分ができることは、可能な範囲で何かを差し出す方針に変えました。
(やり過ぎると、周囲に愛想をつかされるので、注意が必要ですが…)
成田さんの場合、指導教官の方に病院を探し、付き添って頂いたり、周囲の方々に書式のちょっとしたことでも尋ねたり、「ゴミ溜め発見事件」を境に、頼りすぎなくらい頼るようになられたようです。周囲の人たちは、SOSを発してくれなかった時は、手を出していいのか戸惑うことがあっそうで、助けを求める勇気は大切だなと改めて思いました。
さて、お金のことに関して、どうしたらいいのか?それは②のほうで、詳しく対処されたことを書かれておられています。
②実際に修士課程で留年してから修論を出すまでの話
その1.経済的な問題
②では、まず大きな問題として、経済的な面の問題が出てきます。①で触れましたように、成田さんは、学費免除でしのぎつつ、生活費は主に教育ローンで賄い、プラス奨学金とバイトで踏ん張っておられたようです。そのJASSOの奨学金の状況が修士課程の留年ということになると、
・日本学生支援機構(JASSO)のQ&Aによれば、「学力基準の要件に該当しません」ので、申請しても採用されず、「奨学金が停止される」旨があった。
とのこと。成田さんは、
いろいろな事情でやむを得ない場合、奨学金の停止をきっかけに、大学を辞めざるを得ない人も出てきてしまうんじゃないだろうか。
という指摘をされています。
奨学金の停止ではありませんが、ご両親に頼んでも奨学金申請に必要な書類が揃えられず、自力で学費が払えなくなり、学費を稼ぐ間、休学を検討されている方は学部生でおられます*2。実際、兄弟が多く、高卒で就職し、入学金や授業料を貯めてから入学してきた学部の同期は、在学中、仕事で身体を壊してバイトを続けられなくなり、学費が自力で賄えなくなりました。彼は4年次の前期に退学し、療養してから就職しました。同じ学部の後輩にも、ご両親の離婚を機に実家の資金援助がストップし、休学して働いていた人がいました。そういった人たちが実際にいるので、成田ずみさんの言うように、奨学金の停止をきっかけに、大学を辞めざるを得ない人の存在は確実です。
実家に経済的に頼れない。自力で稼ぐほどの仕事をすれば、研究に支障が出てしまい、永久に修士論文が書けなくなりそう。成田さんは、そのように考えた結果、
結論として、私は「国の教育ローン」を借りた。実はその前の2年間も、JASSOではなくこの教育ローンに頼って進学したのだった。理由は上記の通り、「JASSOは入学前に借りられないから」。新学期になると、(私の場合)引越し資金など、けっこうな大金が必要になる。はじめの振込みが7月では、全く、何も、間に合わないのだ。
ちなみに「国の教育ローン」は本人名義ではなく、親の名義などで借りることになる。いくら実質は本人が返すと言っても、どうしても融通が利かないらしい。
その代わりに、JASSOと違って手続きが早い。必要な書類などを送れば、だいたい2週間くらいでお金が振り込まれる。毎月ごとに振込みがあるわけではなく、最初にポンとまとまった資金が振り込まれるので、けっこうビビる。
という手段を取られたそうです。補足をしておくと、基本的に、日本の科研費や助成金というのは、申請をしても、お金が必要な時に必要な金額がポンと事前に支払われることがなく、事が終わってから、「かかった費用を計上したら支払いますよ」というシステムのところが多いのです。返済型奨学金を設けているJASSOも同様なんでしょう。このあたり、ものすごく不便なんですよね・・・。
なお、教育ローンには、成績が優秀だろうと、JASSOの返済型奨学金のように、返還免除や減免はないとのこと。また、
保証人も立てなければならず、それが立たない場合には、数十万円を払って保証機関にお願いすることになる(した)。
ということです。
残る学費免除のほうですが、留年すると、こちらは通りにくくなる模様。成田さんのご実家は「低収入」で、
はじめ2年間は、入学金 → 半額免除、授業料 → 全額免除となっていた。トータルで130万円くらいを免除してもらえるのだから、本当に助かった。
という方法をとられていたようです。それが留年となると、
この授業料免除も通りにくくなってくる。まあ、考えてみれば当然なのかもしれない。まじめに頑張って2年で出る人と、1年余計にかかる人。限られた予算を、誰に割くかという問題だ。
私の場合、前半を「休学」とし、後半だけ在籍する形をとることで、まずは年間の授業料を半分にした。その上で、ダメもとで後期の授業料免除審査にも申し込んでみた。
と厳しくなったものの、諦めず、後期の授業料免除を申請されたそう。しかし、結果は半額免除となり、成田さんは1年分として14万円になったそうです。「よかった」という、ご本人の声は重い…。
ところで、休学することになった場合、私立大学では「日本女子大の休学費用が高いこと」が昨年後半に話題となり、本ブログでもその女子大生の方のブログを簡単に紹介しました。私立大学も様々なようで、休学費用がかからないところもあるようですが、私の出身大学も私立で、休学中は先の日本女子大の半分くらいは払う必要があったため、休学が難しいようでした。そうした私立の一方、次のJ-CASTニュースで書かれているように、国立大学はその多くが免除され、ゼロになります。
成田さんの大学院は、休学費用がかからず、図書館も使うことができ、休学期間中も大学施設に出入りできるとのことです。私が行っていた国公立大学の大学院も、休学費用は不要で、諸手続きや復帰に向けた準備で先生に会いに行き、たまに休学中の院生が大学院に顔を出すことはありました。
何はともあれ、実家にも他者にも頼れる人がおらず、すべて調べ、行動した成田さんは、ご自身で金策をされたようです。地に足をつけ、ひとつひとつ、取り組まれたことは、並大抵のことではなかったと思います。心を打たれました。
あと、お金の話に関して、最後に私のお話をさせて頂きます。実家にいたとき、「返済型奨学金は我々が自身の返済に苦労したから、申請はするな!(その前に、させない)」と言っていた私の両親。学部から大学院博士課程まで、学費免除の通らない年の約7年間、生活費を含めたお金をすべて払ってくれました。その間、二人は過酷な仕事も引き受けたらしく、父も母も数回ずつ、体調を崩したことがありました(症状がひどければ、就業を継続できていなかった可能性も…)。
その後、実家に帰省したり、電話で親と話したりすると、育ててもらったこと、プラス学費の支払いを盾に、様々なことで「今まで育ててもらい、また長期間、大学院まで学費を払ってもらいながら、あんたは、いつまでも親に反抗するのか!」と、意見を言おうとすると、親に言われることがあったように記憶しています(私の言い方が悪いのもありますが)。結果、院卒後に親と私の関係が一時、ギクシャクしてしまいました。現在、電話で小言を1時間ほど言われると、聞き流せない状態の私にメンタル面の一時的な悪化を呼び起こし、翌日一日、私を手足が動かせないほど重くし、「機能停止」の状態に致します。
(その後、2018年の11月、実家の親と和解に向けて、私も動き出しました)
昔、研究室の先輩方に経済的なことを相談したところ、「両親の収入は十分あるし、学費の援助も言ってもらったけれど、将来、喧嘩になった時に学費援助を盾に、親に言われっぱなしにされるのは目に見えるから、言われないために返済型奨学金を借りている」という先輩もおられました。
そういうわけで、実家が裕福でも、そのお金を稼ぐ親が体を壊してしまったり、所持する両親や親族との関係を考えると、親と子の関係が将来的にギクシャクすることが予想されたりします*3。
援助を盾にされ、言いたことが言えないのを我慢して、学生時代に脛を齧らせてもらうか、言う権利を確保することも含め、覚悟の上で多額の返済額を背負うか。
自由に使えるお金でなければ、実家が裕福であったとしても、何かしら、将来に響く面倒なことは避けては通れない、ということがある人もあるかも?というお話でした。
その2.研究面のこと
修士課程の学生にとって、修士論文を書くなら、避けて通れない問題です。研究をする大学院の修士課程に来たのなら、修士論文を書いて提出し、合格しないといけません。修士論文も含めた研究について、成田さんが気を付けられたこととして、
・理想を高く持ちすぎない
・積極的に助けを求める
という、この2つを挙げておられます。一つ目の「理想を高く持ちすぎない」ことは、「60点をめざす」くらいにして、成績は「優」ではなく「可」くらいの修士号を取りに行く気持ちで、逃げるクセをつけないことが重要とのこと。これは、私もそのまま、自分が修士論文を書いていた時に気づいたことです。それと同時に、締め切りのある博士論文についても、そして修士卒で先に就職した同期が仕事について聞いたときも、同じく重要だと思いました。とにかく、期日までに仕上げることを目指そう!と。
もう一つの「積極的に助けを求める」ことは、①のところで書いたように、恥や外聞を捨てて、SOSを発しましょう。先輩に当たる助教先生の場合、修論の締切一か月前に交通事故で骨折をされたそうで、留年が脳内にちらつきながら、PCで何とか書き上げたそうです。M2の秋、M3春(前期終了の場合)や秋になってくると、修論の最終報告会で厳しい指摘を受け、泣けるなら泣きたい日も出てくるでしょう。
自分を振り返ると、人の帰ったコピー室を占領し、私は泣きながら、修論に載せる予定の一覧表をペン書きで作り、独り言を呟き、作業をしていました。翌日の昼、地図をコピーしにやって来た同期の中国人留学生に、中国語の部分を見せ、あーだこーだ、意見を求めたのを覚えています。
帰宅が面倒であれば、研究室に泊まり、食事に困れば学食に行ったり、自炊の得意な人に「たかったり」、アホなことで生きておりました。
その3.メンタル面のこと+留年生どうしで集まる
「リフレッシュはきちんとすること」、それから「留年生どうしで集まる」こと。塞いだ気持ちを切り替え、作業効率をよくできます。また、同じような立場の仲間と集まり、情報交換をすることによって、焦った気持ちを共有すると、少しでも気楽になることがあります。
先の私のように、自分の専門が分かる同期を捕まえて、あーだこーだと意見を求めてもよいでしょう。夜中の作業で不規則な生活が続いたら、適当な日には日に当たって、体内時計をリセットしてもよいでしょう。詳細は、修士課程・留年のまとめ - 大学院生のブログの該当項目にありますので、そちらをお読みになってください。
3.最後に
②の「まとめ」のところで、成田さんが「無事に修士論文の審査に合格した。そして、博士後期課程への進学も許可された」ことがあり、お金・研究・メンタルの面で、苦労をされながらも、次のステップへ進まれたことが分かりました。
成田さんご自身が②のエントリ記事で書かれていますように、今回の経験談は、主に成田さんの場合のお話です。他の人たちのケースとは異なるかもしれません。そうであったとしても、なかなか、修士課程で留年する経験談は少なく、悩まれている方にとっては助かる情報だと思いました。
最後の最後に、私のほうとして一つアドバイスです。途中で少し触れた後輩のように、縁があれば、バイト先に交渉をし、修士課程修了、もしくは博士課程に進んだ後、契約社員でもパートでも、働ける先を確保しておくと、経済的に安心です。ほかのエントリ記事を拝読したところ、成田さんは出版物を扱う会社でアルバイトをされているようです。
知人によれば、東京でなくても、京都、大阪あたりは、学術出版社ほか、大学生や専門学校生が多いこともあり、アルバイト情報誌で探せば、フリーペーパーの編集部で、画像編集ソフト(Adobeのフォトショやイラレ、インデザイン等)が操作できるDTPに詳しい人を募集していることがあります。芸大生・美大生ほか、同人活動や趣味でDTPを扱える人なら、バイトをしながら、出版の勉強ができる環境があります。実力をつける上でも、応募する価値はあるのではないでしょうか?
(条件を見ると、けっこう、ハードそうではありますが…)
長くなりましたが、この度、紹介を許可してくださいました、成田さん、ありがとうございました。この記事が皆様のお役に立てたら、幸いです。
4.補足:留年時の日本学生支援機構の返済型奨学金の打ち切りの話
先ほど、私が読者になっているnext49さんの「発声練習」に、この記事と関係するエントリが出たので、貼っておきます。内容を読んでいると、機構の名前を変えたほうが適切ではないかと、正直、思いました。某文句あるか省が、「手に職」を付けられ、きちんと学歴として履歴書に書ける修了資格を与えられる制度を専門学校に課し、大学以外を出ても、安定して食べていける職業訓練の修習システムを作ってくれたら、いいんですけどね。
続報:返済型奨学金を借りている学生たちと、中退した人たちの現実。JASSOの返済型奨学金の正しい情報が載っているそうです(Next49さんTwitterより)
「卒業留年の後始末 奨学金返済の延長手続き」:留年が決まってから奨学金返済への開始期間が始まらないよう、出すための在学届けについて、書かれています。
卒業留年の後始末 奨学金返済の延長手続き | 薬学部 卒業留年からの再起
<重要な関連記事>
↓ここの「3-3.学費の工面について」に、教育ローンの詳しい話があります。
*1:先述のとおり、指導教員の先生のご体調もあったためか、大学院で学位を出して頂き、私は「退院」しました。
*3:その後、先述したとおり、本記事を公開した2017年2月くらいいまでに、私のほうから謝罪をし、今まで育ててもらい、援助をしてもらったことに感謝をしつつ、角をたてないような言い方で心境を説明しました。和解はしていると思っています。ただ、しばらく実家からの電話には出ないようにしていました。受話器をとり、小言を言われた瞬間、泣きそうになるほどメンタルがやられるくらい、私のほうは回復していませんでした。そのくらい、精神的拒否感が強く、苦しんでおりました。私があれこれ言わなかったら、こんな状態にはならなかったのか、と色々とぐちゃぐちゃ、悩み続け、2018年11月の半ば、発達障害の番組を見て分かろうとした親と話をし、謝罪がありました。とはいえ、2018年の11月の現在、成長期のトラウマも思い出し、その影響しから脱せず、まだ実家からの連絡、私は怖いです...。